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とり日記 [■ブログ]

オイラの仕事はお得意先回り。

一般家庭やお店などを回ります。

 

ある日のことです。

あるお宅で普通にお客さんとやり取りをしていると、

小さい女の子が物陰に隠れて目だけ出しながら恐る恐る、

「あの・・・犯人ですかぁ?」

と聞かれました。

 

まあ普段は遠くに出掛けてって人んちの畑とか古いコンクリの物体撮ったりして十分怪しいのは認めるけどさ。

仕事中のオイラはそんな正体はひた隠しにしてて、今はそんなに怪しくないつもりなんだけどな。

いつオイラがこのおじょーちゃんの前で犯人と疑われるようなことを?????

奥さんが笑いながら教えてくれました。

ほんの数時間前、近くで何か事件が発生して犯人がまだ逃走中なのだそうです。

そういえばパトカーが何台も走ってたっけ。

 

 

もう1つ。

得意先の病院での出来事です。

出入り口のところに小さい男の子が立ち尽くしてます。

通れません。(邪魔だなぁ・・・。親は?)

男の子がオイラを見上げ、言いました。

「チクンてする?」

色素の薄い白人みたいな男の子でした。

見上げた大きな瞳はまるで池のよう。

はうぅ、かわいぃ~!><

(なんかこう、安心すること言わなきゃ。なんかこう・・・)

「ん、ん~。ん~~。・・・。・・・。・・・ど、どうかねぇ~。」

 

 

アドリブ利かネェ~~!!_| ̄|○ il||li

 

おわし。


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新田(生品)飛行場跡地 [├空港]

  2009年5月訪問 2019/1/31更新  


無題3.png
撮影年月日1947/10/27(USA M606 36) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


群馬県太田市新田市野倉にかつて「新田陸軍飛行場」がありました。

因みにここから北北西6.2キロのところに前記事でご紹介した桐生愛国飛行場が、

そしてここから南東11.2キロのところに太田小泉飛行場がありました。

それぞれ成り立ちの異なる飛行場なのですが、すごい密度ですね。

飛行場は上図の周囲の道路などまったく無視した四角の地割部分がそれです。

一辺1.6キロという広範囲に渡って周辺と45度のズレがあるため、

地元の方でも方向感覚を狂わされるそうです。

余談ですが、群馬県といえば「かかあ天下と空っ風」。

この「空っ風」とは、当飛行場の北西(飛行場の向きのほぼ延長線上)にある

赤城山から吹き降ろす強風のことで、この赤城颪などを考慮したためにこんな向きになった。

という話があるのですが、陸軍の方形の飛行場って、全国的にこんな向きなんですよね~。

防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.1 水路部 の中で、当飛行場の地図があり、

先頭のグーグルマップはこの地図から作図しました。

同資料の情報を以下引用させて頂きます。

「新田陸軍飛行場 群馬県新田郡生品村 36°20′0N 139°18′5E」

面積 北西-南東1,600米 北東-南西1,600米 総面積257萬平方米
地面の状況 北東-南西に向け1/120の下り傾斜を為す
硬度は普通にして一面に芝密生す
排水概ね良好、冬季風塵立ち昇る
目標 太田町、東武鉄道桐生線
障碍物 東方約2粁を距てて高さ200米の山脈あり
北、東及西方一帯は森林地帯なり
離着陸特殊操縦法 (記載なし)  
格納設備 格納庫 鉄造(80x50米)1棟 木造(32x41米)1棟、(75x41米)2棟
照明設備 (記載なし) 
通信設備 (記載なし)  
観測設備 陸軍気象観測所あり、航空気象を観測す
給油設備 (記載なし)  
修理設備 (記載なし)  
宿泊設備 (記載なし)  
地方風 (記載なし)  
地方特殊の気象 夏季雷雨多し
交通関係 治郎門橋駅(東武線)東方2粁
東側に隣接して太田町及桐生市に至る県道あり
其の他 (記載なし)  
(昭和18年4月調)
 

D20_0012.jpg

県道332号線のところから撮影してみました。 

この真っ直ぐの道が飛行場の南東の境界線。向かって右側が飛行場跡です。

(向こう側に渡ってから)カメラを右側に振ってみると・・・

 

D20_0010.jpg

こんな感じ。

おや?

