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原町飛行場(雲雀ヶ原臨時飛行場)跡地 [├空港]

 2009年9月 訪問 

無題8.png
1947年9月当時の写真(USA M486 15) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 


*見学の際、たくさんの地元の方にご協力いただきました。御礼申し上げます。

2016/9/18:防衛研究所収蔵資料:「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 水路部」の地図から作図しました。敷地境界線西側、南側が自信ないです。その他若干記事修正しました。

資料内に当飛行場についての情報がありましたので、以下引用させて頂きます。

面積 北東-南西 1,200乃至2,050米 北西-南東1,200米
地面の状況 平坦なるも南西より北東に向け1/100の下り傾斜を為す
硬度は普通にして一面に良好なる芝密生す 排水良好なり
目標 原町、陸前浜街道
障碍物 南東方付近に比高25米の丘陵、西方約4粁に国見山(高さ564米)あり
離着陸特殊操縦法 着陸方向は北東又は北西を可とす
格納設備 木造格納庫(20x30米)4棟あり
照明設備 なし
通信設備 北東方2粁に原町郵便局(電信及電話取扱)あり
観測設備 なし
給油設備 航空用燃料は少量程度補給可能なり
修理設備 なし
宿泊設備 原町に旅館9あり
地方風 11月-翌年3月間は北西風、4-6月間は南東風 7,8月は東風又は南東風、9,10月は東風又は南東風なり
地方特殊の気象 12月-翌年3月間は暴風期なり、7,8月は雷雨多し 冬季は比較的積雪少し
交通関係 原町駅(常磐線)北東方4.2粁 東側に接して原町に通ずる県道あり
其の他 (記載なし)
(昭和18年4月調)


福島県の旧原町(現在は合併して南相馬市)には有名な相馬野馬追祭場地があります。

その西隣に「原町飛行場」がありました。

原町飛行場のあった場所は、南相馬市原町区大字馬場、大字大木戸を中心に、

北東の神ケ崎、本陣前地区まで広がる一帯なのですが、

これはかつての旧相馬郡大田村から石神村にかけてに相当し、かつては周囲を野馬土手で囲まれた中村藩の放牧地で、

牛越原と呼ばれ、一般には野馬原と称していました。

明治初年、放たれていた野馬は捕らえられ、広大な原野は民間に払い下げられました。

雲雀ヶ原(ひばりがはら)と名付けられた原野は町の権力者に買い取られたところが多く、

他町村からやって来た多くの入植者が借地し、耕作地に変えていったのでした。

 

「野馬原」が入植地として変化を遂げていく一方で、

1919年(大正8年)、原町議会では飛行場の誘致を試みています。

この時の誘致はうまくいかなかったのですが、

1921年(大正10年)、東北県下に設置する陸軍飛行場候補地として当地が注目され、

町役場からは測量図面などの資料が提出されています。

翌1922年(大正11年)3月、陸軍は原町で飛行演習を実施し、大群衆が観戦しました。

これにより一般に航空思想が広まりました。

しかし結局飛行場建設には至らず、誘致運動も次第に沈静化しました。

 

1931年(昭和6年)、誘致運動が再燃することになります。

「陸軍飛行学校において東北地方に適当な飛行演習所を物色中」との情報を聞き、

志賀原町町長が上京して陸軍省に陳情、近隣の村々では、飛行協会を組織するなどして万全を期しました。

同年12月には2度にわたって調査官が候補地を訪れています。

調査結果は良好でした。

翌1932年(昭和7年)に決定した目論見書では、

土地総面積195,766坪1合、国有・民有の原野購入費用他として18,890円を計上しています。

今回は陸軍省から調査官の派遣や、土地整理の内達まであったため、実現するものと思われました。

しかし、その後誘致運動は中断され、飛行場建設計画はとん挫することになります。

 

原町は飛行場誘致に積極的だったのに対し、地元自治体も全面的に賛成だったわけではありませんでした。

1932年(昭和7年)、石神村は飛行場建設を議会で否決。

一方の太田村では1936年(昭和11年)、村議会で飛行場用地の払い下げを可決、

隣接する村で対応が分かれたのです。

1937年(昭和12年)、臨時陸軍飛行演習所開設決定。

原町では町の有力者が所有している陣ヶ崎部分を飛行場用地に提供しました。

32ヘクタールの土地と12,800円を福島県に寄付、見返りに用地内の伐木許可を申請しています。

用地整理は原町が担当し、急ぎ測量、伐木、整地作業が行われました。

用地内には昭和2年に設置された競馬場があり、原町競馬を終えてから競馬場の木柵を撤去して整地にとりかかりました。

同年10月21日議会提出の飛行場聖地収支清算書には、収入として第二師団経理部と寄付金から1,138円46銭、

支出として伐採保障費や整地費、観音碑移転料などで同額が清算されたとしています。

「雲雀ヶ原臨時飛行場」は11月10日に開場したと言われています。 

 

