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浅茅野第二飛行場 [├空港]

 2009年7月 訪問 

D20_0001.jpg

宗谷岬からオホーツク海に沿って30キロ程南下したところにある「さるふつ公園・道の駅」

大戦当時、そのすぐ西側には「浅茅野(あさじの)第二飛行場」がありました。

上の写真は道の駅西側部分。現在は村営牧場が広がっています。(手前はパターゴルフ場ですが)

当時はちょうどこの辺りに、滑走路、誘導路が広がっていたハズです。

 

あさじのb.PNG

ぐーぐる地図に上の1947年の滑走路、誘導路を重ねるとこんな感じ。
(フリーハンドで書いてますので多少ズレてます)

そして2005年の地図と比較してみると・・・

よーく見ると部分的にですが、道の形がなんとなく滑走路/誘導路に似ているのです。

2つの地図は縮尺が異なっていたり、(古い方の地図は)正確にノースアップしていないので、

個人的に重なるような地図を作って比べてみました。

国土地理院の地図は転載不可なのでここにアップできないのが残念なのですが・・・

 

あさじのc.PNG

黄色の線が当時の滑走路、誘導路のラインを道にしている(と思われる)部分です。
(滑走路、誘導路と無関係の道路は省略してますのでご了承くださいませ)

地図に表示されている通り、この部分は完全に「村営牧場」のエリア。

部外者のオイラが勝手に入って良いのか不明なのですが、

「現地に行って、入れるものならば通ってみよう」と考えてました。

 

で、イザ車で向かったら、特に「関係者以外立ち入り禁止」という標識もなく、あっさり入ることができました。

てっきり、「村営牧場」という巨大な牧場が1つあって、延々と柵で囲われているのかと思っていたのですが、

幾つかに分割して柵で囲ってあり(分割した1つがまたドデカイんですが)、境界線に道路が走っている感じでした。

 

あさじのD.PNG

以下、現場の写真をズラズラと。

あ、その前にですね、「浅茅野第二飛行場の滑走路、誘導路の一部が道路として残っている」

というのは今のところソースなしで、オイラの持論です(少なくともネットでは確認することができませんでした)。

結構時間をかけて慎重に確認したつもりなのですが、オイラの壮大な勘違いの可能性もありますので、

どうかご了承下さいませ。

 

 

D20_0018.jpg

(A地点)

滑走路南側。 当時は誘導路のT字路になっていました。

2005年の地図で見ると原型を留めてますが、現在車で通れるのはここから南と西に向かう部分のみ。

 

D20_0021.jpg

(B地点) 

同じく滑走路南側。誘導路のT字路がそのまま道路になっています。

この少し手前にシカが出ました。

 

D20_0027.jpg

(C地点) 

行き止まり。当時はここから緩やかに右側にカーブを描きながらD地点(西側ランウエイエンド)に誘導路が続いていたはずです。

2005年の地図で見ると、この先の部分も微妙に残ってるみたいですね。

 

D20_0043.jpg

(D地点)西側ランウエイエンド部分

向こう側に小さく見えているのは道の駅の施設なので、当時はここから向こうに向かって滑走路が延びていたはず。

ここは滑走路の角の部分で、2005年の地図だとうっすら滑走路の形が浮かんでいるように見えるのですが、

現地では特に道の駅方向に滑走路跡を示すようなものは発見できませんでした。

 

D20_0048.jpg

(E地点) 

奥の建物は道の駅の施設です。

こちら側は途中まで当時の滑走路に沿った道路が続いてます。

ここからあの施設に向かって、ダーッと滑走路があったハズ。

 

浅茅野(あさじの)第二飛行場:map 


   宗谷郡・浅茅野第二飛行場   

浅茅野(あさじの)第二飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
種別:陸上飛行場
設置目的:宗谷海峡防衛、対米作戦
所在地:北海道宗谷郡猿払村浜鬼志別
座 標:N45°19′45″E142°09′59″
面 積:33ha
滑走路:1,600m×200m
磁方位:09/27
無蓋掩体壕:30(31という資料もあり)
*座標、磁方位はグーグルアースにて算出

沿革
1943年04月 着工、同年12月に用地買収
1944年7月? 完成
1945年09月 米軍進駐により駐屯部隊解散となり閉鎖。

第2飛行場は1943年(昭和18年)5月に予定地が決定し、鉄道工業が請け負った。
12月に陸軍省が浜鬼志別原野214番地の33haを買収、
44年7月までに滑走路の転圧を終えて一応の完成を見ている。

関連サイト:
Wikipedia/浅茅野飛行場   
国土地理院 1947年10月当時の写真(USA M579 126) (■→「同意する」→戻る→再度■をクリック)   
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稚内空港 [├空港]

 2009年7月 訪問 

D20_0397.jpg

ターミナルの色、変わってますね。

 

D20_0398.jpg

 

D20_0399.jpg

 

D20_0348.jpg

 

D20_0394.jpg

展望デッキには出られません。残念。

 

D20_0395.jpg

 

D20_0349.jpg

ここのスペースから眺めることができます。

 

D20_0351.jpg

 

D20_0354.jpg

 

D20_0355.jpg

すぐ下に立ち入りできない屋外のデッキが見えます(涙

このデッキも変わった色ですね。

宮古空港みたい。

 

D20_0357.jpg

ところでですね、この記事書いてて改めて見返して気が付いたんですけど、

前記事(利尻空港)で見たヒコーキとこのヒコーキは同じヒコーキでした。

新千歳に戻った後、今度はコッチに来たんですね^^

 

D20_0360.jpg

 

D20_0361.jpg

 

D20_0365.jpg

 

D20_0377.jpg

 

D20_0393.jpg

 

稚内空港:map 


    稚内市・稚内空港      

    ビュー:☆☆★★★  
4Fに屋内型の無料展望デッキあり
エプロン、滑走路全域見渡せる

    施設:☆☆☆★★  
ターミナル前に無料駐車場あり
レストラン、売店あり

    マニア度:☆☆★★★  
周辺は撮影スポットに恵まれている

    総合:☆☆★★★  
空港周辺は荒涼とした草原。天気と相まってとても寂しい風景でした

稚内空港 データ
設置管理者:国土交通省 
3レター:WKJ
4レター:RJCW
空港種別:拠点空港(国管理空港)
運用時間:8:30~18:30
所在地:北海道稚内市大字声問村字声問
標 点:N45°24′15″E141°48′03″
標 高:8.0m
面 積:96ha
滑走路:2,000m×45m
磁方位:08/26

航空管制周波数
・航空路管制
 札幌コントロール(北海道東セクター)127.50 132.60 134.25
・飛行場アドバイザリー 
稚内レディオ 118.30 126.20

沿革
1959年07月 開港 滑走路1,200m
1986年10月 滑走路延長1,800m
1988年07月 滑走路延長2,000m

関連サイト:
稚内空港ビル     
えあぽネット/稚内空港     
北海道開発局/稚内空港      
国土交通省東京航空局/稚内空港   
Wikipedia/稚内空港    
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利尻空港 [├空港]

 2009年7月 訪問 

D20_0257.jpg

北海道利尻島の「利尻空港」。

RWY/07からやって参りました 

 

D20_0265.jpg

新千歳発 ANA4929便 

 

D20_0270.jpg

結構大きなデッキ

 

D20_0276.jpg

本当は正面にばばーんと利尻富士がそびえているはずなのですが・・・

今日は麓がちょっと見えているだけ。残念。

 

D20_0285.jpg

12:55 定刻より10分遅れで到着

 

D20_0286.jpg

 

D20_0290.jpg

 

D20_0291.jpg

 

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13:35 今度は定刻より5分早い出発

 

D20_0299.jpg

 

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D20_0337.jpg

新千歳に戻って行きました

 

利尻空港:map 

 


    北海道・利尻空港     

 

  ビュー:☆☆☆★★  
2階に無料展望デッキあり
フェンス低く、エプロン、滑走路全域見渡せる

    施設:☆☆☆☆★  
明るくコンパクトで利用しやすいターミナル
展望デッキ手前に小さい売店、喫茶店あり
ターミナル前に無料駐車場あり

    マニア度:☆☆☆★★  
展望デッキ正面に秀峰利尻富士

    総合:☆☆☆★★  
展望デッキ正面に見える利尻富士が麓まで隠れて見えないと大変らしい

利尻空港 データ
設置管理者:北海道
3レター:RIS
4レター:RJER
空港種別:地方管理空港 
運用時間:9:00~17:00
所在地:北海道利尻郡利尻富士町鴛泊字本泊
標 点:N45°14′23″E141°11′29″
標 高:30.1m
面 積:66ha
滑走路:1,800m×45m
磁方位:07/25

航空管制周波数
・航空路管制
 札幌コントロール(北海道東セクター)127.50 132.60 134.25
・飛行場アドバイザリー
 利尻リモート 122.70(RAG)

沿革
1962年08月 開港 滑走路600m
1974年05月 滑走路延長800m
1997年04月 新滑走路使用開始800m
1996年06月 滑走路延長1,800m

関連サイト:
北海道開発局/利尻空港     
国土交通省東京航空局/礼文空港   
Wikipedia/利尻空港         
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礼文空港(休止中) [├空港]

 2009年7月 訪問 

2014/12/27追記:空港休止期間、2021年3月末まで延期だそうです。

D20_0240.jpg

北海道礼文島にある「礼文空港」。

 

D20_0242.jpg

標識に従って鋭角に左折してどんどん登って行くと空港です。

 

D20_0243.jpg

VOR/DMEが設置してありました。

ここまでの方位/距離をヒコーキに知らせます。

遮るものがなく、風が非常に強いです。

 

D20_0247.jpg

一旦登ったところから少し下っていった所に空港入口がありました。

 

D20_0248.jpg

 

D20_0230.jpg

 

D20_0234.jpg

 

D20_0237.jpg

 

D20_0250.jpg

 

礼文空港:map 


    礼文郡・礼文空港   

他サイトにエアー北海道時代の記録が残っていて、1日1便お昼の時間帯に稚内と25分で結んでいたことが書かれてました


礼文空港 データ(運行当時含)
設置管理者:北海道
3レター:RBJ
4レター:RJCR
空港種別:地方管理空港 
運用時間:9:00~15:00
所在地:北海道礼文郡礼文町
標 点:N45°27′18″E141°02′21″
標 高:27.3m
面 積:11ha
滑走路:800m×25m
磁方位:14/32
航空管制周波数 124.30(稚内レディオ)

沿革
1965年     空港設置調査開始
1978年06月 開港 日本近距離航空DHC-6 礼文-稚内季節運航
1084年03月 日本近距離航空 通年運航開始
1993年03月 進入角指示灯供用開始
1994年07月 エアー北海道に移管
2003年04月 定期便運休
2009年04月 2015年3月31日まで6年間 空港休止に

関連サイト:
北海道/礼文空港     
国土交通省東京航空局/礼文空港   
Wikipedia/礼文空港      
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愛別飛行場 [├空港]

  2009年7月 訪問 

2014/12/27追記:愛別飛行場は2013/12/31廃止しました。記事修正しました

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北海道上川郡愛別町にあった「愛別飛行場」。

付近にあった案内標識

 

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立派な碑ですね。

坂を上がって行くと頂上が開けていて、まずこの碑が目に付きます。

 

D20_0201.jpg

カラフルな格納庫(の裏側)。

 

D20_0199.jpg

格納庫の表側

 

D20_0193.jpg

 

D20_0192.jpg

事務所をノックしたのですがお留守でした。残念。

ちょうどどこかに飛んで行ってたのかしらん。

 

D20_0197.jpg

広々とした駐車場

 

D20_0195.jpg

RWY07側

 

愛別飛行場:map 


     上川郡・愛別飛行場    

 

ダイコロ社の「ダイコロ愛別飛行場」でしたが、北陸航空及び大阪共同航空が管理する「愛別飛行場」となりました。その後、国土交通省東京航空局に対し北陸航空株式会社より愛別飛行場廃止届の提出があり受理したため、2013年12月31日をもって廃止となりました。愛別町は全国の市町村で初めて自家用飛行機を持った町で、ムーニーM20K「あいべつ号」を当飛行場で運用していました。

愛別飛行場 データ
管理者:北陸航空、大阪共同航空
空港種別:非公共用
所在地:北海道上川郡愛別町字愛別683
標 点:N43°52′56″E142°36′34″
標 高:312m
滑走路:880m×25m アスファルト舗装
磁方位:07/25
格納庫:48m×20m駐機面積960㎡コンクリート舗装
駐車場:大型車3台、普通車35台
航空管制周波数 123.5 AIBETSU FLIGHT SERVICE

