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’04 沖縄旅行 その4 [■旅行記]

「沖縄の日本に対する感情について」(番外編)


 

 **まえがき**

  このテーマについてこれまでずっと関心を持ち続けてきました。そして過去を踏まえた上でどうすれば互いに仲良くやってゆけるのか考え続けてきました。オイラが今までに図書館で調べたり,人から聞いたりして考えたことを以下にダラダラと書きます。まだ自分の中できちんと答えが出ていないので,とりとめのないヘンな文になります。ご了承くださいませ。

  その前にオイラの生い立ちについて簡単に書いておきます。自分としては努めて中立の立場でこの問題を考えてるつもりですけど,やっぱり主観が入っていると思います。生い立ちを頭に入れて読んでいただいた方が理解しやすいと思います。

オイラの生い立ち:両親は2人とも先祖代々の沖縄人です。オイラは東京で生まれ,小学校1~4年までの4年間を沖縄で過ごしました。その後東京,埼玉県民となり,20年以上になり現在に至ります。今も親戚多数が沖縄にいます。

 


 

**第二次大戦と沖縄**

  その昔,朝日新聞の朝刊にサトウサンペイの4コママンガが掲載されていたが,その1つにこういうものがあった。主人公のフジ三太郎が「沖縄の歴史」という本を読み,日本に「非礼の門」を作って沖縄に向かって謝っている,というものだ。後にこのマンガは特選集に掲載され,「沖縄の歴史は搾取の歴史」という作者のコメントが付いていた。

  ご存知のように,沖縄は元々「琉球」という独立国だった。周辺の国々との交易を行っている王国だった。琉球にとって,「大和」はたくさんの交易相手国の1つであった。ところが1591年に薩摩藩が琉球に入り込んで来たのを皮切りに,後の明治政府等の武力介入によりやがて日本の領土の一部として組み入れられる。そのため当時の本土の人々の意識下には「沖縄人は本当は日本人ではない」という思いが強くあり,沖縄を見下す態度が存在するようになる。それが露骨に表れたのが第二次世界大戦の時だった。

  普通に考えると,沖縄は日本の一部なのだから,沖縄出身兵も当然日本軍の一員として扱われるはずだ。また,地上戦が行われた沖縄は日本の領土の一部だから,日本軍は自国の領土と島民を敵の攻撃から守ろうとするはずだ。沖縄の人たちはそういう思いを込めて,日本兵のことを「友軍」と呼んだ。だが実際にはそういう図式にはならなかった。例えば第二次大戦当時,兵士として入隊した沖縄出身の若者の中には標準語が話せない者も多かった。そのため軍隊内では”未開人”という意味を込めて沖縄出身者のことを「琉球人」と呼び差別した。

  その後戦局は悪化の一途をたどり,昭和20年,米軍が沖縄に上陸。日本で唯一の地上戦が始まる。 大戦末期,もはや本土への米軍上陸は時間の問題と思われた時期,大日本帝国軍は,アメリカを本土に迎え,これを撃破するための時間を稼ぐため,押し寄せて来る連合国をできるだけ長く沖縄に留める方針を取った。

  つい最近NHKで,アメリカの国立公文書館から,日本軍が立案した沖縄戦の作戦方針を英訳したものが発見され,内容を明らかにするという番組あった。それによると,できるだけ多くの島民を兵隊として徴用することが命じられている。このノルマを果たすために,ほんの少年から老人まで,大勢の島民が戦場に駆り出されることになる。

  更にこの命令書では,「沖縄に上陸した日本兵は,島民の姿かたちをして連合国軍と対決するように」と命じられている。服装は,当人がどんな立場かを明らかにする。戦場では,その人物がどちら側の人間なのか,戦闘員か,非戦闘員かを見分けるものとなる。諜報活動員などがそれを逆手にとって軍服を着用しないことはあるが,ではなぜ沖縄に上陸する日本軍は,島民と同じ姿かたちをするように命ぜられたのか?