雲雀ヶ原で多くの人が入植したのは大木戸字南東方地内と松島地内という場所で、

石神村の時代になってからも入植者たちは大木戸集落に所属していましたが、

1939年(昭和14年)3月に念願の1つの行政区として独立し、石神村の「第14区」となりました。

いわゆる「自分達の部落」が誕生したのです。

地区の結束は非常に固いものでした。

そして「雲雀ヶ原臨時飛行場」 は、この石神村「第14区」に隣接していたのでした。

この年の9月、航空本部から2人の担当者が飛行場のある当地の検分に訪れ、綿密な調査を行いました。

両氏によればここは飛行場として適しており、

「14年いっぱいは熊谷飛行学校の演習地として使用し、その後は拡張して陸軍飛行場にする」との意向でした。

 

こうした軍の意向を受け、ついに石神村は昭和7年の飛行場建設反対の決定を覆したのでした。

石神村第十四区の住民にとって、昭和14年12月15日は決して忘れることが出来ない日となりました。

この日役場に集められて聞かされたのは、

「軍の飛行場敷地として買収されるので、戦争完遂のため軍の指示に従い、部落を上げて期日までに移転せよ」

という立ち退き命令であり、一同は「ただ唖然とするばかりであった」のだそうです。

しかも、「代替地は各自で探し、期日までに明け渡すように」というまことに勝手な言い分でした。

「御国のため」という言葉の前には誰も逆らえない、そんな時代でした。

 

住民強制移住の申し渡しから11日後の昭和14年12月26日、

石神村議会は「雲雀ヶ原飛行場設置に関する件」を諮りました。

軍への協力を否めない時代になっていたということと共に、

雲雀ヶ原入植地の大半が借地で自作農が少ないという土地柄が、この決定につながりました。

この時の石神議会では同時に、飛行場設置によって転居を余儀なくされる農民の家屋建材用に、

県道椚平原町線の並木の松を特売することを決めています。

注)1932年(昭和14年)4月、陸軍航空総監部計画設計、熊谷組の施工により、飛行場建設に着手。翌年3月、熊谷陸軍飛行学校第二大隊第4中隊が設置され、6月には原町陸軍飛行場が正式に開場する。という資料あり

 

1940年(昭和15年)に入ると1月から用地の買収が始まりました。

飛行場内を貫通している県道の付け替え、共同墓地の移転売却、移転者に対する交付金等、

軍の豊富な予算に後押しされて、飛行場はあっという間に整備されていったのでした。

移転を指示された石神村の範囲は第十四区と馬場、大木戸の一部でした。

移転者の不動産は評価を受けることになります。

家屋は一等級から八等級の間で評価されるのですが、

当時の小作農の民家は粗末なもので、たいがいは最低評価の八等級でした。

防風林、竹林、果樹や桑園、麦畑も評価され、畑地は反別240円、山林120円でした。

この程度の補償額では、移転先の購入価格を勘案するとまったく余裕はなかったのだそうです。

加えて保証金の支払いは分割払いであったため、現金が必要な各家は相当な難儀を強いられました。

 

全部で100戸近い農家の短期間での一斉移転は他にも思わぬ苦労がありました。

職人は同時に建設する飛行場に徴用されたため、家を立てるにも職人の確保が難しかったのです。

釘やセメントなどは資材不足で配給以外に入手する手立てがなく、多くが値上がりしました。

石神村当局でも移転先を斡旋したり、払い下げ木材を提供するなどの支援をしています。

第十四区として積み重ねてきた歴史や地区のまとまりは、こうして突如突き崩されてしまいました。

移転を余儀なくされた人々は、移転先で様々なものを再び一から積み上げていかねばならなかったのです。

こうして入植者たちの念願だった「第十四区」は、発足から僅か1年余で消滅してしまいました。

結束の強かった「第十四区」の人々はやむなく四散する際、春秋の例祭には寄り合って祭りを行うことを約束したのだそうです。

飛行場の開設という華やかな出来事の影で、理不尽な仕打ちにより多大な労苦を被った人たちがいたのでした。

 