関連サイト:
国土交通省/東京航空局プレスリリース「愛別飛行場(非公共用)供用廃止について」   
 Wiki/愛別飛行場
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旭川空港 [├空港]

  2009年7月 訪問 

D20_0082.jpg

展望デッキから見た左側(RWY34)

 

D20_0080.jpg

正面から見るとこんな感じ。 

PBBにあの動物園の宣伝が。

 

D20_0088.jpg

このところ小さな飛行場とか、飛行場跡地ばかり行っていて、いわゆる「空港」には久しぶりに来ました。

グアムを別にすれば、「初めてお邪魔する空港」としては昨年の徳島空港以来1年ぶりです。

 

D20_0083.jpg

右側(RWY16)

 

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デッキの端からだと、ちょおっと照明のポールが邪魔ですけど、眺めバッチリですね。

 

D20_0085.jpg

デッキにはこんなものも。

 

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明るいターミナル内部。

 

D20_0093.jpg

 

D20_0094.jpg

ターミナル隣にある「航空公園グリーンポート」

 

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グリーンポートからエプロンの様子や・・・

 

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タキシングするヒコーキがよく見えます。

以下、同じくグリーンポート側から

 

D20_0105.jpg

 

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今度は滑走路の反対側に来ました。

こちら側からだと、大雪山、十勝岳を背景にした美しい写真が撮れるそうで非常に楽しみにしてたのですが、

遠くの方が霞んでました(涙

周辺にはすんごい大砲構えた人たちが何人かいました。

やっぱり超有名なスポットなんですね~。

 

ところで以前も書いたのですが。

DC-9系とかDC-10系とか、リアエンジンて、胴体と平行でなくて前上がりに取り付けられてますよね。

この理由が未だ分かりません。

上のような写真を見るたび、もー気になって気になって。

どなたかご存知の方教えてください~m(_ _)m

教えてくださった方には、旭山動物園1年間フリーパス、なんとペアでプレゼント!(嘘)

 

D20_0152a.jpg

 

D20_0156.jpg

 

D20_0168.jpg

離陸から2分後、再び上空に姿を現しました。

はいすてーしょん?

 

旭川空港:map 


   上川郡・旭川空港   

 

  ビュー:☆☆★★★   
ターミナル3階に広い展望デッキあり。大人50円
所々フェンスが高いが、見晴らし良い

  施設:☆☆☆☆★   
ターミナル前に有料駐車場あり
建物は明るくキレイ
土産物店では、ロイズチョコ、白い恋人、ラーメンなど
案内表示が大きくハッキリしていて非常に分かりやすい
空港正門周辺も美しい

  マニア度:☆☆☆☆★   
航空公園グリーンポート、空港西側、RWY34エンド周辺など、撮影スポット多い

  総合:☆☆☆☆★   
数十キロの範囲内に大雪山、十勝岳、富良野があり、風景写真で有名な美瑛も近い
「これぞ北海道」という美しい風景に囲まれた空港

旭川空港 データ
設置:国土交通省 管理:旭川市
3レター:AKJ
4レター:RJEC
空港種別:拠点空港(特定地方管理空港)
運用時間:8:00~21:00
所在地:北海道上川郡東神楽町
標 点:N43°40′15″E142°26′51″
標 高:210.5m
面 積:214ha
滑走路:2,500m×60m
磁方位:16/34
航空管制周波数
・飛行場管制 
 大雪タワー 118.55 126.20
・航空路管制
 札幌コントロール(北海道東セクター) 127.50 132.60 134.25

沿革
1966年06月 開港 滑走路1,200m、第三種空港
1980年06月 第2種(B)空港に変更
1982年02月 滑走路1,640mに延長
      11月 滑走路2,000mに延長
1997年02月 滑走路2,500mに延長
2004年10月 コールサインを「旭川レディオ」から「大雪タワー」に変更。管制官配置。

関連サイト:
旭川空港ターミナル      
えあぽネット/旭川空港      
北海道開発局/旭川空港      
国土交通省東京航空局/旭川空港   
Wikipedia/旭川空港     
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美瑛町滑空場 [├空港]

 2009年7月 訪問 

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北海道上川郡美瑛町にある「美瑛滑空場」。

探すのに少し手間取りました。

道道沿いに案内板発見!

 

D20_0053.jpg

美瑛滑空場到着~

 

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中に入ることはできませんでした。残念!

 

D20_0056.jpg

 

D20_0061.jpg

 

D20_0062.jpg

 

北海道上川郡美瑛町:map 


    上川郡・美瑛滑空場    

予約を入れれば、体験飛行できるそうです

美瑛町滑空場 データ
設置管理者:美瑛町
開設期間:5月~11月の土・日曜日 休日/平日・祝日
運用時間:9:00~17:00
所在地:北海道上川郡美瑛町字美沢川向
標 点:N43°31′45″E142°34′07″
標 高:362.7m
滑走路:1,000m×40m
磁方位:13/31
航空管制周波数 130.8

関連サイト:
ブログ内関連記事  


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赤平スカイスポーツ振興センター [├空港]

 2009年6月 訪問 

D20_0037.jpg

ここは北海道赤平市の運営するスカイスポーツ振興センターです。

隣接する滑走路(赤平航空公園)では、パラプレーンやモーターグライダー、飛行機やヘリコプターなどのラジコンを飛ばすことができます。

ただし現在当建物は休止中。

「使ってない」ということは、現場に行って初めて知りました。

 

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独特な外観ですね。

 

D20_0036.jpg

施設前の駐車場はご覧の通り。

コンテナとか農機具などがたくさん置いてありました。 

 

D20_0045.jpg

隣接する空知川の土手から見るとこんな感じ。

 

D20_0048.jpg

土手の反対側はこんな感じ。

吹流しのポールでしょうか。

 

D20_0042.jpg

建物使用してない→滑走路見当たらない→溶けて無くなったに違いない

と勝手に思い込んでいたのですが、戻ってからよく調べたら、

上の写真の奥の方に立派なアスファルトの滑走路があるみたいです。トホホ。

2006年にラジコンヒコーキの大会でココの滑走路を使用したというサイトがありましたし、

2009年にも使用する予定をしている。というサイトがありましたので、

施設休止後も滑走路は使用しているみたいですね。

2014/2/19追記:2013年に滑走路撮って来ました。詳しくは下記「ブログ内関連記事」の二つ目の■をご覧くださいませ

 

赤平航空公園:map 


    赤平市・赤平スカイスポーツ振興センター   

市のサイトを見てみると、厳しい財政状況からここ以外にも様々な施設が遊休状態にあり、現在これらの施設の有効活用と財産処分(売払い・解体など)の検討を進めているようです

赤平航空公園 データ
設置管理者:赤平市
所在地:北海道赤平市住吉町152-4
標 点:N43°34′22″E141°59′27″
標 高:35.0m
滑走路:120m×20m
磁方位:08/26

沿革
1992年? オープン
2002年 施設管理期間短縮
2004年 施設休止

関連サイト:
赤平スカイスポーツ振興センター→
ブログ内関連記事   


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南幌場外離着陸場 [├空港]

  2009年6月 訪問 

無題2.png

夕張川の河川敷内、なんぽろリバーサイド公園にある小さな滑走路です。

 

D20_0033.jpg

お邪魔した時はちょうど草刈作業中で近づくことができませんでした。残念。

 

D20_0034.jpg

南幌スポーツ航空協会さんが活動してます 

 

南幌場外離着陸場:map 


    空知郡・南幌場外離着陸場    

クラブ員の方がウルトラライトプレーンで活動されています。

南幌場外離着陸場 データ
設置管理者:南幌町
空港種別:場外 ULP用
所在地:北海道空知郡南幌町南12線西3番地
座 標:N43°05′32″E141°40′02″
滑走路:200m2本
磁方位:10/28、15/33
*座標はグーグルアースにて算出

関連サイト:
南幌スポーツ航空協会  
なんぽろリバーサイド公園  
公園の地図
ブログ内関連記事    


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札幌第一(北海タイムス社、札幌)飛行場跡地 [├空港]

 2009年6月 訪問 

札幌飛行場跡地.PNG

札幌市内には丘珠空港(正式名称:札幌飛行場)があって、札幌市と道内各都市を結ぶ空の玄関口になっていますが、

その丘珠空港から約4.5km南西の場所にも、かつて「札幌第一(札幌)飛行場」と呼ばれた飛行場がありました。

旧北海タイムスが当地を飛行場として使用したのが始まりです。

現在のところ検索しても、「北海タイムス社飛行場」というワードではヒットしないのですが、

昭和6年の航空年鑑には、「北海タイムス社飛行場」として記載されています(アギラさん情報・後述します)。

後に国営になり、戦前の道内民間航空史上、東京に定期航路を持つ唯一の「札幌飛行場」となりました。

その後、陸軍の飛行場になったのですが、手狭になったことから北東約4.5kmにもう1つ飛行場を造りました。

こうして、ここが「札幌第一飛行場」、新しく出来た方を「札幌第二飛行場」としました。

赤で囲んだ部分がかつての札幌飛行場で、灰色なのがおおよその滑走路。

草を刈って整地されているだけの滑走路で、機体がぬかるみにはまれば、

みんなでワッショイ、ワッショイ引き上げるというのどかさでした。

そしての部分に当時を偲ぶ碑などが固めて展示されています。

 

D20_0005.jpg

一見何の変哲もない通りに見えますが、画面中央に門柱が並んでいるのがわかりますでしょうか。

 

D20_0007.jpg

当時の写真を見てみると、ちょうどこの付近にターミナルなどがあったようです。

現在は開発が進み、すっかり市街地に変貌してしまいました。

門柱、碑が唐突にそこにあるという印象です。

最後の札幌飛行場長だった故辻領一さんの夫人ヤスノさんの証言によれば、「正門は北24西8にありました」とのことで、

ここはまさにその住所。

この辺りに正門があったことになります。

 

D20_0008.jpg

右柱

 

D20_0010.jpg

右柱後方にはこんなレリーフが。

「飛」の文字が入っているので載せておきます。

 

D20_0016.jpg

左柱

 

D20_0014.jpg

説明板

 

アギラさん情報ですが、「航空年鑑昭和6年」には、「北海タイムス社飛行場(陸)札幌市北二十四・二十五條西六・七・八丁目(東西一九〇南北三六〇)」として載せられているのだそうです。北海タイムスが報道用に使用し始めた飛行場ですから、「北海タイムス社飛行場」というのは当然の名称ですね。

また、「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)の中にある「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、北海道帝國大學學生航空研究會、北海中學校、札幌工業學校グライダー部が札幌飛行場を滑空場として使用していたと記されています。昭和15年当時の札幌飛行場は当飛行場しかありませんでしたから、ここを使用していたのだと思います。アギラさん情報ありがとうございましたm(_ _)m

D20_0011.jpg

「風雪」碑

 

D20_0012.jpg

僅か20年で姿を消してしまった飛行場ですが、門柱と碑がこうして無言の証人となっています。

消えてしまった全国無数の飛行場もこうして碑が残っていると探すのにとても助かるのですが。

 

札幌第一(北海タイムス社、札幌)飛行場:map  


    北海道・札幌第一(北海タイムス社、札幌)飛行場跡地      

札幌第一(北海タイムス社、札幌)飛行場 データ
設置管理者:北海タイムス→逓信省→陸軍
所在地:北海道札幌市北区北24条西8丁目1番地
座 標:N43°05′23″E141°20′15″
面 積:53ha(1933年拡張時)
滑走路:1,200m?
磁方位:12/30
*座標、磁方位、滑走路長はグーグルにて算出