  沖縄戦が始まる前に日本軍は,この沖縄戦を「共生共死」とするという基本方針を定めていた。つまり,島民を守るのではなく,島民をすて石として利用し,可能な限り敵を消耗させるのがねらいであった。そして,日本兵が島民の姿かたちをするという作戦は非常な効果を発揮する。実はこの命令は連合国側に事前に傍受されていた。番組では当時沖縄戦を経験した元アメリカ兵が出ていたが,「民間人の姿を見ても,それが本当に非戦闘員なのか,それとも民間人に成りすました日本兵なのか,我々には見分けられなかった」と証言している。こうして日本軍は島民を次々戦線に送り,連合国側は「とにかく見つけたら殺せ」という状況が作られてゆく。沖縄島民を同胞だと考えて,果たしてこういう作戦が取れるだろうか。「本物の日本人」,「本当の日本の領土」を守るために,少しでも時間を稼ぎ,敵を消耗させなければならない。そのためなら,元々日本ではない沖縄や沖縄人をいくら消耗させても構わない。そう考えると,日本軍の取った作戦は理解し易い。この基本方針は,日本軍が沖縄をどう見なしていたかをよく示している。

  こんなことを書くと,「いくらなんでも日本軍がそこまでするはずはない」と考える方がおられるだろう。オイラも日本軍の全員がそういう見方をしていたとは思いたくない。本土その他への大規模な疎開立案は,その表れだと思う。沖縄戦に関する作戦方針について,軍内部でも様々な議論が行われたと思いたい。しかし,沖縄島民がどうしても忘れることのできない仕打ちを日本軍から受けたことがあるのも事実だ。例えば本土の方で,日本軍が沖縄島民を直接殺害した事例が多数あるという事をどれほどの方がご存知だろう。

  当時の沖縄の人口は約45万人。島民の戦死者数は10万とも15万とも言われているが,日本軍に直接殺害された島民は,各自治体による確認ができているだけで,31件,94人だが,正確な数は分かっていない。一説では約1,000人いるとも言われている。たとえば,乳飲み子を含む20人の島民を次々に殺害したある日本軍の隊長は,戦後「なぜこのようなことをしたのか」と記者に問われ,こう答えている。「ええーと,ワシの見解はね,・・・厳然たる措置を取らなければ,アメリカ軍にやられるより先に,島民にやられてしまうということだったんだ。何しろ,ワシの部下は三十何人,島民は一万人もおりましたからね。島民が向こう側に行ってしまってはひとたまりもない。だから・・・断固たる処置が必要だった。島民を掌握するためにワシはやったのです」

  今この記事を読んでくださっている方の郷里の民間人千人を日本兵が次々に殺害するということが想像できるだろうか。仮にそういう事件が発生したとしてその首謀者は上記の内容を,筋が通った釈明と考え,堂々と話すことができるだろうか。またこの釈明を聞いて納得できるだろうか。「アメリカ軍にやられるより先に,島民にやられてしまう」という言い方が,日本軍が結果的に組織全体として沖縄島民をどう見なしていたかを如実に物語っていると思う。

  「一方的に日本軍のことを責めるのは如何なものか。日本軍に,”島民にやられてしまう”,”向こう側に行ってしまう”と心配させるようなことを島民はしていたんじゃないか。そういう普段の言動が,日本軍の疑心暗鬼を生んだんじゃないか」と考える方がおられるかもしれない。

  確かにそういう面もあるにはある。例えば,ある島民虐殺について知っている当時の日本兵は後に手記を残し,その中で「地元民から,『あの地区の人たちはスパイだ』という通報があり,我々の居場所を米軍に知られてしまうことを防ぐために,通報のあった部落島民の処刑が決定された」と記している。当時の日本兵による島民虐殺について知っている人たちが固く口を閉ざしているのは,1つにはそうした島民が別の島民をスパイとして日本兵に通報したからだ,と言われている。地元民の通報により発生した虐殺の場合,それについて語れば当然次に考えるのは,「じゃあ,一体誰が通報したんだ」ということになってしまう。

