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富高飛行場跡地 [├空港]

  2009年10月訪問 2019/1/2更新  


無題4.png
撮影年月日1947/11/06(USA R169 61)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

宮崎県にあった「富高海軍航空隊基地」。

先頭のグーグルマップ、不思議なことになっていますが、

紫のポリゴンは、現地しらさぎ公園内に展示してある地図から、

そしてグレーのポリゴンは、1947年の航空写真で目立っているものです。

大分悩んだんですが取捨できないため、併記することにしました。

防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調

には、「昭15建」とありました。 

また、防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:富高 建設ノ年:1940 飛行場 長x幅 米:1800x1000芝張ノ内700x60 600x60コンクリート 主要機隊数:小型練6.0 主任務:教育 隧道竝ニ地下施設:居住、指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、魚雷調整場、魚雷格納庫、工業場、倉庫 掩体:中型小型無蓋48 

資料によりますと、「700x60,600x60のコンクリート舗装」とありますね。

で、上の航空写真で白っぽく見えている箇所の長さを計ってみたんですが、

南北方向の最も大きなモノ(グーグルマップ、グレーのL型「コンクリート舗装A」)でも520mしかなくて、

長さが足りません。

ナゾです。

当地は1947年3月以降の写真しか閲覧できないため、

舗装が剥がされたという可能性もあるんですが、

ハッキリしないため、以下剥がされていないという前提で話を進めます。

ご了承くださいませ。

 

D20_0240.jpg

後述しますが、これは有蓋掩体壕の一部が残る場所にあった説明版の一部です。

最も長いL型のコンクリート舗装が中央上に映っており、「駐機場跡」とあります。

長い舗装部分に沿うように格納庫っぽいものも並んでますし、確かに駐機場っぽいです。

位置も敷地の角、川沿いであり、「これは駐機場跡」という説明はオイラも妥当なものだと思います。

とすると、終戦から2年後の航空写真に映っている最も長いコンクリート舗装が、

滑走路ではなくなるわけで、防衛研究所の資料に出てくる「700x60,600x60のコンクリート舗装」

は一体ドコ? ということに。

それから、上の写真の中央ちょい右下に「V字型滑走路跡」が目立っております。

作図をしていて気が付いたんですが、この「V字型滑走路跡」は現在でも地割がハッキリ残っています。

長さはそれぞれ、160mx40m、155mx45m で、

このコンクリート舗装部分だけでは、滑走路の長さとしては不十分ですが、

飛行場敷地の角地から中央部分に向かっており、このV字型が滑走路の起点ではないかと。

写真ほぼ中央に「滑走路跡」とあります。

これが飛行場敷地中央の未舗装部分を広く指したものなのか、

文字のすぐ左側にある複雑なコンクリート舗装部分を指すのか、

オイラには判断つかないです。

このコンクリート舗装部分は位置的に複数の滑走路と、それぞれを連絡する誘導路以外、

オイラには用途が思いつきません。

ただ、このコンクリート舗装の延長線と、先の「V字型滑走路跡」の延長線は、直線で繋がらないんですよね~。

これは飽くまで一般論になってしまうんですが、

当時の軍用飛行場には、敷地に地盤がしっかりしている箇所と、軟弱な箇所が混在していることがよくあり、

軟弱な部分のみ舗装したり、その部分は避けたりするケースがあります。

もしかしたら、ここもそういうことなのかもしれません。

 

D: 協和病院

D20_0193.jpg

協和病院玄関前の舗装面には一部色の異なる部分があります。

特攻基地滑走路跡(全文) 
ここ病院の敷地一帯は、太平洋戦争中には「富高海軍航空隊基地」とし特に戦争末期には第一線基地とし又特攻基地として重要な役目を果たしていました。この案内板の前にありますコンクリート部分は 当時の滑走路の一部でありまして、戦時中そのままのものであります。 現在の平和の前にはこのコンクリートの滑走路から特攻機が飛び立ったのです。恒久の平和を願う為にこの滑走路を保存するものです。