沿革
1925年 北海タイムス後援の道内宣伝飛行のため、当地が飛行場として使用される
       6月26日、永田重治操縦士の操縦するアブロ式504K複葉機が初の試験飛行を実施
1927年 1月、旧北海タイムス社、現在北区役所のある北24西6を中心に飛行場開設。格納庫、事務所等設置
1932年 8月、帝国議会が札幌飛行場建設を可決
1933年 6月9日、逓信省、北24条一帯を53万平方メートルの国営飛行場とし、民間機や報道用の定期空輸に使用
       南北約800m東西約870m
1936年 陸軍特別大演習観兵式開催
1937年 3月、逓信省より飛行場長派遣。航空局札幌飛行場を設置。
       4月1日、日本航空輸送株式会社、フォッカー・スーパーユニバーサル機による札幌-仙台-東京間の定期航路開始
       片道6時間
1938年 丸井百貨店の屋上に航空燈台設置
       11月、フォッカー機が東嶽山山中に墜落したため東京便の定期航路一時中止
1939年 海軍予備航空団支部を設置。国策会社として大日本航空輸送株式会社誕生
1940年 戦局、次第に厳しさを増す。東京便の無期限運休決定。会社経営による航空事業停止
       10月現在、北海道帝國大學學生航空研究會、北海中學校、札幌工業學校グライダー部が滑空場として使用
1941年 大日本飛行協会札幌飛行訓練所設置
1942年 9月、日米開戦により北海タイムスは施設一切(飛行機3機、格納庫2棟等)を大日本飛行協会に献納
       以後札幌飛行場は札幌飛行訓練所となり、陸軍教官により北大等の学生に操縦教育を施す場となる
       陸軍飛行第13戦隊設置。九七式戦闘機9機配置
1944年 初めて軍用の板敷き滑走路(1,200mx50m)が完成したが、ほとんど使われなかったという
1945年 陸軍紺五四○部隊が駐屯。九五式練習機を配備。戦争末期には特攻訓練が行われた
       札幌市、琴似町等の隣地約99万平方メートルの買収や寄付を受けて大拡張工事が着手されたが、終戦。飛行場閉鎖
       秋、進駐軍の火炎放射器により、軍用、民間機を問わず場内のありとあらゆるものが焼却される

関連サイト:
みてきて北区/75.昭和二十年、炎の中に消える-札幌飛行場  
札幌飛行場   
国土地理院 1947年9月当時の写真(USA M469 25) (■→「同意する」→戻る→再度■をクリック)   
ブログ内関連記事    


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太田(太田小泉)飛行場跡地 [├空港]

 2009年6月 訪問 

太田市.PNG

群馬県太田市にあった「太田飛行場」は、大戦当時東洋一の規模を誇った中島飛行機の専用飛行場でした。

上の図は太田飛行場の周辺図です。

飛行場は中島飛行機の生産工場である「太田製作所」と「小泉製作所」にはさまれる形になってるのでした。

太田飛行場は両方の工場で作られたヒコーキのテスト飛行場兼納入発着場でした。

そのためそれぞれの工場で完成した飛行機を運ぶために、

図のABで示した飛行場直通の「専用道路」が設けられました。

専用道路は幅30m以上もあり、完成した機体が主翼を広げたまま飛行場に向けて進んで来たのだそうです。

 

日本軍の軍用機の一大生産拠点だった当地は当然米軍の主攻撃目標とされ、たびたび空襲を受けます。

特に1945年2月には大規模な空襲を受けたのですが、

それでも太田製作所で完成したヒコーキの検査、納品は変わらず当飛行場で行われたのだそうです。

手順は、

製作所→太田飛行場→給油ライン試験→地上試験→飛行試験→政府へ納入

という段取りでした。

 

工場からヒコーキを運ぶ専用道路は、戦後も長らく「専用道路」と呼ばれていたのだとか。

その立派な道路は現在も残っています。

ということで行ってみました。

 

D20_0006.jpg

A:飛行場から太田製作所に伸びる専用道路

 

D20_0011.jpg

B:飛行場から「小泉製作所」に伸びる専用道路

小泉製作所は海軍専用工場として太田製作所の後に建てられました。

1941~1945年まで、零戦を主力に約9,000機が生産されました。

当時は零戦がこの道路を通って続々とやって来たのですねぇ。

ちなみに戦時中にジェット機を飛ばすことができたのは、

ドイツ、イギリス、アメリカ、日本なのですが、

日本製ジェット機の組み立て、エンジンの試運転はここで行われました。
(初飛行は木更津)

 

D20_0014.jpg

この道は飛行場のすぐ南を走る国道354なのですが、

地元の方の言い伝えによりますと、この道路は緊急着陸用の滑走路とされていたのだそうです。

 

無題.PNG
写真:国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省
撮影年度:1974年 地区名:足利南部 編集・加工:空港探索・とり

1974年当時の写真。

この飛行場は戦後米軍が使用したため、終戦から30年経っていますがまだ滑走路が認められますね。

余談ですが、新田(生品)飛行場の記事→で群馬名物赤城颪のことと、

「滑走路の(ほぼ)延長線上に赤城山がある」ということを書きましたが、

この太田飛行場の滑走路の向きも同様です。

 

大田飛行場地図.PNG

現在の飛行場跡地。

富士重工の群馬製作所大泉工場が建てられ、スバル車のエンジン、ミッションなどを作っている他、

広大なモータープールになっています。

 

D20_0028.jpg

太田運動公園から:(多分)富士重工部品センター

 

D20_0029.jpg

同じく太田運動公園側にある門

自動車業界も大不況の折ですが、大きな車が盛んに出入りしてました。

 

D20_0035.jpg

敷地の南端部分:敷地のこちら側は広大なモータープール。

今にも ぶーん。 とヒコーキが飛んできそうな・・・

 

D20_0038.jpg

南端には公園駐車場が整備されていて、周囲を徘徊するのに利用させていただきました。

 

太田飛行場:map  


    群馬県・太田飛行場跡地     

太田飛行場 データ
空港種別:中島飛行機専用飛行場
所在地:群馬県太田市龍舞町
座 標:N36°16′17″E139°24′18″
面 積:99ha
滑走路:1,300m×70m
磁方位:13/31
*座標、磁方位はグーグルアースから算出

沿革:
1938年 10月 「太田飛行場敷地小泉町関係地主協議会」開催
      売り渡し価格決定の方法が協議される。委員選定
      11月 土地価格基準書作成
      12月 敷地代金ならびに補償料支払い通知が出される
1939年 03月03日 起工式
1941年 02月15日 開場式
1945年 02月10日 太田大空襲 飛行場は無事だった    
      終戦、接収 米陸軍飛行隊駐留
1959年 この頃工場の一部返還、返還運動が活発化
1969年 日本に返還、これにより群馬県のすべての施設が返還された。 大蔵省所管
1983年 富士重工群馬製作所大泉工場が稼動

この記事の資料
中島飛行機の想い出 「後期」
群馬の戦争遺跡
太田市史史料編 近現代

関連サイト:
国土地理院 1947年11月当時の写真(USA R444 175) (■→「同意する」→戻る→再度■をクリック)   


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尾島飛行場跡地 [├空港]

 2009年6月、2016年4月 訪問 

2016/6/15追記:滑走路位置の資料が見つかったため、記事修正しました。

無題4.png
1946年6月当時の写真(USA M159-A-5 99) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

滑走路位置の特定がなかなかできないまま記事をアップしていた「尾島飛行場」なのですが、

「航空路資料第3 関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18.8 水路部」の中に、尾島飛行場の詳細な地図がありました。

これまでどんなに探しても出てこなかった着陸帯がハッキリと図示されていました(;´Д⊂)

更に、格納庫、油庫等の位置も示されていました。

その通りに作図したのが上図です。

「尾島飛行場は群馬県と埼玉県に跨っている」という点は幾つもの資料に出ているのですが、

実際に資料の通りに線を引っ張ってみると、着陸帯はほぼ埼玉県にあります。

ブログ的に県別の分類をしている都合上、これは「埼玉県・尾島飛行場」にした方がいいのだろうか。

とも思ったのですが、格納庫、事務所等建物があるのは群馬県側であることと、「群馬県の中島氏」の飛行場であることから、

一応群馬県の飛行場のままにさせて頂きました。

 

中島飛行機の創設者、中島知久平の出身地は、群馬県新田郡尾島村字押切(現在の群馬県太田市押切町)。

「これからは航空機の時代である」との信念の元、海軍を辞して地元に戻り、ヒコーキ工場と飛行場を造ります。

2つ前記事の「中島新邸」のすぐ近くに作ったデコボコの滑走路こそ、尾島飛行場。

後に中島飛行機は爆発的な発展を遂げ、太田市に巨大工場群と太田飛行場という立派な飛行場を作ります。

「中島飛行機」というと、この太田市の大工場と飛行場に目が向きがちですが、

中島飛行機が発足したばかりの時期、できたヒコーキを飛ばしていたのはこの「尾島飛行場」でした。

この尾島飛行場、終戦まで使用していました。

 

ヒコーキ製作の会社を立ち上げ、記念すべき第1号機が完成し、

早速尾島飛行場に運んでテスト飛行を開始したのですが、

当初は失敗の連続で、なかなか満足に飛ばすことができませんでした。

そのため当時太田の町では、

「札はだぶつく、お米は上がる、何でも上がる。上がらないそい中島飛行機」

「飛行機乗りには娘はやれぬ 落ちたヒコーキで芋を掘る」

などという落首が流行ったのだそうです。

後に国内の飛行機メーカーとしては三菱と双璧を誇り、「中島と三菱に作れないもの即ち国産化不可能ということを意味した」

とまで言われるようになった中島にもこんな創生期があったのですね。

 

前述の通り尾島飛行場の敷地は群馬県、埼玉県にまたがっており、ほとんどが県の所有地でした。

そのため両県の知事に許可を求める必要がありました。

テスト飛行開始翌年の大正8年、

埼玉県内地域が2月12日付、群馬県内地域が2月20付で飛行場として正式に認可されました。

これを祝して4月25日に尾島飛行場開場式が行われました。

大正8年4月26日付の上毛新聞には、「尾島飛行場の開場式盛大に挙行」として、

「新田郡太田町日本飛行機製作所尾島飛行場開場式は、25日、利根川原なる同飛行場において盛大に挙行されたり。

数万の観衆が見守る中、練習用125馬力中島式5号にて絶技を演ず」。

という記事が載りました。

 

 


 

その後の尾島飛行場に関しては、ほとんど資料が残っていません。

市史に「1945年7月28日 関東地方に来襲したP51 240機が太田、尾島、生品、赤堀各地を銃撃」

という記録が残っている程度です。

生産が拡大すると、中島飛行機は太田市中心部に拠点が移動してしまい、

中島飛行機についての記録もそちらに話が移ってしまいます。

尾島飛行場には戦後ほどなく酪農家が入植し、今に至るのだそうです。

DSC_0043.jpg

撮影地点・1 土手の上から滑走路方向

 

DSC_0059.jpg

撮影地点・2 格納庫、油庫等があった辺り

 

DSC_0047.jpg

撮影地点・3 この先に格納庫等がありました。


   群馬県・尾島飛行場   

尾島飛行場 データ
設置管理者:中島飛行機
所在地:群馬県新田郡尾島村字押切(現在の群馬県太田市押切町)
座 標:N36°14′46″E139°20′17″
滑走路:700mx300m 緊急時には1,000mx600m
磁方位:07/25?
*座標、磁方位はグーグルアースにて算出

沿革
1917年        測量
1918年        整備され、滑走路使用可能の状態に。中島一号機のテスト飛行始まる
1919年04月25日 尾島飛行場開場式
1945年        終戦 入植

 

この記事の資料:
太田市史通史編 近現代
群馬の戦争遺跡
歴史のなかの中島飛行機
国土地理院 1946年6月当時の写真(USA M159-A-5 99)   
国土地理院 1947年10月当時の写真(USA R256-No1 120)
(■→「同意する」→戻る→再度■をクリック)   

2013/10/25追記:PUTINさんから情報いただきましたm(_ _)m 
米軍の日本本土の軍事目標に関する偵察写真情報の一部
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4011093
上記の483コマ目に高高度から撮影したOTA飛行場の写真があります。


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新田(生品)飛行場跡地 [├空港]

 2009年5月 訪問 

生品飛行場.PNG

群馬県太田市新田市野倉にかつて陸軍の飛行場がありました。

因みにここから北北西6.2キロのところに前記事でご紹介した桐生愛国飛行場が、

そしてここから南東11.2キロのところに太田小泉飛行場がありました。

それぞれ成り立ちの異なる飛行場なのですが、すごい密度ですね。

飛行場は上図の周囲の道路などまったく無視した四角の地割部分がそれです。

一辺1.6キロという広範囲に渡って周辺と45度のズレがあるため、

地元の方でも方向感覚を狂わされるそうです。

 

余談ですが、群馬県といえば「かかあ天下と空っ風」。

この「空っ風」とは、当飛行場の北西(飛行場の向きのほぼ延長線上)にある

赤城山から吹き降ろす強風のことで、この赤城颪などを考慮したためにこんな向きになったのだそうです。

← のところから撮影してみました。

 

D20_0012.jpg

この真っ直ぐの道が飛行場の南東の境界線。向かって右側が飛行場跡です。

(向こう側に渡ってから)カメラを右側に振ってみると・・・

 

D20_0010.jpg

こんな感じ。

おや?