   ところで島民は日本兵に対してどのように接したか。沖縄戦で島民が日本軍にどの程度の協力をしたか,島民側の証言はいろいろ残っているが,日本軍側の証言もある。沖縄戦末期,海軍の司令官が玉砕直前に海軍次官に宛てた有名な電文が残っている。「県民は壮青年の全部を防衛招集に捧げ,残る老幼婦女子のみが相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ,しかも若き婦人は率先軍に身を捧げ,看護婦炊事はもとより砲弾運び挺身切込隊すら申し出る者あり・・・陸海軍沖縄に進駐以来終始一環勤労奉仕物資節約を強制せられて・・・沖縄県民斯く戦えり 県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを」

  日本軍が沖縄県民にどう接してきたか書いたが,上記のように司令官クラスの中に,県民の行ったことをきちんと評価してくれる人物がいたというのは,救われる思いがする。日本軍に殺された島民のほとんどはスパイ容疑をかけられているが,その「スパイ容疑」とは,例えば「方言を使っていた」とか,「探した時,その場にいなかった」とかいうものだった。日本軍はスパイを警戒し,島民に方言の使用を禁じていた。そして方言を使ったために有無を言わさず実際に殺害された例や,壕で泣き止まない赤子が殺害されたという例もある。内地出身の日本兵の中には後に,「島民がスパイ活動を行った証拠が実際に挙がったことは1度もない」と証言している。しかしこういう理由で乳飲み子を含む家族全員が殺されたという事例もある(乳飲み子が一体どんなスパイ活動をするのか)。更にこうしたことは,日本の無条件降伏後にも続けられていた。

  また,14才未満の戦死者は11,483人だが,そのうちの10,101人,実に87.9%の死因は,「壕提供」となっている。「壕提供」と聞くと,何だかとってもよさげだが,要は壕の中に隠れていたら日本軍がやって来て,「ここは軍が使用する。貴様らはすぐに出て行け」と言われたためにやむなく壕を軍に「提供」し,追い出されて米軍に殺害される,というものだ。沖縄人を同胞だと考えて,年端もいかぬ子供たちを,「鉄の雨」とも,「鉄の暴風」とも称された砲弾の飛び交う壕の外に果たして追い出せるものだろうか。 

  例えば,ある12才の少年は「壕提供」し,別の壕に移動したところ,そこにもまた別の日本兵がやって来て,食料を奪われ(これを「食料提供」という)たうえに暴行を受けた挙句,再「壕提供」させられる。この時に受けた暴行が元でこの少年は片目を失明してしまう。さらにこの少年の母親はスパイとして殺されている。そして戦後,この人は障害年金の給付を申請するが,1992年,当時の厚生省から「保障の対象は軍の命令によって軍に協力」した『戦争参加者』であり,「日本兵の暴行によるけがは『戦争参加者』には当たらない」という理由で申請を却下される。

  別の例では,米軍からメリケン粉をもらった男性がスパイとして日本軍に連れて行かれた。その男性の息子は自分の父親の変わり果てた姿を後に見ることになる。首に3本の短刀が刺さり,膝の裏は「日の丸」として丸くくりぬかれて殺されていた。この息子は,この時見た光景をずっと黙っていたが,妹が二十歳になったのを期に当時のことを伝え,その後正気を失い,妹の介護を受けつつ今に至る。この妹もまた,「スパイのいた部落」ということで,その部落の女子供数十人が集められ,10人の日本兵が並ぶ前に四列になって並ばされ,一斉に手榴弾を投げつけられた。この妹はたまたま最前列の隅にいたために生き延びることができたが,手榴弾が破裂した後の凄惨な光景を目の当たりにすることになる。似たような経験をした人,またその人の家族や親戚が沖縄にはまだそこここに住んでいるのだ。沖縄戦当時,住民は日本兵に監視され,「敵に投降する者はスパイとして射殺する」と警告されていた。そして実際に両手を挙げて敵軍に向かって行く兵隊や住民が背後から友軍兵に狙撃されたという事例は無数にあると言われている。壕に隠れていたところ,日本兵がやって来て,「壕から出て行け。出て行って住民なんか艦砲に当たれ」と言われた島民,日本軍からレイプされた島民もいたという。激しい艦砲を生き延びた島民は「艦砲の食い残し」という言葉を浴びせられた。当時を振り返り,「米軍より日本軍が怖かった」と述べる島民もいる。