ここが「滑走路の一部」だったとありますね。

先の説明版では、ここは「駐機場跡」とあるのですが。。。

D20_0195.jpg

1957年、当病院が開設される時、初代理事長の切望により残されたもので、

氏は中学時代に学徒勤労動員で本飛行場の拡張工事、掩体壕作りに参加しています。

病院は将来に渡って滑走路の原型を残したい考えなのだそうです。

 

D20_0224.jpg

病院裏手(塩見川側)にある「神風特別攻撃隊出撃之地」の碑

当病院の所に戦闘指揮所があり、特攻に行くひとがあると黄色い旗が立ったのだそうです。

 

D20_0230.jpg

 

D20_0216.jpg

碑の隣にある「爆弾ノ痕」 直径12m,深さ3m

艦載機の250キロ爆弾の跡ではないかとされているそうです。

 

D20_0225.jpg

 


E:富高海軍航空隊基地跡碑

D20_0197.jpg

小倉ヶ浜有料道路 料金所前。

→2013年5月10日に無料化しました。

 


F:小倉ヶ浜海岸

D20_0202.jpg

料金所前から浜辺に出るとこんな場所。

真珠湾攻撃のために水平爆撃隊は鹿児島湾で、

そして急降下爆撃隊はここ小倉ヶ浜海岸の岩場を目標に猛訓練をしていたのだそうです。

ネット等では、「目標となった岩は小さくなってしまったがまだ残っている」と説明されていました。

多分この岩のことだと思うのですが。

 


G:しらさぎ公園

 

D20_0210.jpg

しらさぎ公園にある「富高海軍航空隊跡地プロペラ展示施設」(全文)
 この地は昭和4年(1929年)に富高飛行場として発足以来、終戦までは富高海軍航空隊基地として予科練、予備学生等、大空を夢見た若き搭乗員の高度な技術育成のため、通称「赤とんぼ」の中練機で日夜訓練を重ねたのである。またこの基地が開戦当初のハワイ真珠湾奇襲作戦の訓練基地であり、お倉ヶ浜沖の岩場が爆撃投下の攻撃目標として訓練され今ではその岩場も小さくなって残っている。更に神風特攻隊の出撃基地でもあり、多くの若者たちが祖国の勝利と安泰を信じて、ここから飛び立ち二度と帰ることはなかった。その跡地に海上自衛隊のご厚意により借用したプロペラを展示し、「富高海軍航空隊」の史実と世界恒久平和を後世に語り継ぐとともに、二度と戦争を起こさないことを誓うものである。
平成15年6月5日設置

展示物 KM-2型航空機用プロペラ
型式:HC-A3x20-1E
直径:90インチ(228.6cm)
重量:98ポンド(44.4kg)
底辺の長さ:198cm
高さ:171.5cm

この公園の場所が分からなくて、何人かの方にお聞きしたのですが「しらさぎ公園」という名称はあまり知られていないようで、

「プロペラが展示してある公園」とお聞きしたら一発で通じました。

 


H:掩体壕の一部

D20_0237.jpg

掩体壕の一部と説明板

当飛行場の掩体壕はすべてなくなってしまい、現在ではこの掩体壕の一部分が僅かに残るのみだそうです。

「一部が残っている」 ということと、「往還の公民館の近く」ということしか分からず、随分探しました。

10人位の方にお聞きしたのですが、みなさん掩体壕はすべて消えてしまったと思っておられるようでした。

結局、往還の公民館北側の交差点で発見。見つけてみれば大きな交差点にあり、非常に目立ってます。

一番上の地図の緑丸は、消滅した掩体壕群の場所です。

 

D20_0234.jpg

 

D20_0240.jpg

 

D20_0233.jpg

説明板にあった掩体壕の写真


     宮崎県・富高飛行場跡地     

富高飛行場 データ
設置管理者:旧海軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:宮崎県日向市
座 標:N32°24′30″E131°38′03″
面 積:132.2ha
滑走路:700m×60m,600m×60m 「日本海軍航空史」(終戦時)より
方 位:18/36,17/35
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1929年01月 町側のあっせんで海軍が三千町歩の用地買収の契約が整い、実地視察
    03月 下旬に用地買収終了
    04月 着工。砂地が多くしまりが悪いため、県庁のハンドローラー借り入れ
    06月 開場。常駐者のいない臨時の訓練飛行場となる
    07月 03日、冨髙飛行場に飛行機16機飛来
       飛行場用地ははじめ7万坪だったが、二回目の拡張工事で16万坪、三回目の拡張工事で約40万坪となる
1930年   陸海軍による演習が盛んに行われるようになる
1935年   最後の拡張工事終了