画面左側の草むらに何かありますね? 行ってみましょう。(わざとらしい)

 

D20_0006.jpg

 「少年飛行兵操縦教育校
  旧陸軍熊谷飛行学校
  陸鷲修練之地
  新田教育隊跡地」

 と書かれてました。

 

ところでこの飛行場の呼び名なのですが、

サイトによって「新田飛行場」、「生品(いくしな)飛行場」と名称が異なります。

飛行場があった当時ここは、「新田郡生品村」でした。

おおよそですが、軍関係は「新田飛行場」と呼び、

地元自治体は「生品(いくしな)飛行場」と呼んでいるケースが多いような気がします。

因みに「新田町の歴史年表」では、「生品飛行場」と表記されていました。

 

この場所はその後どんどん合併が進み、生品村→新田町→(現)太田市と変化しました。

予備知識なしで一から調べるオイラのような部外者にとって、

平成の大合併はまったくもってやっかいです。

 

新田飛行場.JPG
写真:国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省
撮影年度:1974年 地区名:桐生、上野境 編集・加工:空港探索・とり

1974年の写真。

確認できる地理院の最古の地図(1947年撮影)でも既に畑になっていて滑走路の形跡は見当たりませんでした。
(下記リンク参照)

 

D20_0018.jpg

 

D20_0014.jpg

上の2枚は、飛行場跡地のほぼ真ん中の風景です。

 

新田(生品)飛行場:map  


       群馬県・新田(生品)飛行場跡地       

兵器の主力は戦艦から航空機の時代へ移行し、陸軍内部でも航空機の増強が叫ばれ始め、飛行機の操縦者を大量に養成する必要が出てきた。操縦技術を習得する専門学校として1935年に熊谷陸軍飛行学校開校。その実習地として選ばれたのが当地区であった。当時は掩体壕が30基ほどあったのだそうです。

新田(生品)飛行場 データ
設置管理者:日本陸軍
所在地:群馬県新田郡生品村(現太田市新田市野倉)
座 標:N36°20′10″E139°18′30″
面 積:256ha
磁方位:14/32
*座標はグーグルアースから。

沿革
1938年 03月 生品飛行場完成。一番機飛ぶ
1944年 09月19日 生品飛行場の練習機同士が生品村国民学校上空で衝突。搭乗員全員死亡
      12月 飛行場内に中島飛行機太田製作所の疎開工場が設けられる
1945年 07月01日 朝6時、艦載機の編隊2~10機が太田、生品飛行場に爆撃、機銃掃射
      同日9時半から約40機が主力をもって生品飛行場攻撃
      ?日 12機の艦載機により空襲を受け、石油に引火して火災発生 
      10日 機銃掃射、爆撃を受け、飛行場としての機能喪失 
      28日 熊谷方面から3編隊で進入、P51 240機のうち数十機が太田地方へ、
      このうち3機は生品を攻撃(米軍資料では都良崎を主目標とした26機が生品も攻撃。となっている)
      08月14日 夜、生品飛行場および市野井、村田など空襲
      10月14日 生品飛行場に40人進駐
1946年 03月12日 生品飛行場跡地に入植開始

この記事の資料:
鳥之郷国民学校昭和20年度教務日誌
太田市通史編 近現代
群馬の戦争遺跡
新田町誌第一巻「通史編」別冊付録・新田町の歴史年表

関連サイト:
国土地理院 1947年10月当時の写真(USA  ) (■→「同意する」→戻る→再度■をクリック)   
電撃! 激坂調査隊が行く/旧陸軍の飛行場跡をめぐる      
↑情報の極めて少ない飛行場なのですが、非常に良質のサイトです。
オイラもこんな記事が書けたら・・・と思いました。脱帽です。


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桐生愛国飛行場跡地 [├空港]

 2009年5月 2016年4月 訪問 

無題8.png
1947年10月当時の写真(USA R408-No1 47) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

群馬県桐生市のお隣、笠懸村(現みどり市)にあった「桐生愛国飛行場」。

後述しますが終戦までの10年間だけ存在した小さな飛行場ですので、

かなりマイナーな部類だと思います。

資料によれば、戦後飛行場跡地は開拓されたと記されています。

上の航空写真は終戦から2年後の飛行場跡地。

パッチワークのように畑が広がっていますが、飛行場跡地の部分の様子が明らかに周囲と異なっています。

この飛行場跡地には2009年5月にお邪魔していたのですが、おおよその場所しか分かりませんでした。

最近になって「航空路資料第3 関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18.8 水路部」という資料をゲットし、

その中に当飛行場についての詳しい地図があったため、現在の地図に落としてみることに。

ところがこの地図とグーグルマップを比較してみると、両毛線と飛行場の東側で南北に走る県道69号線はまあいいとして、

それ以外のありとあらゆる道路が当時と現在では違うのです。

とっかかりとなる基準点が作れないため、結局ほとんど目測で作図し、

後からいろいろ数字を見ながら合うようにツジツマ合わせをする微調整する。

というやり方で作図しました。

上図、これで一応面積、縦横比、飛行場敷地北東の角部分の線路と県道との離れ具合は、数字的にはピッタリです。

数字的には。

まあ大きくズレていることはないのではないかと。 

で、敷地の北東角地に事務所、格納庫があることが分かったので、ここの写真を撮ろうと出掛けたのでした。 

DSC_0103.jpg (オイラの計算が正しければ)飛行場敷地北東の角地はココ。

ここから画面右奥に向かって飛行場だったはずです。 

2010/9/30追記:
すずき@東毛さんの記事「桐生愛国飛行場跡 (みどり市笠懸町)」(下記リンク参照)に飛行場の地図が載っています。

 

歴史

桐生愛国飛行場は、1934年に着工、翌1935年3月25日に逓信大臣から非公共飛行場として使用許可を受けました。

開場後どんなことに使用していたかといいますと-

陸海軍からの委託で飛行学校生がフランス製アポロ式複葉機による落下傘の投下試験

県下青少年の士気を鼓舞し、銃後に備える心構えを培う啓蒙活動

旧制中学生や青年団幹部を対象としたグライダー滑空訓練

またこの飛行場から羽田空港まで直線距離でちょうど100キロで、

この区間が逓信省乗員養成所の試験コースとして使用されることもあったのだそうです。

 

この飛行場は終戦間際の頃、米軍機の空襲を受けています。

格納庫は跡形もなく吹き飛ばされ、隠してあった飛行機1機が機銃掃射で完全に破壊され、

飛行場とその付近は、機銃弾の薬莢が散乱していたそうです。

こうして桐生愛国飛行場はその機能を失ってしまいました。

これが笠懸村唯一の空襲だそうですから狙い撃ちされたんでしょうね。

よく見つけるもんですね。

 

建設までのいきさつ

陸軍は非常時の国民の精神動員計画の実践として帝国飛行協会を中心に300ヵ所の

「愛国飛行場」建設計画を打ち出しました。

これは、一般市民、非軍需企業からの献金で飛行場を建設して陸軍に献納してもらおうというものです。

当桐生愛国飛行場もこの流れに乗ったもので、

地元桐生の森宗作(有力な織物業者、四十銀行頭取)が航空機の将来性に着目し、

民間有志の手によって航空事業に寄与したいとの念願から建設された飛行場です。

オイラの知る限り、当時の新設飛行場はほとんどが最初から軍が建設したもので、

あとは逓信省と自治体のものがチラホラある程度なのですが、こんなケースもあったのですね。

 

余談ですが、陸軍に飛行機を献納すると、「愛国号」となり、

海軍に献納したものは、「報国号」となりました。

 

飛行場着工の2年前、帝国飛行協会桐生支部の発会式が行われました。

名士の講演会その他の催しなどで航空思想の宣伝に努め、同志を集めることに尽力し、基金獲得を続けました。

愛国美談の献金運動が進んだのだそうです。

こうして得た基金により、帝国飛行協会桐生支部の事業として飛行場が建設されました。

ここに敷地が決まった理由として、森宗作の所有地がこの用地の一部であったこと、

この事業に共鳴した当時の笠懸村長がここの用地の大半を所有していたことから用地取得が容易であり、

この付近が民家から遠く、特別の障害物もないことなどがあったと言われています。

整地工事の際、地形が西高東低だったため、トロッコを使用して西から東へ土を運んで平坦にしたのだそうです。

余談ですが当時軍(特に陸軍)が建設した飛行場は周辺の地割などお構いなしの真四角のものが多いです。

それと比べるとここの飛行場は周囲の畑に遠慮したようなイビツな形で、

この辺が軍と民間の違いなのかなぁ、と思いました。

 

空襲により機能を失った飛行場はしばらくの間放置されて荒れるに任せてあったのですが、

やがて農地解放の結果、11戸の農家が入植し、立派な農地に生まれ変わり、

戦後の食糧不足を補うのに役立ちました。

こうしたいきさつからこの部落は今でも「就農」と呼ばれているのだそうです。

 

D20_0001.jpg

2010/7/16追記 飛行場跡地から両毛線を越えた北側に「火鉢博物館」があり、その庭にある石柱です。「帝國飛行協會桐生支部」と彫られています。当時飛行場の旗を立てる柱を支えていたと思われ、旧飛行場内に住む方から預かり保存しているのだそうです。

2010/8/24追記 すずき@東毛さんから情報頂きました。「火鉢博物館」は「かどや公園」に名称変更しているらしいそうです。詳しくは下のコメント欄をご覧くださいませ。

かどや公園:map ストリートビューで見た感じでは、石柱は駐車場の端っこ(県道69号線側)に移築したみたいです 


       群馬県・桐生愛国飛行場跡地      
台風の際、風で飛行機が付近の畑に飛ばされてしまい、監視当番が大慌てをしたこともあったのだそうです。飛行場であった当時の面影は、事務所だった建物の一部が僅かに残されているのみなのだそうです。

桐生愛国飛行場 データ
設置管理者:帝国飛行協会桐生支部長 森宗作、陸軍に献納 
所在地:群馬県新田郡笠懸村大字鹿及び大字久宮にまたがる地域(現みどり市笠懸町鹿)
座 標:N36°23′00″E139°16′52″
面 積:16.5ha
風向:概ね南東、但し12月から2月まで北西
*座標はグーグルアースから算出

沿革
1932年11月06日 帝国飛行協会桐生支部発会式
1934年        建設着手
1935年03月25日 逓信大臣から非公共飛行場として許可
      09月15日 グライダーの初滑空
              終戦間際に空襲を受け、飛行場としての機能を失う

この記事の資料:
笠懸村誌下巻
群馬の戦争遺跡

関連サイト:
すずき@東毛さんの記事「桐生愛国飛行場跡 (みどり市笠懸町)」     


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成増陸軍(高松)飛行場跡地 [├空港]

 2009年4月 訪問 

1941年12月の開戦から破竹の進撃を続ける日本軍に対し、

1942年4月、米軍は軽量化した陸軍の爆撃機B-25を空母から発艦させるという奇想天外な作戦(ドーリットル空襲)により東京をはじめとする都市部を爆撃。

戦線を南方に急拡大していた日本軍は、突如本丸に踏み込まれた事実に衝撃を受けます。

本土防空を担当していた陸軍は帝都(東京)防衛強化が急務であることを痛感。

急遽飛行場を建設することにしたのでした。

そして選ばれたのが当時の東京都板橋区練馬田柄、練馬土支田、練馬高松でした。
(*戦後、板橋区の一部が分離して練馬区が発足)

「練馬高松」が由来だと思うのですが住民からは「高松飛行場」とも呼ばれました。

Wikiによりますと、「1943年6月24日 - 飛行用予定地の地権者が、印鑑持参で再び区役所に呼ばれ、買収契約が強制調印され、居住する約60戸に対し、8月末までに立ち退くよう申し渡される。土地は時価より高額で買い取られたが、農作物の補償はなく、移転費用は現物支給である上に、移転期日に間に合わず、移転者は困惑した。」と書かれていました。

 

無題.JPG

現在の東京都練馬区光が丘公園がその場所で、かつてここに成増陸軍飛行場があり、

おおよそですがこんな感じで南北に伸びる1,200mの滑走路がありました。

 

そして終戦。

この飛行場は接収されて駐留米軍家族の住宅になり、

米十八代大統領グラントにちなみ、「グラントハイツ」と命名されました。

何故に大昔の大統領??と不思議だったのですが、グラントは陸軍出身の有名な将軍なのですね。

後に空軍に移管するのですが、ここは元々米陸軍家族のための宿舎として建設されたのだそうです。

余談ですが実はオイラ一時期成増に住んでまして、ずっとグランハイツだと思ってました。

周囲でも正しく呼んでた人はいなかった気がします。

 