1940年(昭和15年)6月、原町飛行場開場。

当初は「熊谷飛行学校分校」として落成開校式を挙げたのですが、

その後、1941年(昭和16年)6月、明野陸軍飛行学校に移管して「明野飛行学校原町分校」となり、教育課第一中隊を設置。

9月には水戸陸軍飛行学校に移管し、第三中隊を設置。

翌1942年(昭和17年)7月、鉾田陸軍飛行学校に移管、第二中隊を設置。

「鉾田飛行学校原町分校」となりました。

このように、初期には短期間での移管が相次いだのですが、主に陸軍士官学校生の教育が行われました。

戦局悪化が顕著となっていた1944年(昭和19年)5月、「鉾田教導飛行師団原町飛行隊」と改称、

実施学校の軍隊化が急速に推し進められました。

同年11月、陸軍特別攻撃隊が編成され、フィリピン島方面に特攻を実施。

翌1945年(昭和20年)3月以降は、終戦まで本土決戦特攻隊の錬成基地となり、

幾隊もの特攻隊が編成され、地元民の盛大な見送りの中、出撃基地へ前進していきました。

原町飛行場にて編成(仮編含む)された特攻隊は、

フィリピン島方面の作戦においては、八紘部隊大五隊の「鉄心隊」・同第八隊の「勤皇隊」・同十一隊の「皇魂隊」があります。

後の沖縄方面の作戦においては、第四五振武隊の「神州隊」・第六四振武隊の「国華隊」があります。

原町校出身の航空兵が所属した特攻隊は、他にも万朶隊・進襲隊、皇華隊などがあり、

これら以外にも花街飛行場関係の戦没者は数多くいます。

 