画面左側の草むらに何かありますね? 行ってみましょう。(わざとらしい)

 

D20_0006.jpg

「少年飛行兵操縦教育校 旧陸軍熊谷飛行学校 陸鷲修練之地 新田教育隊跡地」

とありました。

ところでこの飛行場の呼び名なのですが、

サイトによって「新田飛行場」、「生品(いくしな)飛行場」と名称が異なります。

飛行場があった当時ここは、「新田郡生品村」でした。

おおよそですが、軍関係は「新田飛行場」と呼び、

地元自治体は「生品(いくしな)飛行場」と呼んでいるケースが多いような気がします。

因みに「新田町の歴史年表」では、「生品飛行場」と表記されていました。

 

この場所はその後どんどん合併が進み、生品村→新田町→(現)太田市と変化しました。

予備知識なしで一から調べるオイラのような部外者にとって、

平成の大合併はまったくもってやっかいです。

 

新田飛行場.JPG
写真:国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省
撮影年度:1974年 地区名:桐生、上野境 編集・加工:空港探索・とり

1974年の写真。

確認できる地理院の最古の地図(1947年撮影)でも既に畑になっていて滑走路の形跡は見当たりませんでした。
(下記リンク参照)

 

D20_0018.jpg

 

D20_0014.jpg

上の2枚は、飛行場跡地のほぼ真ん中の風景です。


       群馬県・新田(生品)飛行場跡地       

兵器の主力は戦艦から航空機の時代へ移行し、陸軍内部でも航空機の増強が叫ばれ始め、飛行機の操縦者を大量に養成する必要が出てきた。操縦技術を習得する専門学校として1935年に熊谷陸軍飛行学校開校。その実習地として選ばれたのが当地区であった。当時は掩体壕が30基ほどあったのだそうです。

新田(生品)飛行場 データ
設置管理者:日本陸軍
所在地:群馬県新田郡生品村(現太田市新田市野倉)
座 標:36°20′0N 139°18′5E
面 積:257ha

沿革
1938年03月 生品飛行場完成。一番機飛ぶ
1944年09月 19日 生品飛行場の練習機同士が生品村国民学校上空で衝突。搭乗員全員死亡
       12月 飛行場内に中島飛行機太田製作所の疎開工場が設けられる
1945年07月 01日 朝6時、艦載機の編隊2~10機が太田、生品飛行場に爆撃、機銃掃射
       同日9時半から約40機が主力をもって生品飛行場攻撃
       ?日 12機の艦載機により空襲を受け、石油に引火して火災発生 
       10日 機銃掃射、爆撃を受け、飛行場としての機能喪失 
       28日 熊谷方面から3編隊で進入、P51 240機のうち数十機が太田地方へ、
       このうち3機は生品を攻撃(米軍資料では都良崎を主目標とした26機が生品も攻撃。となっている)
    08月 14日 夜、生品飛行場および市野井、村田など空襲
    10月 14日 生品飛行場に40人進駐
1946年03月 12日 生品飛行場跡地に入植開始

関連サイト:
電撃! 激坂調査隊が行く/旧陸軍の飛行場跡をめぐる      
↑情報の極めて少ない飛行場なのですが、非常に良質のサイトです。
オイラもこんな記事が書けたら・・・と思いました。脱帽です。

この記事の資料:
鳥之郷国民学校昭和20年度教務日誌
太田市通史編 近現代
群馬の戦争遺跡
新田町誌第一巻「通史編」別冊付録・新田町の歴史年表
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.1 水路部


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桐生愛国飛行場跡地 [├空港]

  2009年5月、2016年4月訪問 2018/11/3更新  

無題8.png
1947年10月(USA R408-No1 47) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