その後、ここに住んでいた家族の帰国、移転が進み、徐々に空洞化していきます。

返還運動が始まり、1973年ついにグラントハイツは全面返還されました。

 

オルソ.PNG
写真:「国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省」
撮影年度:1974年 地区名:赤羽、志木、東京西部 編集・加工:「空港探索・とり」

1974年当時の写真。

全面返還が1973年ですからその翌年ですね。

敷地の上の部分が一部東側に飛び出ていますが、1,500mの補助滑走路予定地だったのだそうです。

敷地の3分の1を公園にすることになり、返還の翌年から工事が始まりました。

そして1981年、60.7haの光が丘公園開園。

公園内部をうろついてきました。

 

D20_0016.jpg

 

D20_0014.jpg

「イチョウ並木」周辺。

園内に図書館があり、郷土コーナーに飛行場時代の地図などあったのですが、

南北に伸びるこの通りの少し西側に並行して滑走路があったようです。

 

D20_0011.jpg

 

D20_0008.jpg

 

D20_0006.jpg

園内の体育館と図書館の間、けやき広場の前にある平和記念碑

 

D20_0002.jpg

 
平和記念碑(全文) この地には 一九四三年(昭和十八年)帝都(首都)防衛のため成増陸軍飛行場がつくられ 多くの若い生命が空に散っていった。地元住民にとっても 農地を強制買収され 基地づくりに動員された忘れがたい地である。終戦直後の一時期 この広大な地域は米軍キャンプとして接収され米国第十八代大統領グラント将軍にちなみグラントハイツと呼ばれた。その後 多年にわたる返還運動が実り みどりと太陽の武蔵野台地にコミュニティ「光が丘」が誕生した。練馬区は一九八三年(昭和五十八年)に「非核都市練馬区宣言」を制定し 「世界の恒久平和は人類共通の願い」であるとして「核兵器の廃絶と軍縮」を強く訴えている。本年は戦争終結から五十年 歴史の大きな節目の年にあたる。この時にあたり戦中 戦後の歴史の激しい流れを見つめてきたこの地に区民の総意を込めて平和の記念碑を建て 練馬地域の多数の戦没者を悼むとともに 空爆による被災者や第二次世界大戦による内外諸国民の多大な犠牲を省みるものである。ここに練馬区民は 戦争の悲惨さと平和の尊さを心に刻み 平和を守る決意を新たにしたい。 一九九五年(平成七年)八月十五日 練馬区

 

成増陸軍飛行場:map  


       東京都・成増陸軍飛行場跡地       

帝都防衛基地として調布飛行場と双璧でしたが、末期には特攻隊が移駐してきたそうです。

成増陸軍飛行場 データ
設置管理者:陸軍
所在地:東京都板橋区練馬田柄、練馬土支田、練馬高松(現練馬区光が丘)
座 標:N35°46′00″E139°37′46″
面 積:181ha
滑走路:1,200m×60m(18/36)コンクリート舗装(道路や家屋模様に迷彩が施された)
*座標はグーグルアースから算出

沿革
1942年     測量開始
1943年     風向調査
      06月 陸軍と地権者との用地譲渡契約調印
      08月 成増陸軍飛行場着工
      12月 飛行場竣工
1945年08月 接収、駐留開始
1947年04月 駐留米軍の家族住宅着工
1955年     居住する米軍の帰国や移転によりハイツ内は空洞化→返還運動が活発になる
1959年07月 米軍、立川に移駐 家族も移駐 啓志線閉鎖
1973年     グラントハイツ全面返還
1981年12月 光が丘公園開園
1992年03月 光が丘団地完成

この記事の資料:
光が丘の地図集
Wiki:成増飛行場   
国土地理院 1947年9月当時の写真(USA M470 2) (■→「同意する」→戻る→再度■をクリック)   
次の記事で成増飛行場に現存する掩体壕のことを書きます。


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坂戸飛行場跡地 [├空港]

 2009年3月 訪問 

無題5.png
1946年2月当時の写真(USA M44-A-5VT 12) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック)
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 


埼玉県坂戸市にあった陸軍の「坂戸飛行場」。

ここはオイラの地元にあった飛行場です。

グーグルマップでご覧の通りで、飛行場敷地の地割はほぼそのまま残っており、

現在跡地には、若葉台団地と富士見工業団地が広がっています。

敷地に斜めの緑線が走ってますが、

これは工業団地と住宅団地を隔てる幅50mの緩衝緑地帯です。

2017/3/27追記:防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 水路部」から作図、記事修正しました。

同資料内の飛行場情報を以下引用させて頂きます。

面積 北西-南東1,300乃至1,600米 北東-南西1,500米
地面の状況 平坦且堅硬にして植芝密生す
目標 坂戸町、東武鉄道東上線
障碍物 東端より東方約250米に低圧電線、更ニ500米を距てて
高圧電線各1條あり
離着陸特殊操縦法 (記載なし) 
格納設備 大、小格納庫6棟あり
照明設備 (記載なし)
通信設備 (記載なし)
観測設備 なし
給油設備 燃料補給可能
修理設備 なし
宿泊設備 なし
地方風 (記載なし)
地方特殊の気象 7,8月頃雷雨多く五月頃降雹あり
  12月至翌年3月間ハ降雪あり 冬季北風強吹し気流は不良なり
交通関係 坂戸駅(東武鉄道東上線)西方900米
(昭和18年4月)
(若葉駅は1979年開業のため当時はなかった)

 

地元図書館に当時の史料が何冊もありましたので、いろいろ混ぜて記事にしてみました。

昭和15年(1940年)2月 坂戸町役場に突然陸軍少佐が憲兵と副官を連れてドカドカと畳敷きに土足で上がり込んで来ました。

机の上に地図を広げるや否や、「軍に必要な施設を建設するのでこれだけの土地が必要なのです。ご協力頂きたい。北方の戦備が重要で、それに対する備えもあってまげてご同意願いたい」。と言われました。

地図を見ると230町歩即ち70万坪で、川越、坂戸、鶴ヶ島、勝呂と、一市、一町、ニヵ村にまたがっていました。

既に軍でその地域の土地所有者は全部調べ上げてあり、地主宛ての通知書も出来ており、「お忙しいとは思うが、緊急を要する軍の仕事であるから今日中に全部配ってもらいたい」と有無を言わせぬ命令。

受け取ったのは確か午後3時ごろ。その手紙の内容が、「明日午前9時に認印を持って坂戸小学校に集合せよ」ということで、細部については申しかねると言ったきりでした。

軍の機密、国家存亡の危機、国防上の重要問題と言われると我々は何も言えず、その夜は大騒ぎで配達したのでした。

翌日、少佐が軍刀をガチャつかせながら登壇し、「坂戸に軍の施設を作らねばならぬことになった。古来、国滅びて山河ありと言うが、国が滅びれば、もう我々の生命もないはずだ。その点をよくお考え下さって軍の施策にご協力いただきたい。

もちろんこの用地が皆さんの尊い財産だと言うことは、軍も十分知っておる。しかし、これを作らねば、皆さんの将来はおろか、二千六百年の輝かしい歴史を有する大日本帝国の前途さえ保障は出来んのだ。その点、十分にご理解くださって異議なく賛成を頂きたい。

もちろんタダでもらうというのじゃない。適正な価格で買い上げます。それでは、どなたもご異議はございませんね。ではご協力ありがとうございました。廊下に皆さんの承諾書が出来ておりますから、それに署名捺印の上、お帰り願いたい」。で幕。その間20~30分くらいだろうか。

少佐:「各町村で責任者はお残り頂きたい。その中で価格の協定委員を選んで頂きます。協定委員は何名でも結構ですが、常識的に鶴ヶ島は10人くらい、後は五人くらいで如何でしょう」。

それから1,2日後、価格協定委員の名簿を提出してすぐ価格協定の会議が開催されました。 

この価格協定会議の席上面白いことがありました。鶴ヶ島から選出された委員が大勢いる真ん中にあぐらをかいている人がいて、「今日は価格を決めるってんだが、軍部がどういうソロバンをはじくか、あんまり安いようなら、俺はぶっ殺されたっていい、喧嘩を売ってやる」と息巻いているんです。

その豪傑氏、そこまではよかったんですが、ちょっと言い過ぎて、「150円以下のことを言えば・・・」って単価を出しちゃった。

当時のこの辺りの山林はちょっと奥の方に入ると一反大体90円が相場です。

その少し前に高萩の飛行場用地買い上げでは100円を割ったと言いますから、そんな空気もうすうす察していたんでしょうね。
(追記:陸軍は高萩の開墾地を接収し、昭和13年12月に使用開始しています。今回の坂戸飛行場の出来事は昭和15年2月の話。)

少佐がやって来て、「それでは今日は皆さんの大変貴重な財産を国で頂戴するのだから、その単価をお決め頂くわけだ。皆さんの方にご意見、ご要望があれば、遠慮なく申し出て欲しい」と言うわけですが、誰も言おうとしない。

するともう一度意見はないかと念を押しました。このときも誰も何も言わない。

「どなたにも意見、異論がないとすれば、こちらの予定買い上げ価格を発表します」と言って黒板にスラスラと書きはじめました。

一反につき田350円、山林250円でした。

地主側の内心考えている価格の倍以上の発表に皆びっくりした。

これまたドエライ数字が出されたわけです。豪傑氏の150円などとんだ茶番になってしまったわけです。こんな調子だから異議一つ出ないで、流石の豪傑氏もただ下を向いておりました。

その後は金の支払い方法を決めた。普通なら登記だなんて騒ぐわけでしょうが、陸軍省の職権で処理しちゃうから、登記も登記簿もあったもんじゃない。全部向こうで「陸軍省」ってハンコ押して買い上げになった。

材木屋がいっぱいやって来て、山林地主との商談となったが、期限がないので、二束三文の投売りとなった。

その後の整理作業は請負業者の責任において進められたが、緊急を要する軍の仕事というので、住民も進んで作業隊を組織して応援したが、一日50銭くらいの日当が支払われた。

飛行場の整地作業は各地から入り込んだ請負業者、地元の応援出動など。

軍隊の応援は来なかったと思うが囚人が来た。鶴ヶ島に仮の刑務所を造り、朝などは我々も囚人も一緒に整列して訓示を受け作業にかかった。

作業は1年程。その後赤トンボが来ていくらか練習したようだが、まだ本格的な飛行訓練はしないうちに終戦になった。それでも他の飛行場から飛行機を持って来たりしていたので、頻繁に空襲を受けた。その頃はもう日本は航空機の大半を失って迎撃するどころではなく、退避するしか道はなかった。

そして終戦。9月3日に千葉県木更津、館山、8日には東京、14日には埼玉への進駐が行われた。

埼玉に進駐したのはアメリカ第43師団の将兵7,000人で、まず熊谷市三ヶ尻の元陸軍飛行学校に落ち着き、その後順次県内の各軍事施設に分かれて行った。そして11月末までに埼玉県内への進駐兵は13,800人を数えたという。

9月中頃、坂戸飛行場に2台のジープに分乗したアメリカの兵隊5,6人が何の前触れもなく到着。飛行場内の機材、武器弾薬の員数点検の使命だったと思われる。その将兵らは鶴ヶ島の無線送信所と川角の通信施設の所在を尋ねたというからそのままそちらに廻ったのだろう。

結局坂戸飛行場には進駐軍の駐屯はなかった。

戦争犠牲者となった人々が雑草の生い茂る旧飛行場跡に入植することとなった。

正式名称は「坂戸地区開拓地」で、農協を組織する際、「富士山がよく見えるから」ということで、「富士見開拓農協」とした。 

入植したのは地元の次男、三男、軍人などで農業未経験者も多かった。

飛行場は芝がはっていて、それを軍のタンクにプラウをつけて引っ張って土をひっくり返した。

山を削って平にし、その上に砂利を敷いて押し固めてある。そんな土地なので、ジャガイモを蒔いたが、収穫が種よりも少ないことも。

先に入植した人々は、練成講習修了者の意気盛んな人たちで、埋め立て小屋に風は吹き込む、雨は漏る、月の光の差し込むところに寝起きし、朝早くから夕方遅くなるまで汗と埃にまみれ、藷を食し、頑張っている姿にはまったく頭が下がった。