1940年   建設
1941年10,11月 真珠湾奇襲作戦の訓練が行われる
1944年03月 冨髙上空で米艦載機と富高飛行場の零戦が空中戦
       当時当飛行場は築城航空隊富高分遣隊となっており、練習生300人、練習機は30機であった
    11月 冨髙海軍航空隊として独立。練習航空隊の指定を受け、陸上操縦教育を行う
1945年02月 燃料、機材の不足から当飛行場での搭乗員教育が中止される
    03月 冨髙航空隊廃止。同航空隊から編成された特攻隊が岩国に移動。5月まで夜間体当たり訓練を実施
    04月 菊水一号作戦(特攻作戦)開始。冨髙は鹿屋への中継地となり若い特攻隊員が川辺で過ごす姿が見られる
       21,22日 B29による爆撃を受ける。格納庫をはじめ甚大な被害を受ける
    08月 終戦時、零戦20機残存

関連サイト:
ブログ内関連記事    

この記事の資料:
宮崎の戦争
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」


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コメント 23

hiro78

感慨深いですね!

by hiro78 (2010-02-13 15:37) 

an-kazu

毎度のことながら、入念な調査に感服いたしますm(_ _)m
by an-kazu (2010-02-13 19:37) 

tooshiba

決してポジティブな歴史遺産ではありませんからね、隠蔽したり封印してしまう気持ちも分かりますよね(是非を論じることはしません)。
2009年秋の時点での足跡をたどられたとりさんの記事は、立派な史料です。

ちょっとした味付け次第で、出版物になりそうですよね。(^^)v
by tooshiba (2010-02-13 22:09) 

miffy

説明文がなければそこが滑走路の一部だったとはわからないですね。
実際に見たらもっと違いがわかるのかしら・・・
by miffy (2010-02-13 22:30) 

ハイマン

平和を願っての記念碑
感慨深いです
by ハイマン (2010-02-13 23:29) 

sak

宮崎市内から門川へ行くのにこの辺り
何度か通りました
ここにも飛行場があったのですね
また行く機会があったらゆっくり見て回りたいです
by sak (2010-02-14 04:47) 

春分

人に聞くってのは大切なことですね。書いたものにはない情報がある。
そして趣味の力はすごい。10人以上に聞くのはそこそこしんどいでしょう。
by 春分 (2010-02-14 06:36) 

響

かすかに残っているようですね。
爆弾お後は大分県の宇佐にもあって水がたまっています。
こうやって残ってるのは貴重ですよ。
見にいってみようかな?

by (2010-02-14 09:36) 

Takashi

特攻とは切り離せない地域ですね。
毎回思いますが、こういった戦争遺跡は大切に保存してほしいです。
by Takashi (2010-02-14 10:25) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■hiro78さん
現地ではいろんなことを考えてしまいました。。。

■an-kazuさん
いいんですよ~。正直に「呆れた」でも。(o ̄∇ ̄o)

■tooshibaさん
>封印してしまう気持ち
地元の明らかに体験者であろう方にお聞きすると、一瞬表情が曇ることがあって、
決して興味本位で軽く聞くことではないと自戒しております。

■miffyさん
あ~、すみません、オイラの写真のせいですm(_ _)m
明らかにそこだけ違ってました。
機会がありましたら是非ご自身の目で確認してみてください。

■ハイマンさん
この願いがずっと続いて欲しいです。

■sakさん
おお、そうでしたか! 本当にアチコチ行かれてますね。
機会がありましたら是非。

■春分さん
仰る通りですね~。ご本人の言葉には感情がこもりますし、重みが違います。

■響さん
情報ありがとうございますm(_ _)m
響さんの詳細な調査力には脱帽ですよ^^

■Takashiさん
そんな地域ですよね。
いつまでも大切に保存して欲しいです。
by とり (2010-02-14 16:59) 