  戦争では敵味方に分かれて互いに殺しあう。戦地に赴く兵士も,兵士を送り出す家族も,「敵から殺されることがあるかもしれない」という不安を抱えているはずだ。不運にも戦死の知らせが伝えられた時の家族の悲しみはいかばかりか。何十年経っても癒されない悲しみを見聞きした経験が誰しも1度や2度はあるはずだ。また,数十年の時を経て,かつては敵味方に分かれて戦っていた者,遺族同士が会することがある。遺族に対し,泣きながら遺憾の気持ちを伝える側に対して,「もしかしたら,うちの息子があなたを(あなたの息子を)死なせていたかもしれない。たまたまうちの子は運が悪かったんです」と言う場面を見ることがある。そういう場面を見るにつけ,戦争は本当に悲惨なものだと思う。では,味方だと思って献身的な協力をしていた側から殺された遺族は,その気持ちをどこに持っていけばよいのか。

  当時の沖縄県民は,戦争に深くかかわらざるを得ない状況をどんな思いで受け止めていたのか。前述の通り,沖縄出身兵は部隊内で差別を受けた。それで,こうした差別から開放されるために,また日本国民として認められるために,戦場で戦う決意をした島民が多かったという。さらに沖縄の銃後の人たちも自分たちが内地の人たちから「二級,三級国民」扱いされているのを知っていた。そして島民の中には,戦争で日本軍に協力することを,自分たちも日本人に認められる絶好のチャンスと考えた人たちがいた。そして実際に「ひめゆりの塔」に代表されるように,ありとあらゆる協力をしている。

  地元の新聞も,国民的同化(沖縄を内地と同格にすること)を編集方針の基本に掲げ,「ことの善悪を問わず一から十まで他府県人のするとおりにせよ。クシャミすることまで他府県人の真似をせよ」と説き続けた。そして島民の戦死者数が増えれば増えるほど,「これで沖縄県民も忠良な臣民として本土他府県人に負けない『一級の日本人になれた』」として社説で書き立てていたという。

  このように,「沖縄など本当の日本ではない。真の日本を守るために利用してやれ」という日本軍の一部(と信じたい)の思惑と,「この戦争は,多少の犠牲を出そうとも,日本人として認められるチャンスだ」と考えた一部の人々の思惑が奇妙な一致を見せ,結局島民の約3割が戦死する結果となる。ただし,「この戦争は,多少の犠牲を出そうとも,日本人として認められるチャンスだ」と沖縄の一部の人々が考えた,と書いたが,地元の新聞の中にそういう方針を執った人々がいたことは事実として,県民全体としてそういう考え方がどの程度浸透していたかは分からない。

  島民全体の思惑がどうだったかはともかくとして,少なくとも島民の一部は,「日本軍に対して行ってきた協力の数々,多くの島民の死は,戦後必ず本土の人たちから評価されるようになる。そして必ず沖縄人も日本人として認めてくれるようになるはずだ。だからこの死は無駄ではない」と,文字通り命を懸けるほどの協力をし,期待し,信じていた。では現実はどうなったか。

  本土の多くの人たちが沖縄についての歴史認識を持っていない,というのがすべてだと思う。スポーツの世界では,韓国,中国との試合の時(特にサッカーの日韓戦とか)は,相手はライバル心むき出しで異様な盛り上がりを見せる。最近も中国重慶でのサッカーの際の反日デモが問題になった。なぜそうなってしまうのか。日本と中国,韓国で様々に言い分は分かれるが,中国や韓国が日本に対してなぜあんなにムキになるのか,彼らがどんな歴史認識を持っている故かということは我々日本人はよく知っている。