初めは薩摩芋などが多かったが、だんだん世の中が静まると作物も変わってきて、西瓜がとてもよくできた。

飛行場の名残の給水塔が今の坂戸中学校の校庭にあったが、1968年(昭和43年)に取り壊した。

おるそ坂戸飛行場全図.PNG
写真:「国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省」
撮影年度:1974年 地区名:川越北部地区 編集・加工:「空港探索・とり」

1974年撮影。住宅都市整備公団が入って9年後の様子です。

西側の一部に住宅地ができていますが、北東の工業団地区画はまだまだですね。

D20_0014.jpg

若葉駅前の高層団地から見た飛行場跡地。

田んぼや山林の広がる場所がその後芝の飛行場となり、

戦後は一面の開墾地、そして今はこの状態。 

目まぐるしい変貌を遂げた場所ですね。


       埼玉県・坂戸飛行場跡地       

ここは元々田んぼや山林の広がる場所で、こういう場所には大抵神社があるのですが、飛行場建設の際に移転しており古い寺社は全くありません。
ある整備兵だった方の回想録が残っていて、「坂戸飛行場に転属、当飛行場で九十九式高等練習機の整備作業を行った」と書かれていました。飛行場跡地に建てられた筑波大学附属坂戸高等学校には高射砲台座等が残っていて、防火用水貯水池として利用されているのだそうです。

坂戸飛行場 データ
設置管理者:陸軍
所在地:埼玉県川越市、坂戸市、鶴ヶ島市(旧川越市、入間郡坂戸町、鶴ヶ島村、勝呂村)
面積:230ha
座 標:N35°57′20″E139°24′59″
*座標はグーグルアースから算出

沿革
1940年02月 陸軍、地元から土地買い上げ交渉
          1年程の作業の後飛行場使用開始
1944年11月 この頃からB29の空襲が始まる
1945年08月 終戦 入植開始
1965年     住宅都市整備公団、飛行場跡地を「住・工セット型団地」として造成

関連サイト:
国土地理院1942年5月当時の写真(C29A C1 79) (完成から約1年後。陸軍が撮影した運用中の写真)

この記事の資料:
坂戸史 通史編Ⅱ
坂戸の歴史
坂戸風土記3,4,6,8号  
防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 水路部」


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伊江島補助飛行場 [├空港]

 2006年5月 訪問 

沖縄本島に隣接する伊江島の「伊江島飛行場」。 

日本軍が建設した当時東洋一の規模を誇り、

終戦の際米との交渉のためマニラに呼び出された日本側使節団の中継地となった飛行場です。

この飛行場は日本軍が建設し、米軍が占拠し、

現在では3本の滑走路を日米に分けて使用しています。

そのため時代によって飛行場の名称が変わります。

ご了承くださいませ。

 

まずは「伊江島」の位置関係。

伊江位置.JPG

1943年、この小島に日本軍が伊江島飛行場の建設工事を開始しました。

西、中、東と、3本の滑走路(1500m)を有する飛行場とする計画で、

実際に東、中滑走路は完成したのですが、西滑走路が未完成の段階で軍の方針が変更となり、

1945年3月、地上戦直前に滑走路放棄を決定。爆破して破壊します。

そして翌月の4月、アメリカ軍が伊江島を占領し、直ちに滑走路補修、拡張工事を行いました。

 

オルソ伊江島全体.JPG

1977年撮影の伊江島全体図。3本の滑走路がくっきりと写ってますね。

東西約8キロ、南北に約3キロ、外周24.2キロの小さな島に3本の滑走路を建設するため

大勢の島民の従事、強制退去、そして米軍上陸の際には多くの人命が奪われました。

現在も島の35%が米軍の基地です。

 

オルソ伊江島字.JPG
写真(上2枚とも):「国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省」
撮影年度:1977年 地区名:伊江島 編集・加工:「空港探索・とり」

滑走路部分拡大図。大戦前後の写真はこちらのサイトに掲載されていました。

全国には戦時中の日本軍の飛行場が米軍に接収されるというケースが数多く存在しますが、

オイラの知る限り、そのいずれも 終戦→接収 という順番です。

ところが唯一地上戦が行われた沖縄には、終戦に米軍の飛行場があり、

直接沖縄と日本本土を攻撃するために用いられていたという点で特異です。

この伊江島飛行場も例外ではなく、

5月10日からは沖縄と日本本土への出撃基地として使用されています。

 

そして終戦。

冒頭でも触れましたが、「正式降伏受理の打合せをなすため一行は日本飛行機により伊江島の飛行場に至り同地より米国の飛行機によりフィリピン マニラに輸送せらるるものとす 右一行の日本への帰還も同様の方法に依るものとす」

との命を受け、日本降伏連絡使節の一行は白塗り・緑十字の一式陸上攻撃機で伊江島飛行場に到着。

ここで米軍C-54輸送機に乗り換えてマニラに向かいました。

その後旧東飛行場は1970年に返還されて民間の「伊江島空港」になりました。

(伊江島空港についてはこちら→をご覧ください)

旧中、西飛行場は現在も米軍管理下にあります。

旧西飛行場はフェンスで囲われた米軍基地内にあり立ち入りが制限されているのですが、

旧中飛行場はフェンスの外にあり、条件付で自由に往来可能となっています。

ということで旧中飛行場をうろついてきました。

(以下の写真は以前アップした旅行記の使い回しです)

 

3507897.jpg

 

3507899.jpg

 

3507900.jpg

 

3507902.jpg

滑走路を横切る形で道路があり、地元の車が普通に横断してました。

 

グーグル伊江.JPG

現在のグーグル写真。

旧中飛行場がとけかかってます。

 

伊江島補助飛行場:map  


    伊江島・伊江島補助飛行場    

伊江島補助飛行場 データ
設置管理者:米国海兵隊
用 途:演習場
所在地:沖縄県国頭郡伊江村(字西江上、字西江前、字東江上、字東江前、字川平)
座 標:N26°43′19″E127°46′36″
面 積:801.5ha
滑走路:旧西飛行場:1,650m(04/22)
      旧中飛行場:2,100m(04/22)
*座標、滑走路長はグーグルアースで算出

沿革
1943年     陸軍航空本部、伊江島飛行場工事開始
          東、中、西の滑走路(1500m)を有する飛行場として建設
1945年03月 旧日本軍、地上戦直前に滑走路爆破
      04月 米軍伊江島占領 滑走路補修
      05月 沖縄と日本本土への出撃基地として使用開始
          その後部分返還、用途の変遷を経て現在に至る

関連サイト
沖縄県/伊江島補助飛行場      
読谷村史/降伏使節団の往来      
Wiki/伊江島補助飛行場   
国土地理院 1946年2月当時の写真(USAokinawa M43 4) (■→「同意する」→戻る→再度■をクリック)   
ブログ内関連記事
   


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旧陸軍高萩飛行場跡地 [├空港]

 2009年1月、2017年1月 訪問 

無題4.png
1947年9月当時の写真(USA M452 52) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 



(2017/1/22追記:記事修正しました)

 

埼玉県日高市にあった「高萩飛行場」。

陸軍の飛行場でした。

先頭の航空写真の通り、格納庫と格納庫前のコンクリ舗装面がクッキリ残っていたので、

グーグルマップ上にキチンと作図して再びお邪魔したのでした。

DSC_0001.jpg
撮影地点1

高萩飛行場には、格納庫と格納庫前のコンクリ舗装が7組並んでいるのですが、これは北から4番目の跡地です。

ファミマの敷地は当時のコンクリ舗装面にきっちりと収まっています。

上の写真、オレンジの線を引いた部分が格納庫前のコンクリ舗装面跡なのですが、

不思議なほど正確に舗装面跡が杭で囲われて地割として残っていました。

DSC_0006.jpg

撮影地点2

この写真だとトラックに隠れて見えないんですけど、杭で囲われた敷地の先にファミマがあり、

その先のベイシア(奥の灰色と赤色の大きな建物)の辺りまで当時は舗装面で、更にその先に格納庫がありました。

DSC_0011.jpg

撮影地点3

こちらはお隣の北から5番目のコンクリ舗装面跡。

コンクリ舗装面だった場所が正確に民家敷地になっています。

民家に向けてカメラを向けてしまうことになるので、なんだか構図が中途半端ですが、

画面右端のオレンジ線を引いた場所が当時のコンクリ舗装面。

1947年の航空写真で4番目と5番目を比較すると、5番目の方が数メートルだけ西にズレているのですが、

現在の地割でも、ファミマのとこの杭の境界より、こちらの民家の敷地の境界がきっちり数メートル西にズレています。

陸軍が飛行場用地を買収した後、「ここは元○○家の土地だから~」なんて考慮しつつ、

格納庫やコンクリ舗装面の場所決めをしたとは考えられません。

それでもなぜか、軍の都合で「ここと、ここ」と決めた格納庫、コンクリ舗装面の地割が、

(ほんの一部ですが)現在まで正確に残っている。

どういう経緯を経てここが戦後の境界線として確定したんでしょうか。

DSC_0009.jpg

撮影地点4

ファミマとベイシアの間の道路。

飛行場当時はここが格納庫前のコンクリ舗装面同士をつなぐ通路でした。

現在も(幅が少々狭くなりましまたが)道路として残っています。

DSC_0016.jpg

DSC_0018.jpg

撮影地点5

飛行場敷地北側。

この周辺の山林に飛行機を隠していたのだそうです。

(2017/1/22の追記ここまで)


D20_0007.jpg

 

D20_0005.jpg

高萩北公民館の道路に面した一角に上のようなものがあります。

高萩飛行場跡(全文)
所在地 日高市大字旭ヶ丘全域 萩飛行場は、昭和十三年十二月、陸軍航空士官学校(現在の入間市)の高萩分教場として使用開始された。
当時この地は、北海道などからの入植者によって山林が農地として開拓されていたが、日華事変の拡大に伴い軍用地として接収された。
飛行場の規模は、東西一七〇〇メートル、南北一三〇〇メートル、面積は約二二〇ヘクタールで、飛行場設備の主な建物としては、格納庫四庫(内二庫は鉄骨)、本部舎(二階建)、兵舎二棟(二階建)、機材庫、車庫、庶務事務所、講堂、将校下士官用控室、炊事用建物などであった。
飛行練習は、主に通称赤トンボと呼ばれていた九五式練習機などを用いて行われた。
昭和二十年二月まで、航空士官学校生徒の飛行練習場として、大きな役割を果たした。飛行場としては、同年八月の終戦まで使用された。
平成八年一月 高市教育委員会

 

D20_0011.jpg

少し離れた神社にもこんなものがありました。 

 

D20_0013.jpg

碑文(全文)
昭和二十年終戦を迎えるや、首都衛星基地であった旧陸軍高萩飛行場跡へ十二月一日国の緊急開拓政策のもとに県下でもいち早く高萩開拓団を組織し、鍬入れを行った。
当地は旧高萩村及び旧高麗川村の一部に亙り、総面積は出耕作地も含め六十余万坪に及び主として復員軍人、引揚者、近隣の二三男の百二十四名で構成し、字を旭ヶ丘と命名した。
当時世相は混沌とし、農業経験の未知に加えて食糧物資は極度に不足し、更に打続く各種災害等に依り、経営基盤の弱い入植者の生活は困窮を極めた。
然し同士一同克くその苦難に耐え、昭和二十二年より国の助成による住宅の建設も始り、二十三年秋には待望の点灯工事を了え、同年農協法の施行により開拓団を旭ヶ丘開拓農協に改組し、苦難の中にも一歩一歩建設への段階を進め、二十七年国の開拓完成検査に全員合格した。
更に心の據り処として部落中央に旭ヶ丘神社を建立し、幹線道路も逐次整備を進め、四十年代に入り蔬菜を中心とする営農も漸くその基礎を固めることが出来た。
昭和四十四年開拓農協を解散し各自一本立ちの農家として再出発出来たのも、一重に各行政当局、各種諸団体、諸先輩の尽力指導の賜であることは勿論、入植者一同の団結と努力の成果であろう。
茲に当地の足跡を後世に伝えると共に旭ヶ丘の将来の繁栄を希念しこの碑を建てる 昭和五十三年十二月一日

 

D20_0016.jpg

当時飛行場の本部舎内にあった気象室で天気図の作成をしていた方が

現在当地区の地主会長を務めておられ、この記念碑を建立したのだそうです。

ちなみに2008年10月に建てられたばかり。

 

D20_0019.jpg

この碑文は北公民館に設置されている説明版の文章とまったく同じで、

文末の「平成八年~」の部分が、「所在地 日高市大字旭ヶ丘全域 及び一部森戸新田を含む」

になっていました。

 