まめ助の母

勉強になりましたぁ
特攻隊…知覧だけじゃないんですね
キレイに整備された街も昔は…ってことですよね
by まめ助の母 (2010-02-14 22:51) 

pica

特攻基地滑走路跡に立ってるボード、痛んでますね…。
ちょっと寂しい。
こういったものも、大切にしてほしいなぁと思いました。
by pica (2010-02-14 23:50) 

とり

■まめ助の母さん
オイラも以前は知覧しか知らなかったんですが、本当にいろんな場所から飛び立っていたんですね。
仰る通り、遺跡がなければ当時の様子は想像もつかないキレイな街でした。

■picaさん
確かにそうですね。ちょっと文字が読み難かったです。
これはこれで味がありますけどね^^;
まあ全国のマイナーな戦争遺跡からしたら、こうして説明がついて保存されているだけで御の字ですよ。
by とり (2010-02-15 06:44) 

ジョルノ飛曹長

本来日本の教育はもっともっと太平洋戦争について勉強、語られるべきなんですよねー。
どうしても民間に目が行きがちで、広島や長崎ばかりやりますが、兵隊も多くが国のために惨禍していったのです。
現代人は戦争反対と言う前に彼らに対しての感謝を持たないといけませんね。
by ジョルノ飛曹長 (2010-02-15 22:59) 

とり

■ジョルノ飛曹長さん
同感です。
近隣諸国に気を遣うあまり、先人たちへの気遣いが蔑ろになってる気がします。
by とり (2010-02-16 20:01) 

コスト

>直径12m,深さ3m  3mって大人がすっぽり入る深さですね。
4枚目の沖縄ともう一つの「ケソソ」って何を指してるんでしょう?
地図の中に自動車学校から計算してそうとう広いですね。
九州はこんなにも特攻基地があったのですね。

by コスト (2010-02-17 21:08) 

とり

■コストさん
>ケソン
フィリピンの都市です。
わざわざここに出てくるということはいろいろ関連があるのでしょうね。
オイラは知りませんm(_ _)m
by とり (2010-02-19 07:47) 

miki

訪問させていただきました。
by miki (2010-04-18 11:16) 

とり

■mikiさん
いらっしゃいませ^^
ご訪問ありがとうございましたm(_ _)m
by とり (2010-04-19 19:55) 

take

私はこの地区に住んでおります30代の男性ですが、私が小学生のころは、まだ掩体壕が写真の左側のお倉が浜のそばにいくつかあったように記憶しております。年配者からこの辺りは昔飛行場と聞いていましたが、具体的な場所まではしらなかったので、参考になりました。
by take (2010-05-21 22:03) 

とり

■takeさん
いらっしゃいませ~ヽ(*´ヮ`)ノ
>お倉が浜のそばに
情報ありがとうございましたm(_ _)m
しらさぎ公園展示地図と、掩体壕の一部が展示されている場所の地図とでは
滑走路の情報が一致していないように思えるのですが、
掩体壕があったということは、間違いなくこの周辺に飛行場があったということになるので
仰る通り参考程度ですね。^^;
個人的にすごく気になっているのでなにか資料がみつかりましたら更新致します。
by とり (2010-05-23 07:16) 

uedakanzaemon

富島中学校出身のわたしはよくこのあたりを知っています。小倉が浜の浜辺沿いにかなり長く、小高い松林の土手がつづいており、その下に等間隔で、飛行機の格納壕があつたのを覚えています。このブログに行きついたのは、先日、劇作家の梶原一騎さんの生涯を読む機会がありまして、彼が戦時中に亀崎村に疎開していた時期があり(わたしの実家の母がその一家をよく知っていました)、この飛行場の特攻隊員の人々にかなりの影響をうけているらしいことが分ったからです。我が郷土から、隊員たちが訓練を受け、あの真珠湾攻撃に飛び立っていった。あしたのジョー、星飛雄馬、柔道一直線、愛と誠などの熱血劇画の原点は、特攻隊員の生きざま死にざまにあったのではないかと深く考えているこのごろです。また。
by uedakanzaemon (2011-03-27 21:57) 

とり

■uedakanzaemonさん
コメントありがとうございました。
返事が遅くなってしまって申し訳ありませんm(_ _)m
by とり (2011-04-02 06:51) 

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