群馬県桐生市のお隣、笠懸村(現みどり市)にあった「桐生愛国飛行場」。

後述しますが終戦までの10年間だけ存在した小さな飛行場ですので、

かなりマイナーな部類だと思います。

資料によれば、戦後飛行場跡地は開拓されたと記されています。

上の航空写真は終戦から2年後の飛行場跡地。

パッチワークのように畑が広がっていますが、飛行場跡地の部分の様子が明らかに周囲と異なっています。


この飛行場跡地には2009年5月にお邪魔していたのですが、おおよその場所しか分かりませんでした。

最近になって「航空路資料第3 関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18.8 水路部」という資料をゲットし、

その中に当飛行場についての詳しい地図があったため、現在の地図に落としてみることに。

ところがこの地図とグーグルマップを比較してみると、両毛線と飛行場の東側で南北に走る県道69号線はまあいいとして、

それ以外のありとあらゆる道路が当時と現在では違うのです。

とっかかりとなる基準点が作れないため、結局ほとんど目測で作図し、

後からいろいろ数字を見ながらツジツマ合わせの微調整する。

というやり方で作図しました。

上図、これで一応面積、縦横比、飛行場敷地北東の角部分の線路と県道との離れ具合は、数字的にはピッタリです。

数字的には。

まあ大きくズレていることはないのではないかと。 

で、敷地の北東角地に事務所、格納庫があることが分かったので、ここの写真を撮ろうと出掛けたのでした。 

DSC_0103.jpg (オイラの計算が正しければ)飛行場敷地北東の角地はココ。

ここから画面右奥に向かって飛行場だったはずです。 

2010/9/30追記:
すずき@東毛さんの記事「桐生愛国飛行場跡 (みどり市笠懸町)」(下記リンク参照)に飛行場の地図が載っています。

 

歴史

桐生愛国飛行場は、1934年に着工、翌1935年3月25日に逓信大臣から非公共飛行場として使用許可を受けました。

開場後どんなことに使用していたかといいますと-

陸海軍からの委託で飛行学校生がフランス製アポロ式複葉機による落下傘の投下試験

県下青少年の士気を鼓舞し、銃後に備える心構えを培う啓蒙活動

旧制中学生や青年団幹部を対象としたグライダー滑空訓練

またこの飛行場から羽田空港まで直線距離でちょうど100キロで、

この区間が逓信省乗員養成所の試験コースとして使用されることもあったのだそうです。

 

この飛行場は終戦間際の頃、米軍機の空襲を受けています。

格納庫は跡形もなく吹き飛ばされ、隠してあった飛行機1機が機銃掃射で完全に破壊され、

飛行場とその付近は、機銃弾の薬莢が散乱していたそうです。

こうして桐生愛国飛行場はその機能を失ってしまいました。

これが笠懸村唯一の空襲だそうですから狙い撃ちされたんでしょうね。

よく見つけるもんですね。

 

建設までのいきさつ

陸軍は非常時の国民の精神動員計画の実践として帝国飛行協会を中心に300ヵ所の

「愛国飛行場」建設計画を打ち出しました。

これは、一般市民、非軍需企業からの献金で飛行場を建設して陸軍に献納してもらおうというものです。

当桐生愛国飛行場もこの流れに乗ったもので、

地元桐生の森宗作(有力な織物業者、四十銀行頭取)が航空機の将来性に着目し、

民間有志の手によって航空事業に寄与したいとの念願から建設された飛行場です。

オイラの知る限り、当時の新設飛行場はほとんどが最初から軍が建設したもので、

あとは逓信省と自治体のものがチラホラある程度なのですが、こんなケースもあったのですね。

 

余談ですが、陸軍に飛行機を献納すると、「愛国号」となり、

海軍に献納したものは、「報国号」となりました。

 