D20_0023.jpg

 

D20_0022.jpg

神社周辺はこんな感じ。

 

オルソ高萩飛行場全図.PNG
写真:「国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省」
撮影年度:1974年 飯能、川越南部、越生 編集・加工:「空港探索・とり」

こちらは1974年当時の写真です。

現在と比べるとまだまだ建物が少ないですね。

こうして直線道路が整備されている様子を見ると、「どの道路が滑走路跡だろうか」

などと考えてしまうのですが、特定の場所を舗装して滑走路としていたのではなく、

格納庫や本部舎などを除き一面芝生の平地だったそうで、

道路が整備されたのは戦後だそうです。


        埼玉県・旧陸軍高萩飛行場跡地       

「日高市史 近・現代資料編」にこの飛行場のことが出ていましたので以下抜粋してみます。
旧日本陸軍高萩飛行場
正式名:陸軍航空士官学校高萩分教場
飛行場開場:昭和14年4月
東西1,800m、南北1,180m 213万㎡
地面の状況:平坦且堅硬ナリ 殆ド一面ニ張芝及雑草密生ス
        降雨後ノ排水概ネ良好ナリ
目標:川越市、飯能市、東上線
障碍物:ナシ
離着陸特殊操縦法:
着陸ハ東側格納庫寄リニ於テ南北方向ヲ可トス
格納設備:格納庫 40m×50m2楝、30m×35m2棟
通信設備:高萩郵便局(電信及電話取扱)東方約700m
観測設備:ナシ
給油設備:燃料補給可能
修理設備:ナシ
宿泊設備:川越市ニ旅館数軒アリ
地方風:
1-3月間ハ北風、4-7月間ハ南東風、8月ハ東風、9-12月間ハ北東風ナリ
地方特殊ノ気象:5月頃降雹アリ 7、8月頃雷雨多シ 冬季北風強吹ス
交通関係:川越駅(東上線)ヨリ「バス」ノ便アリ
其ノ他:本場ハ陸軍航空士官学校分教場ナリ
以上
↑敷地の大きさについての情報が現地の碑文と若干異なっています。 
それから交通関係として川越駅が紹介されているのが不思議です。
当時は既に東上線も越生線も全通しており、八高線も開通してました。
特に越生線の西大家駅から飛行場まではほんの数キロなのですが・・・。
川越ですら「旅館数軒アリ」という当時の事情からすると、川越からバス利用というのが
結局は無難だったのでしょうか。

旧陸軍高萩飛行場(陸軍航空士官学校高萩分教場) データ
設置管理者:日本帝国陸軍
所在地:埼玉県入間郡旧高萩村及び旧高麗川村(現:埼玉県日高市旭ヶ丘)
座 標:N35°54′46″E139°21′50″
面 積:220ha
滑走路:飛行場内は全面芝生で舗装された滑走路なし
     気象条件により石灰粉でラインを引き、離着陸の目安として使用
*座標はグーグルアースにて算出 

沿革
1930年     北海道などからの入植者によって山林が農地として開拓される
1938年12月 日華事変の拡大に伴い軍用地として接収
          陸軍航空士官学校(現在の入間市)の高萩分教場として使用開始
1945年02月 2月まで航空士官学校生徒の飛行練習場として使用される
1945年08月 終戦により飛行場としての使用停止
1945年12月 飛行場跡地の開拓が始まる

関連サイト
埼玉ニュース   


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グアム国際空港 [├空港]

 2008年11月 訪問 

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グアム島ほぼ中部にある「グアム国際空港」。

 

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通路に設置してある公衆電話。

受話器が傾いでるので直そうとしたのですが直りませんでした。

仕様みたいです。

 

グアム国際空港:map  


       グアム国際空港        

    ビュー:☆★★★★  
展望デッキなし
通路の窓から覗く感じになり視界は限られる

    施設:☆☆☆☆★  
ギフトショップ、飲食店が充実       

    マニア度:☆★★★★  
特に発見できず
タイミングが良ければ海外エアライン等珍しい機体が見られるかも

    総合:☆☆☆★★  
館内表示、放送等日本人客への対応万全 
空港に降り立った観光客から歓声が上がるほどターミナルから眺める景色も美しい

グアム国際空港(Antonio B. Won Pat International Airport) データ
3レター:GUM
4レター:PGUM
運用時間:24時間
所在地:タモン、バリガダ
標 点:N13°29′00″E144°47′45″ 
標 高:91m
滑走路:3,052m×46m(06R/24L)
         3,053m×46m(06L/24R)
航空管制周波数
・飛行場管制 
 アガナタワー 118.1 340.2
 デリバリー 121.9
 グランド 121.9 336.4
 ランプ 121.6
・飛行場情報放送 
 ATIS 119.0
・進入・ターミナルレーダー管制
 アプローチ/ディパーチャー 118.7 269.0
  GUAM CERAP 118.4 118.7 120.5

沿革 
1976年01月 開港
1982年01月 旅客ターミナルビルオープン
1996年09月 新東側ターミナルビルオープン
1998年08月 新西側ターミナルビルオープン

関連サイト:
The Guam International Airport - Home
グアム国際空港案内
Wiki/グアム国際空港
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児玉飛行場(八町八反の飛行場)跡地 [├空港]

 2008年11月 訪問 

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埼玉県児玉町。

かつてここには陸軍児玉飛行場がありました。

当地は元々その広さから「八町八反」(「八丁八反」)と呼ばれており、

地元の方からは「八町八反の飛行場」と呼ばれていたのだそうです。

戦後入植者により開墾され、現在は一部工業団地になっています。

この飛行場、完成したのは1943年10月なのですが、

1944年秋、この基地から硫黄島攻撃の重爆撃機を離陸させるため、

飛行場の東西に250mずつ突き出した長くて頑丈な滑走路(2,000m)作りが始まりました。

既に必要な物資を失っていたため、滑走路には「マガダム式」を採用。 

神流川、利根川から運んで来た直径15~20センチの玉石を幾千万ともしれず敷き詰め、

その隙間に砂利を敷き、さらに赤土で覆ってローラーで転圧します。

この気の遠くなるような作業には小学生まで動員されました。

上の地図では分かりませんが、共栄地区がかつての滑走路跡だそうです。

現在でも庭先を2,30センチ掘ると、石や砂利が出てきてまるでコンクリートのように固く、

大根などは作れないのだそうです。

戦後、こうした事情を知らずに当地に越して来た方は、

「どうして我が家の庭にはこんなにびっしり石が敷き詰められてるのだろう??」と不思議に思うのだそうです。

飛行場から飛び出した部分の舗装は結局終戦まで終わらなかったのだそうです。

 

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工業団地周辺

 

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飛行場跡地の一角にこのような記念碑があります。

複数の石碑があり、裏側にも文字が彫られているのですが、

 

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このようにぐーっと一周できるよう整備されています。

通路には大型のクモの巣がたくさん張られていますので、

通る時は十分注意した方がよいです。

 

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(裏側)

碑文(全文)第二次世界大戦の苛烈な戦局下、当地に建設された児玉飛行場の生涯は、まさに戦いの厂史であった、即ち陸軍航空特別攻撃隊の出撃基地として、日本々土に来襲する敵軍の勢を砕く古今未曽有の航空作戦に貢献した。児玉飛行場の栄誉は埼玉県はもとより全国に其の名を馳せている。其の建設を胸に秘める児玉郡下市町村住民の血と汗の協力に拠る「八丁八反の飛行場」こそ日本最後の砦として神洲不滅の奇跡を信じ、各種団体から小学校児童に至るまで、困苦欠乏に耐えつゝ工事に奉仕し、昭和十七年春より約一年有半の歳月を経て完成した。昭和十八年十月熊谷陸軍飛行学校児玉教育斑(初代隊長浅井策大尉)として使用開始し、同校の九十五式一型練習機が初めて児玉飛行場に着陸した。先ず、暁部隊の将校、下士官学生十五名に飛行機の操縦技術を施し前線に送った。続いて、昭和十九年四月学徒動員の陸軍特別操縦見習士官二○○名が入校し、児玉教育隊と改称され、三ヶ月の最短期間に操縦教育を終了し陸軍特別攻撃隊要員として第一線に配属された。又同年八月、第一練習飛行隊の編成を見るや全将兵は、児玉郷の山河に別れ南国ジャワ島に移駐した。同年十月児玉基地と改称、第一四四飛行場大隊が配備され、各分科飛行部隊及び、特別攻撃隊の基地、拠点となって帝都の防衛、硫黄島攻撃、或いわ太平洋近海を遊弋する敵機動艦隊に対する攻撃等、重要航空作戦の任に当たった。昭和二十年八月十五日大詔を拝し戦局を結ぶ、児玉基地は、映画「日本の一番長い日」によって全国民に伝えられたが、祖国日本の栄光を背負って戦った、児玉飛行場は尊くも又悲しい無限の教訓を残して、その思い出だけを住民、軍関係の記憶に止どめて日本と運命を共にし、三年有余の厂史を閉じた。我が民族の限り無い雄叫は、厂史の試練に苛なまれ乍らも、同年秋、百十余名の開拓団員の入植となり、農耕地にすると同時に一部は工業団地として再生し今日に至る。戦後三十五年を閲し、往時の□(留?)魂、姿を偲ぶ何物もなく、追想のみ錯綜し物心共に漠々たるものを覚ゆる時此の縁故ある地に生存する有志の悲願が凝って記念碑建立の声こんこんとして湧くが如く起る。幸にして地元同志の篤志と物心両面の援助と更に碑建設の諸般に亘り住民各位の甚大なる協力を受けたことはまさに天佑神助と信じ共に感謝するところである。茲に熊谷陸軍飛行学校、第一練習飛行隊第一四四飛行場大隊の関係者並びに地元有志の発願により、児玉飛行場を飛び立ち祖国の為に散華された幾多将士を始め教育訓練中殉職した戦友の冥福を永久に祈り、再び戦争を繰返さないことを願いつゝ世界の平和と日本の繁栄を祈念してこの碑を建立する。昭和五十五年十一月十五日 児玉飛行場跡記念碑建設委員会

 

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この石碑の裏側には、輸送飛行隊で殉職した方の階級と氏名が彫られていました。

 

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第四教育飛行隊鎮魂碑(抜粋)児玉飛行場跡に、護国生死を共にと集いたる第四教育飛行隊に在籍の士が、今茲に訓練中、不幸その任に殉ぜし者、或は米機襲来に斃れし者を部隊終焉の地に、永えに眠られん事を願い、この碑を建立する。部隊は昭和十七年滋賀縣八日市に飛行第三戰隊北方進出の後を享け軽爆撃機操縦者の戰技訓練を主務とした新設部隊であったが、戰局の推移に鑑み、南方補給作戰更に名阪神地区の要地防空戰斗等の戰斗行動に参加、昭和二十年三月部隊はこの地に移駐、戰局漸く悪化するや本然の任務たる教育訓練から特別攻撃隊の養成へと変遷を経て、振武第二九九隊、三○○隊、三○一隊、三○二隊、三○三隊、三○四隊を編成、沖縄特攻作戰の為南下征途に就かしめた。此の間の訓練においても幾多の尊き命が失われたが屍を越え国の護持に訓練は日夜を分かたず続けられた。 二十年八月に入るや米機の空襲も熾烈を極め対空戰斗においても戰死者が出るに至った。斯くして頽勢の挽回ならざるまゝに終戰の日を迎えたが、青春の血滾る憂国の至情も詔勅の渙発に旬日を出ずして敗戰の處理を完了、茲にこの児玉において部隊の歴史は閉ざされた。短期間乍ら苛酷な情勢下における児玉飛行場での生活の一日一日は終生忘れ得ぬものがあり、更に幽明境を異にした幾多の戰友をこの地に残したまま家郷に戻らねばならなかつたことは断腸の思であつた。離散の日より三十七年を歴し、今漸く兄等の安住と、兄等に心の再開を願える地を、児玉飛行場之跡碑奉賛会の御厚志により得ることが出来、この碑の建立される日を迎え得た。昭和五十七年十月十日 八日市会 冲之原会 児玉会

 

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碑の片隅に野ざらしになっている金属の塊。

プロペラかタイヤの軸かと思ったら、焼夷弾の残骸だそうです。

 