飛行場は1945年(昭和20年)2月16日と8月9、10日に艦載機による空襲を受け、

掩体内の航空機や対空陣地に被害が出るとともに、

紡績工場や機関区なども攻撃対象となって原町中心部にまで戦禍が広がったのでした。

8月15日 終戦。原町陸軍飛行場は役目を終えました。


飛行場は戦後接収され、10月20日福島県が飛行場用地全てを引継ぎ、

11月20日に正式に原町町長から福島県に引き継がれました。

雲雀ヶ原は再び農耕地として開放され、かつての住民や外地からの引揚者などにより、開墾地として活用されることになりました。

灌漑用水の確保が難しい土地であったために、

深井戸を掘って地下水を利用できるようになる昭和30年代まで収穫は安定せず、

やむなく土地を離れる人も少なくなかったのだそうです。

強風の吹く日は空が真っ黒になるほどの土ぼこりを巻き上げていた雲雀ヶ原も、

半世紀を過ぎると、初期に住み着いた農家の屋敷林に農村のたたずまいが残る程度で、

すっかり近郊住宅地に変貌してしまいました。

D20_0063.jpg

現在の雲雀ヶ原の通り。

飛行場用地と建築物は払い下げられ、学校などの公共施設として使用されました。

現在では陣ヶ崎の公会堂以外、ほとんどが建て替えられてしまいましたが、

今でも飛行場正門の門柱、格納庫の壁や神社など、わずかな遺構に当時を偲ぶことができます。

また陣ヶ崎公園墓地に飛行場慰霊碑があり、地元空襲による犠牲者、飛行場関係、特攻殉職者の名が刻まれています。

ということで遺構を見て回りました。

D20_0066.jpg

陣ヶ崎二公会堂

飛行場の食堂を移築したものだそうです。

資料によりますと、当時食堂は正門から少し西側に離れた場所にあったようです。

公会堂を探し回っていて発見した時、素人目にはとても戦時中の建物には見えなかったため、

後からもう一度戻ってきて撮ったのでした。

D20_0209.jpg

飛行場格納庫の礎石。かなり大きいです。

D20_0204.jpg

道路沿いに同じ形のものが並んでいて、

D20_0206.jpg

向こう側にも同じものが並んでいました。

D20_0202.jpg

飛行場正門跡。敷地外から。

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D20_0195.jpg

飛行場敷地内から。

D20_0039.jpg

石碑

D20_0041.jpg

「墾心楽土」 碑文(全文) この地区は 藩政時代は野馬の放牧地であったが 明治維新に官地編入となり 其の後部落有志に払い下げられた処である 昭和十五年 原町飛行場が新設され 強制移転となった農家が この地に転住し林野を開畑したが戦事下の食糧難や物資不足の時代の開墾には並々ならぬ困難を極めたのであった 漸く開畑を見たが幾多の被害に適作物も数少なく悩まされ続けたのであるが 昭和三十五年頃より水稲が作付され 飯米の確保が出来安心を得たのである 然かし地下水の過剰揚水が 大瓮地区の地盤沈下の原因と認定され市条令に依り地下水の採取規制となり 又々障壁に当面したのである この解決には 圃場整備事業以外になしと地区組合員一丸となり昭和六十年より事業に着工を見ようやくこの処に完成を見たのである これに依り区画は整備されコストの軽減と横川ダム用水で水源の問題も解決を見たのである 此の重大なる工事完成を実現した喜びとその履歴を永遠に後世に伝える為 此処に記念碑を建立するものである 平成三年三月 古小髙 宏翁撰

基地からこんな近い場所も移転先になったのですね。


     福島県・原町飛行場跡地     

原町飛行場 データ
設置管理者:陸軍飛行場
空港種別:陸上飛行場
所在地:福島県南相馬市原町区上太田陣ケ崎
座 標:N37°37′06″E140°56′29″
敷 地:2,500mx1,400m
標 高:51m
面 積:220ha
(座標、敷地、標高、面積はグーグルアースから)

沿革
かつては中村藩の放牧地だった
明治初年 広大な原野が民間に払い下げられる
1919年 原町議会、飛行場誘致を試みる
1921年 東北県下に設置する陸軍飛行場候補地として注目され、町役場から測量図面等資料提出
1922年 03月陸軍、飛行演習を実施
1931年 12月町長による上京誘致活動の末調査官が雲雀ヶ原調査
1932年 石神村、飛行場建設を議会で否決
1936年 11月? 雲雀ヶ原臨時飛行場開場?
1940年 01月用地の買収
      原町飛行場熊谷飛行学校分校開校
1942年 07月鉾田飛行学校に移管
1944年 05月鉾田教導飛行師団原町飛行場に改称
      11月陸軍特別攻撃隊編成
1945年 02月飛行場、原町紡績工場に空襲(県内初空襲)
      03月終戦まで本土決戦特攻隊の錬成基地となる
      戦後、飛行場跡地は引揚者などにより再び農耕地に

この記事の資料:
原町市史
南相馬市博物館
現地の碑文
いわき地方史研究 第45号
陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 水路部」


コメント(21)  トラックバック(0) 

コメント 21

Takashi

福島県の旧原町市は、私の生まれた場所です^^おふくろの実家が馬場なんですよ。
子供の頃は毎年のように行っていた場所に、このような歴史があったのを知りませんでした。
地図を見ていて懐かしくなってきました^^
by Takashi (2009-11-28 08:14) 

me-co

07といっても専ら中通りの方でしたので、浜通りの方は馴染みが薄いのですが、こういうところがあったとは、知りませんでした@@
それにしても、今回も過去を徹底的にアーカイブの力作!天晴です^^♪
by me-co (2009-11-28 14:33) 

sak

日本の空港の歴史って
戦争の歴史なのですね...
今は夢を与えてくれる場所だけど
昔は...
なんだか飛行機に乗る時
歴史の中にいる人のご冥福を祈ることと
ある面で感謝しなきゃ...って
by sak (2009-11-28 22:32) 

koume

最初の写真の道の真っ直ぐなこと!
もしかして、滑走路の後を道路として整備したのかなーなんて…(想像)
普通の住宅街にも、裏にはこんな歴史があるのですね。
先人達の苦労の上に、現在の生活があると、思わずにはいられません。
by koume (2009-11-28 23:43) 

miffy

瓦屋根は葺き替えたのでしょうけど、戦時中の建物がそのまま残ってるのってスゴイですね~
プロペラだとそんなに距離がなくても離着陸できるからか今考えると不思議な場所にある空港が多いですね。
by miffy (2009-11-29 00:33) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■Takashiさん
なんと! そんな場所でしたか!(@Д@)
びっくりしました。

■me-coさん
どうもありがとうございます。
>浜通り
独特の表現ですよね~^^

■sakさん
まったく同感です( ̄人 ̄)