飛行場着工の2年前、帝国飛行協会桐生支部の発会式が行われました。

名士の講演会その他の催しなどで航空思想の宣伝に努め、同志を集めることに尽力し、基金獲得を続けました。

愛国美談の献金運動が進んだのだそうです。

こうして得た基金により、帝国飛行協会桐生支部の事業として飛行場が建設されました。

ここに敷地が決まった理由として、森宗作の所有地がこの用地の一部であったこと、

この事業に共鳴した当時の笠懸村長がここの用地の大半を所有していたことから用地取得が容易であり、

この付近が民家から遠く、特別の障害物もないことなどがあったと言われています。

整地工事の際、地形が西高東低だったため、トロッコを使用して西から東へ土を運んで平坦にしたのだそうです。

余談ですが当時軍(特に陸軍)が建設した飛行場は周辺の地割などお構いなしの真四角のものが多いです。

それと比べるとここの飛行場は周囲の畑に遠慮したようなイビツな形で、

この辺が軍と民間の違いなのかなぁ、と思いました。

 

空襲により機能を失った飛行場はしばらくの間放置されて荒れるに任せてあったのですが、

やがて農地解放の結果、11戸の農家が入植し、立派な農地に生まれ変わり、

戦後の食糧不足を補うのに役立ちました。

こうしたいきさつからこの部落は今でも「就農」と呼ばれているのだそうです。

 

かどや公園の石柱



D20_0001.jpg

飛行場跡地から両毛線を越えた北側に「かどや公園」があり、公園南東角の駐車場に石柱があり、

「帝國飛行協會桐生支部」と彫られています(先頭のグーグルマップ青マーカー)。

当時飛行場の旗を立てる柱を支えていたと考えられていて、

飛行場内にお住まいの方から預かり保存しておられるのだそうです。

当公園は元々「火鉢博物館」だったんですが、名称変更していると「すずき@東毛」さんから教えて頂きました。

詳しくは下のコメント欄をご覧くださいませ。

「すずき@東毛」さん、ありがとうございましたm(_ _)m 


       群馬県・桐生愛国飛行場跡地      
台風の際、風で飛行機が付近の畑に飛ばされてしまい、監視当番が大慌てをしたこともあったのだそうです。飛行場であった当時の面影は、事務所だった建物の一部が僅かに残されているのみなのだそうです

桐生愛国飛行場 データ
設置管理者:帝国飛行協会桐生支部長 森宗作、陸軍に献納 
所在地:群馬県新田郡笠懸村大字鹿及び大字久宮にまたがる地域(現みどり市笠懸町鹿)
座 標:N36°23′00″E139°16′52″
面 積:16.5ha
風 向:概ね南東、但し12月から2月まで北西
(座標はグーグルアースから)

沿革
1932年11月 06日 帝国飛行協会桐生支部発会式
1934年    建設着手
1935年03月 25日 逓信大臣から非公共飛行場として許可
    09月 15日 グライダーの初滑空
       終戦間際に空襲を受け、飛行場としての機能を失う

この記事の資料:
笠懸村誌下巻
群馬の戦争遺跡
防衛研究所収蔵資料「航空路資料第3 関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18.8 水路部」

関連サイト:
すずき@東毛さんの記事「桐生愛国飛行場跡 (みどり市笠懸町)」     


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とり日記 [■ブログ]

母入院の際、暖かいお言葉ありがとうございました。

嬉しかったです。本当に。

 

その母ですが、入院の際主治医から

「退院はまあ、土曜日頃でしょうね~」と言われていたのですが、

その後なぜか「木曜日に退院」と言われ、無事退院しました。

 

手術当日の朝、家族で母の病室に集合。

手術室に移動する少し前に看護婦さんが「ちょっと眠くなりますからね~」と注射。

ガッシリと大柄な看護婦さんで、新人さんを引き連れてます。

「この方、担当してくれている看護婦さん。頼もしいでしょ」

注射されながら要らない説明をする母。

(余計なこと言わなくていいのに~!(゚Д゚;≡;゚Д゚))

 