  では,沖縄県民が中国や韓国の反日に似た気持ちを多少なりとも持っている場合が少なくないということをどれほどの日本人が知っているだろう。本土に対して個々の沖縄人が実際にどんな感情を持っているかは別として,少なくとも沖縄県民ならだれでも,戦前から戦中にかけて,日本からどんなことをされたかということを知っている。そして,「第二次世界大戦で結局我々は日本から利用されるだけ利用されて捨て石にされた」と思っている人たちがたくさんいる。「自分の子供は壕から追い出されて殺された」,「自分のオジーは日本兵に殺された」という直接の当事者が沖縄には今尚大勢生きている。だから,沖縄で活動する自衛隊にかつての日本軍が重なってしまい,アレルギー反応が起きるのだ。沖縄県民の自衛隊に向ける目は厳しい。沖縄で活動する自衛隊員が,県民感情の厳しさを目の当たりにし,そうした中で活動を続けようと様々な配慮をしている様子について時々耳にすることがある。

  本土の人たちの沖縄旅行記,移住記などを見ると,好意的な記事が多数あるが,「沖縄の人たちは,観光で行くと親切だけど,住民になるとなぜか冷たい」とか,「せっかくこちらから溶け込もうとしているのに,なぜか壁のようなものを感じる」とか,「職場で同僚から仲間はずれにされた」という記事を時々目にする。恐らく上述したような過去の経緯が問題の真相である場合が少なくないと思う。また,沖縄の人とそれまで仲良く接していたのに,ある日を境に急によそよそしくなった,というケースは,悪気はないものの恐らく知らず知らずのうちに地雷を踏んでしまったのだ。

  ともかく沖縄人は,日本人に認められることを期待して命まで捧げたわけだが,そのことを知る本土の人は少ない。戦争で命を落とした島民がこのことを知ったとしたらどう思うだろう。そうしたことも相まって,内地の人に対して未だに激しい敵愾心を抱いている人は確かに実在する。それでも,そうしたことを踏まえてあえて言いたい。直接関係の無い本土の人にいつまでも仕返しを続けるのはもうやめにして欲しい。

  もう30年近く前の話になるが,オイラは小学1年の時,「東京からの転校生」として沖縄の小学校に入学した。両親も親戚も沖縄人だが,オイラは東京で生まれ育ったから方言を知らない。言葉のアクセントもクラスの皆と全然違う。そしてクラスメイトから激しい憎しみの対象になった。戦後30年が経過した時期のことだ。当然クラスの子供たちは戦時中のことを直接知っているわけではない。でもクラスメイトからオイラは”沖縄の敵”扱いされた。つまり,子供たちの親,祖父母の内地の人々に対する強い憎しみの感情は,確実に子供たちに語り伝えられているのだ。沖縄の小学校にいる間中,クラスメイトを通して,彼らの親が内地の人間にどんな感情を抱いているかを直に思い知らされた。

  沖縄の人は,内地の人のことを「ナイチャー」と呼ぶ(沖縄の方言には,語尾にerを付けた発音をすると,「○○の人」という意味になる単語がたくさんある。英語っぽい)。「アイツはナイチャーだから」というのは,学校内では立派ないじめの理由だった。「ウヌ ナイチャーグワーヤー」(この内地の人間め)という表現は小学生の頃よく聞いたフレーズだったが,当時の「ナイチャー」という言葉には,様々な人種,国籍の人を侮蔑する言葉に匹敵するニュアンスを含んでいた。これは,実際に沖縄の小学校で自分自身の体験により,肌身に感じたことだった。