■koumeさん
>滑走路
オイラもそう思いました。
随分調べたのですが、残念ながら滑走路の位置を特定することができませんでした。
でもここの可能性あると思います。

■miffyさん
10年前に建てた。と言われたら信じます。
よくこんなしっかりと残ってるものですよね~。
by とり (2009-11-29 06:44) 

ハイマン

中々ミステリーハンターっぽくって
面白いですね。
滑走路発見できず残念。
リベンジを期待します!
by ハイマン (2009-11-29 09:07) 

カンクリ

とりさんは、本当に詳細に調べられていらっしゃいますね!(^^)b
現在福島に住んでおりますけど、私が知らない事ばかりで・・。(^^;
この原町で毎年行われている「野馬追い祭り」には是非行ってみたいと毎年思うのですが、なかなか実現しません。来年こそ・・?


by カンクリ (2009-11-29 11:27) 

masa

飛行場の正門跡、今でもはっきりとわかるように
残されているんですね。
by masa (2009-11-29 13:43) 

takechan

いろいろ歴史がありますね。二度と、こうした軍事施設が造られない
ことを祈ります。
by takechan (2009-11-29 15:33) 

pica

そこで暮らす人々の生活が脅かされることのない時代が
いつまでも続きますように。
(ちょっと某ダム問題とかとか思い出しちゃいました)

その春秋の祭りは開かれたのですか?
by pica (2009-11-29 16:43) 

とり

■ハイマンさん
>リベンジ
了解です!^^

■カンクリさん
>知らない
オイラもまだ地元埼玉の飛行場のこと、不明なことだらけなんですよ^^;
原町のことをいろいろアップできたのは、
地元の方々がキチンと記録を残してくださっているおかげです。
あちこちで地元の方にお聞きしましたが、みなさん親身になっていろいろ教えてくださいました^^

■masaさん
そうですね~。よく残してありますよね。
ビックリしました。

■takechanさん
そういう世の中になるといいですね~。

■picaさん
>某ダム問題
本当ですね~。
>祭り
Σこんな長々とした記事で、まさかそんなところまで読んで下さる方がおられるとは思いませんでしたよ。
資料を確認したのですが、祭りをしたかどうかはっきりした記述は残念ながらありませんでした。
ただし推測できる点として、この「十四区」には地元からきちんと分霊した神社があり、
飛行場建設の際には、近隣の馬場にキチンとこの神社を遷しています。
「春秋の例祭には~」という記述はこの後に続いてました。
また、共同墓地もいくつかのまとまりで移しています。
by とり (2009-11-30 06:35) 

pica

わざわざ調べてくれたんですね。
ありがとうございます♪
by pica (2009-12-03 17:29) 

とり

■picaさん
どういたしまして^^
by とり (2009-12-07 20:14) 

コスト

>代替地は各自で探し これはまさに唖然としかいいようがないですね
飛行場跡と一口で言っても、当然元々住んでた人もいて歴史もあるんですね。

>南相馬市 地図拡大していってやっと場所がわかりました
福島県でも太平洋側だったんですね。
高速道路からも離れててなかなか遠いですね^^;
by コスト (2009-12-21 21:42) 

とり

■コストさん
これは住民の方にとってはまさに唖然ですよね。
サラリーマンの立ち退きとはレベルが違いますし。
>南相馬市
いわゆる浜通り地方ですね。
結構遠かったです^^
by とり (2009-12-23 07:27) 

domingo

花街飛行場とあるは、誤植ですので、原町に訂正されたし。
by domingo (2014-04-23 12:02) 

domingo

原町紡績工場とあるは、正確には紡織工場が正式名称です
by domingo (2014-04-23 12:04) 

とり

■domingoさん 
情報ありがとうございました。
後ほど記事修正致します。
by とり (2014-04-28 18:15) 

とり

■domingoさん 
domingoさんにいろいろお聞きしたいことがあります。
リンク先コメント欄参照されたし
http://airport1111.blog.so-net.ne.jp/babadaira-airstrip
by とり (2015-06-26 16:54) 

とり

■domingoさん 
下記リンク先の「どみんご」というのも福島つながりの調査員で同じく貴方のことではありませんか?
http://airfield-search2.blog.so-net.ne.jp/2011-08-06
私はご遺族の方と連絡をとり、情報提供の段まで取り付けていたのですが、
その後「どみんごさん」からの音信が途絶えたままです。
一体どうしたことでしょうか?
by とり (2015-06-27 13:25) 

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