母はほどなくろれつが回らなくなりました。

「らりるれろ」が「わうううお」みたいになります。

明らかに変です。

ところが本人はろれつは普通だと言い張って認めようとしません。

その主張も全然回ってません。

そのうち「眠い」と言い出しました。

そんな母に「眠いのならば」と ブラックフリスク を素で勧めようとする天然妹。

やーめーてー!><

 

 

術後の説明によりますと、こぶを塞ぐために母の頭には43cmのプラチナが入りました。

5mmほどのこぶなのですが随分入るものなんですね~。

それを知った母のコメント。

「私は高級な人間になった」v(o ̄∇ ̄o)v

 

ヒコーキに乗る時、セキュリティーチェックで引っかかったりしないのかしらん。


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熊谷線の橋脚 [├場所]

 

以前書いた熊谷線の記事で、「利根川を渡る橋脚はすべて撤去されてしまった」

と書いたのですが、H.Kumaさんから「利根川の北側に橋脚が1つだけ残っている」

と教えていただき、先日見て来たのでした。

てっきり河川敷内にあるのだとばかり思っていたのですが、外側にありました。

土手道のすぐ側です。

というか、外側だったから残ったのでしょうか??

 

D20_0057.jpg

土手の上から見るとこんな。

画面奥、線路跡っぽいですね。左側は立派な野球場です。

 

D20_0066.jpg

分かり難くて申し訳ありませんが、画面真ん中らへんに橋脚の頭がちょっと見えてるのわかるでしょうか?

土手道と橋脚、大体同じくらいの高さですね(←これが言いたかった)

 

D20_0064.jpg

橋脚に背を向けるとこんな風景。

ここから対岸に向かって点々と橋脚が並んでいたのですねぇ・・・。

このあたりは(おおよそ)利根川が県境になっていて、

こちら側は群馬県大泉、あちら側は埼玉県熊谷市(旧妻沼)。

 

D20_0058.jpg

同じく橋脚の所から見た国道407号線の刀水(とうすい)橋。

中島飛行機の人たちは熊谷線で妻沼まで来て、バスに乗り換えてこの橋を通って工場に通ってました。

「太田市史通史編 近現代」によりますと、

1945年4月4日 関東地方に進入した約100機のB29のうち約50機が太田方面へ飛来しました。

米軍資料によれば、この時の目標は小泉工場。

ヒコーキ生産を担う太田地方と埼玉、東京方面を結ぶ交通の要衝である、

1943年6月に完成したばかりの刀水橋も狙われました。

橋周辺には多数の爆弾が投下されたと言われていますが、破壊は免れました。

当時の橋は1971年に架け替えられるまでその役割を果たしたのだそうです。

 

D20_0040.jpg

土手を降りて橋脚に近づいてみました。

特に立ち入り禁止にもなっておらず、好きなだけにぢり寄れます。

 

D20_0042.jpg

特にこのブツの説明をするものは見当たりませんでした。

土手の上を行き来する学生さん、ジョギング中の人たちはこの物体の正体をご存知なのかしらん。

 

D20_0043.jpg

 

D20_0045.jpg

鉄筋がたくさん飛び出てますね。

 

D20_0047.jpg

こんな小石がむき出しになっている部分も。

 

D20_0052.jpg

記録では、「1944年(昭和19年)4月までに着手」するように。という認可証があり、

1947年(昭和22年)7月には一切の工事が終了していますから、

この橋脚も1944~47年の間に作られたのでしょうね。

物資困窮の中、治水上の問題で大変苦労して橋脚を完成させた訳ですが、

この橋脚は前述の通り河川敷の外側にありますから、治水上万難を排してまで完成させる必然性はないはず。

もしかしたら工期の初期に完成したのかもしれません。

いずれにせよ、作られてから60年以上経過しています。

実はこの日、群馬県の飛行場跡をうろついてきまして、

最後にこの橋脚を見たのでした。

前後してしまいますが、飛行場跡の記事もボチボチアップします~。

 

ブログ内関連記事
東武熊谷線物語・1
東武熊谷線物語・2


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