  とは言ってもクラスメイトのすべてが「ナイチャー」に憎しみを露わにしたわけではない。出生地に関係なくわけ隔てなく接してくれる子もいた。また,本土からの転校生の中には上手く立ち回る子もいて,オイラのクラスにも,女子のリーダー格にまで上り詰めた子がいた。だから,内地からの転校生全員が自動的にいじめの対象になるわけではなかった。また,内地から転向してきた当初は,「ナイチャー」というレッテルが貼られて憎しみの的となるが,徐々に出身地ではなく,その人そのもので判断されるようになり,人柄や性格で周囲の対応が変化していく場合が多かったような気がする。しかし,立ち回りが下手だったりで,「ナイチャー」というレッテルがいつまでも剥がれず,もうボコボコにされ続ける子も何度か見かけることがあった。

  日本と沖縄の係わり合いについての歴史を知らない内地の人は,「ナイチャー」という言葉にどれほどの憎悪と侮蔑の念が込められているのかをまったく知らず,単に,「ああ,ウチナーグチで本土の人間のことをナイチャーって言うんだ」と考え,失礼な表現で申し訳ないが、自分で自分のことを「俺,ナイチャー」と脳天気に言うのだ。でも最近は内地の人が自ら「俺,ナイチャー」と言う機会が増えたせいもあってか,「ナイチャー」という言葉のニュアンスがユルくなってきたようだ。以前はTPOによっては,「ナイチャー」という言葉が発せられた途端,緊迫した空気に包まれることがあった。それが最近では笑って済まされる場合がとても多くなってきたように思う。良いことだ。

  沖縄の歴史認識を持たない内地の個々の人を責める気は毛頭ない。なぜなら,内地に普通に暮らしていれば,オイラもそんな中の1人になったであろうことは容易に想像がつくからだ。「沖縄=南国の観光地」 そんな情報は巷にあふれていて容易に入手できる。そんなステレオタイプの情報で沖縄に関するイメージが固まってしまうのは無理もないことだと思う。片や,沖縄の影の部分については,自分から積極的に調べようとしないと分からないことが多い。しかもテーマがテーマなだけに,積極的に調べようという気持ちにはなかなかなれない。その辺は,沖縄より本土での生活が圧倒的に長いオイラはよく理解できる。

  ともかく,時に本土の人と沖縄の人との間に生まれる誤解や緊張の元凶をたどっていくと,薩摩藩のことと共に,この第二次大戦についての認識の大きなギャップがあることが多いと思う。 

 

**NHKと沖縄**

   余談だが,オイラが沖縄に住んでいた頃,今はもうなくなってしまったようだが,小学校の近くにNHKの広い敷地があった。ケーブルを巻く大きな木製の筒などが置いてあり,勝手に秘密基地など作っては,よく遊んでいた。ある日誰が始めたのか,このNHKの事務所に入ると,中のおじさんからいろいろシールがもらえるという情報をキャッチした。オイラも友達と一緒に死ぬほど勇気を出して事務所に入り,何度かシールをもらったことがある。1度,もらったシールを事務所のドアにベタベタ貼って怒られたが。

  ところでNHKといえば昨今の不祥事による受信料不払いが問題になっている。NHKの不祥事そのものと,問題が明るみに出た際の当時の某会長をはじめとする対応のまずさに対する意思表示を,受信料不払いという形で突きつけているわけだ。ところで,沖縄の受信料は「特別料金」になっていて,通常より少し安い。更に沖縄は全国平均で不払い率が結構高いのだ。なぜか。本土とは逆だが,沖縄本島ではまず民放が放送を開始し,テレビの公共放送は,民放より9年遅れのスタートだった。県民はタダでテレビを見るのが当たり前という背景があるため(しかも民放でNHKの人気番組を放映していた),お金を払ってテレビを見るというシステムに強い抵抗を感じた。そうした特異な経緯を考慮し,沖縄は特別料金になっている。だが,公式には言いにくい理由があると思う。それはここまで記している沖縄の内地に対する感情の問題だ。

  NHKが沖縄に入る以前から既に放送を開始していた民放とは,沖縄テレビと琉球放送だ。沖縄企業のテレビを既に9年間タダで見ているところに,「ナイチャー」の放送局がやってくる。県民の感情からすれば,それだけでも心境穏やかではない。「NHKは公共放送です。国営放送ではありません。」と言う。しかし,県民感情からすれば,「ナイチャーの放送局」ということが分かれはもう十分で,公共だろうが国営だろうがそんなことはどっちでもいいことだ。しかも「受信料を取る」という。県民感情からしてこれが定着するわけがない。

  受信料を直接各世帯や事業所から集金しなければならない関係上,沖縄に進出した日本企業の中でも,特にNHKは内地に対する厳しい感情に直面することになった。例えば,ドアをノックしても出てこないのはまだいい方で,小銭を放り投げられたり,罵声を浴びせられたり,酔っ払いにテレビを投げつけられたり,と散々な目に遭った。家の人からの苦情やいやみに耐え切れず,また親戚や子供から反対されて(職員は現地採用者が多かったようだが,様々な事情で内地企業に就職した者に対し,親族がどんな感情を持ったか想像つくだろうか)NHKでの仕事を辞めていった人もいる。そうかと思えば,集金先の主人から,「この仕事をやりきれたら世の中の仕事は何でもできるから,しっかり頑張りなさいよ」と励まされた職員もいる。 

  そんなわけで,沖縄で安定的に受信料を払っている世帯は,約50%だそうだ。詳しい資料は見つけられなかったが,恐らく受信料未払い率は全国でもかなり悪いと思う。だから沖縄に赴任して来たNHK職員は,どうすれば県民に親しみを持ってもらえるかを考え続けたに違いない。今にして思えば,事務所に勝手に入り込んで来た地元の汚い子供(オイラ)に,おじさんが笑顔で親切にシールを渡し続けてくれたというのは,そういう流れから来ていたのかもしれないと勝手に想像する。

 


 

 (つづきます) 


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コメント 3

ばう

いろいろ勉強になりましたぁ!
沖縄好きで内地嫌いの私(東北人)は、こんな事も考えます。
◆近隣諸国に戦争で迷惑を掛けた償いとして、多額の「帰る当ての無い金」をばら撒く前に、沖縄にこそまずそうすべきだと。

先日、みのもんた氏が自分の朝の報道番組の中で、謝っているシーンがありました。
天皇、皇后両陛下がサイパンに慰霊された話の続きで沖縄の事に話題を向けた時に 「<b>島民の</b>みなさんこそ・・・・」と言ったすぐ後に、謝罪していたのです。
「<b>島民の</b>ではなくて、『県民』と言うべきだったのに、未だに自分自身の中で沖縄をいろいろな意味で「距離」を置いて見ている発言をした。
というものでした。
本当の意味で物理的に「距離」があるだけのこと・・・・そうなるには相当の時間が掛かることでしょうね。お互いに。
沖縄県に沢山の友人を持つ私には、また、時折連絡し合っている私には少しも
距離は感じません。 どの路地へ行っても、誰もいない島の海岸に立っても、とても「しっくり」来て、まるで何十年もここに居たような・・・・そんな感じです。
by ばう (2005-07-05 12:33) 

ばう

あれ?太文字にならない! フォント変えられないんだねー。(>_<)
by ばう (2005-07-05 12:39) 

とり

へー,みのさんて,電話で主婦相手にズケズケものを言うイメージだったので,すごく意外です。結構気を遣う人なんですね。
結局のところ,侮蔑する言葉になるかどうかは,言われた当人がどう感じるかで決まるのではないかと個人的には思っています。
「島民」と言われて,沖縄の人の中に不快な気持ちになる人がいるかなぁ。
以前何かの本か雑誌の中で,「言葉そのものに罪はない。差別語は,それを話す人の心の中で作られる」みたいなのを見たことがあります。
多分みのさんの心の中でひっかかったのはこのへんなんでしょうね。
by とり (2005-07-06 20:06) 

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