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近くの公民館にも碑がありました。

碑文(全文)当開拓地は太平洋戦争遂行の為航空後方基地として終戦二年前に完成した旧陸軍児玉飛行場跡地である 戦後緊急食料増産対策として  基地残留部隊員を基幹として復員軍人引揚者開拓者及び周辺町村の次男三男百十六名を以って昭和二十年十月開墾に着手した 以来三十年困苦に耐え欠乏を忍んでひたむきの努力を重ねて今日に至る ここに三十周年を迎へるに当り今は亡き友と共に入植者の足跡を記し子孫の繁栄を祈りこの碑を建立するものである 昭和五十二年四月二十日 児玉開拓農業協同組合

 

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A:立野南公民館
B: 児玉飛行場跡地の碑(埼玉県上里町嘉美1183)

エステー化学の門が当時の飛行場の門だったのだそうです(アギラさん情報)。

 

児玉飛行場:map 


       埼玉県・児玉飛行場跡地         

訓練生を送り出すと飛行場は使命を一変させ、激戦地へ食料や兵員を空輸する実戦基地となりました。硫黄島への出撃なども行い、かなりの死傷者を出しました。しかし支援物資はほとんど友軍の手には届かなかったようです。終戦時には本土決戦用の飛行機約80機がほぼ無傷で残っていたそうです。
余談ですが、8月15日のポツダム宣言受諾演説後、海軍厚木基地司令は徹底抗戦を強固に主張。これに当児玉基地も同調しました。厚木基地司令は憲兵により逮捕、海軍病院に監禁されましたが、これに納得できない部下らが零戦・彗星・彩雲など計32機に搭乗して厚木基地から脱出。このうち彗星など13機が未だ抵抗を続ける陸軍児玉飛行場に降り立ったのですが、すぐ厚木に連れ戻されるという一幕があったのだそうです。

児玉飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
用 途:操縦教育、航空後方基地
所在地:埼玉県児玉郡上里町
座 標:N36°13′27″E139°08′29″
滑走路:?m×60m
*座標はグーグルアースから算出

沿革
1942年 春 建設開始
1943年 10月 熊谷陸軍飛行学校児玉出張教育斑として使用開始。暁部隊の将校、下士官学生十五名に操縦訓練
1944年 正月から建設途上の飛行場を使って暁武隊将校を訓練(「児玉飛行場哀史」・アギラさん情報。)
      03月 完成(「児玉飛行場哀史」・アギラさん情報。碑によると、1943年半ばの完成)
1944年 04月 児玉教育隊に改称。特別操縦見習士官200名入校(7月末まで・アギラさん情報)
      08月 第一練習飛行隊編成。ジャワ島に移駐
      10月 児玉基地に改称。第一四四飛行場大隊配備
1944年 秋 マガダム式滑走路建設開始
1945年 08月 終戦
      10月 百十余名の開拓団員入植

関連サイト:
国土地理院 1946年6月当時の写真(USA M159-A-5 103) (■→「同意する」→戻る→再度■をクリック)   


余談:「帝都防衛??」

「操縦技術習得」、「輸送」、「特攻隊」 、「敵艦隊攻撃」、「敵基地攻撃」等、様々な任務を担った児玉飛行場でしたが、その1つに「帝都防衛」がありました。

時々この周辺を車で走るオイラからすると、これには違和感を感じます。

「敵の艦載機、爆撃機相手にこんな奥地からはるばると?? ・・・随分悠長だなぁ」

というのが第一印象でした。

 

児玉.PNG

上の地図のが児玉飛行場跡です。

例えばですが、児玉飛行場からの先っちょの部分まで車でいくとすると、

最寄のICから関越道、首都高など使って、まったく混んでなければ約80分、

日中の時間帯なら、2~3時間というところでしょうか。

下道を走るとなると一体何時間かかることやら。

 

そこで、当時陸軍が使用していた戦闘機で児玉飛行場を離陸して

の地点まで何分で行けるか計算してみました。

 

地点までの距離:80km

「隼(後期型)」 最高速度:548km/h

「疾風」      最高速度:624km/h

として、

時速500キロ出したとすると、所要時間は9.6分

時速600キロ出したとすると、所要時間は8.0分

です。

児玉から東京湾の手前まで10分を切るんですね。

実際にはもう少しかかるのでしょうが、大戦当時のレシプロ機とはいえ、

その早さは凄まじいものがありますね。


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関東松山(唐子)飛行場跡地・埼玉県 [├空港]

 2008年11月 訪問 

2014/9/21追記:アギラさんから情報頂きました。第232飛行場大隊補給中隊の横塚氏によりますと、正式名には「関東」が付くとのことでしたので、飛行場名修正致しました。アギラさんありがとうございましたm(_ _)m

この場所に旧陸軍が飛行場を造るまでのことは、

前記事(東武東上線物語・1,3)に書きました。

この記事では、終戦後この飛行場跡地がどうなったか書きます。

 

まずは飛行場に関する部分だけ簡単におさらい。 

1943年(昭和18年) 陸軍、松山飛行場建設開始

1945年(昭和20年)1月 
  松山飛行場建設のため武州松山(現東松山)~武蔵嵐山間移築
  同年8月 飛行場未完成のまま終戦

1945年(昭和20年)9月初め
最初期の開拓者たちが飛行場跡地に到着。

跡地北側に日本軍残留部隊が何人か残っていました。

飛行場は未完成でしたが、北端、東側山中の大小2棟の格納庫や、西側山中の部隊用建物や武器その他被服、軍靴などを収納する建物も完成し、飛行場の発着機能は十分果たされるまでになっていたようです。 

飛行場には半地下兵舎が残っていて、到着した入植者は当初そこに分宿したりしたそうです。

最初期の入植者の言葉が残っています。 

「初めてこの地を訪れた時、軍用地とは言いながら、まだ出来上がらない飛行場で、
一見平地のように見えるが山あり谷ありの場所を削り埋めた、
草も満足に生えぬような赤土であり、鋤もきかないような赤土地帯(関東ローム層)であった」。

1945年(昭和20年)10月4日 米軍飛行場跡地に進駐

松山中学校内の旧日本軍の医薬品などを監視するという名目で駐屯。

この跡地に飛行機が残っていたという記述が「東武鉄道百年史」と松山市の市史にあり、

記述が微妙に異なるのですが、併記しておきます。

・格納庫にあった飛行機1機を同年暮れに爆破
・不時着したとかいう飛行機が2機、飛行場跡地に残っており、計器類はすべて剥ぎ取られた状態でした。この飛行機は後に米軍に燃やされました。

「黄塵を友として」という史料の中ではこの頃のことについて、
最初期の入植者が入って間もなく進駐があり、開拓を目的に集まって来た人たちが皆追い出されてしまいまったこと、飛行場の周囲に柵をされ、鉄条網が張られ、突然のことに事情が分からず後から入ろうとした人は銃を突きつけられ追い返されてしまったことなど述べられています。

一方、市史の中では、
1945年(昭和20年)10月、進駐軍のいた飛行場跡には既に麦まきをする人が現れる。

と書かれています。飛行場の一部は立ち入り禁止から免れたということなのでしょうか。

それはともかく、

全国的には進駐した米軍が飛行場を拡充してそのまま運用するケースもありましたが、 

当地への進駐は非常に短期間で、結局この地で飛行機が飛び交うことはありませんでした。

1945年(昭和20年)11月頃 米軍松山飛行場跡地から撤退

米軍のいなくなった地に再び開拓者たちが戻って来て開墾が始まりました。

1946年(昭和21年)1月14日付 朝日新聞
「不要飛行場引渡し」の見出しの下、こんな記事が載りました。
米軍総合司令部渉外局12月発表
第八軍司令官代理ホール中将は12日 占領軍に不要な日本の全飛行場を
可及的速やかに農耕要地として日本側に引き渡すよう命令した。

終戦後の食糧危機を受けての事と思われますが、

「農耕要地として」という条件で全国の不要飛行場引渡し令が下されました。

こうした占領軍のお墨付きもあり、以後開拓が進むことになったのですが、

それは苦労の連続だったようです。  

開拓者の苦労については、市史の中でこう綴られていました。

「北海道、東北、奄美大島、外地から終戦引揚者が無一文でここに入った。農業の経験も持たずに入植して来た人が大部分であり、作物の作り方、蒔き付け時期すらわからない。サツマイモ、陸稲が主だったが、その後スイカ、メロン、落花生、栗が盛んとなり、酪農も広く行われた。地元の人たちからは「飛行場の人」などと呼ばれ、独との感じをもっていたが、「新郷」という字名が付けられ、組合ができ、共同出荷場を作った」。

荒れ果て、痩せた土地の開墾作業は困難の連続で、

強い季節風は黄塵を巻き上げて前が見えないほどであり、

そのことが前出の史料、「黄塵を友として」という書名にもなっています。


1953年(昭和28年) 「グライダー事件」発生

飛行場跡地を「宮前滑空場」にしよう、というグライダー滑空場誘致運動が起こりました。

大変の苦労をしながらも、懸命に開拓を行っている当人たちの頭越しでのこの計画に入植者たちは猛反発。

滑空場の計画図面には2本の滑走路があったため、

「グライダー滑空場は将来飛行場になる危険がある」と主張を展開。

誘致案取り下げで騒動は落着しました。

この騒動について史料の中では、

「悪気はないものの、入植者の懸命な努力にもかかわらず営農不振が続き、
外部の人に『何か有効利用を』という気を起こさせてしまう要因となった」
と述べられていました。

その後もこの地には、大学進出、工場立地などの案が上っては消えるということを繰り返しました。

1965年頃(昭和40年代) 開発の波が押し寄せる

この頃になると、各地の開拓地が工業団地、大学、住宅団地などの開発地として狙われ始めました。

それは30年代後半から一向に成果の上がらない開拓地や

首都圏に近い開拓地が高度成長に追いつかない開拓農業に見切りをつけた結果でもありました。

松山周辺でも高速道建設についての噂話が地元の人々から上がり始めるようになり、

国営森林公園建設決定、1967年(昭和42年)には大東文化大学東松山校舎開校など、

松山飛行場跡地周辺にも確実に開発の波が押し寄せてきました。

こうした情勢の中、新郷、都地区の工業団地開発計画を立てた市長が三選されます。

1969年(昭和44年)4月 工業団地の造成工事開始

開拓地の36%がその対象となりました。

1971年(昭和46年)3月 森林公園駅開業

 

オルソ松山飛行場全図.PNG
写真:「国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省」
撮影年度:1974年 武蔵小川 東松山 編集・加工:「空港探索・とり」

1974年撮影。 工業団地の造成工事開始から5年後の写真です。

1974年(昭和49年)7月 森林公園開園

1975年(昭和50年)8月 関越道(練馬~東松山 開通)

1980年(昭和55年)7月 関越道(東松山~前橋 開通)→飛行場跡地を関越道が通る

2002年(平成14年)3月 つきのわ駅開業

2003年(平成15年)   254唐子バイパス2車線暫定開通

 

このように、かつて線路が一本通っているだけだったこの寂しい場所は、

時代に翻弄され、開発の影響を受け、当時の面影をわずかに残しつつも現在のように変わっていったのです。

現在はこんな感じです。↓

ぐーぐるAFまっくす.JPG

 

関東松山飛行場:map 


        埼玉県・関東東松山飛行場跡地        

・松山飛行場の形について
松山飛行場の詳しいデータ(敷地の明確な境界線、滑走路位置など)は、

図書館でもネットでも資料を見つけることができませんでした。

一連の記事の飛行場境界線については、

「黄塵を友として」の付録 1947年10月に米軍が撮影したと思われる写真、1959年撮影の写真、そして「東武鉄道百年史」の図を参考にしました。

敷地南側はこれでほぼ間違いないと思うのですが、北側部分が定かでありません。

 

松山飛行場のその後については、跡地の一角に建てられた石碑にもその説明があります。

尚、この石碑の中で松山飛行場は、地元の人たちの通称、「唐子飛行場」として登場しています。

 

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m.PNG

 

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都開拓記念碑(全文)
旧村の宮前、唐子両村を境して、民地約二00ヘクタールが大東亜戦争に軍用の唐子飛行場となったが終戦とともに、戦後国民の食糧事情が飢餓の状態であったので、開拓による食糧増産が国策となり、唐子飛行場跡地も開拓入植の土地となりこの旧宮前地区には昭和二十五、二十六年にわたり、旧宮前、唐子の人達家族ごと十五戸が入植となった。

この地は字名を都と称し、唐子分は新郷と称したとくに、表土をけずられてあるこの都は、黄塵にして荒れ、開拓家族は、石油ランプをたよりに起居し、農具も鍬や万能の、手による作業で、血と汗にまみれ排水工事を施工、困苦の日々の闘いの開拓であった。開拓当初、都開発者は唐子開拓農業協同組合を設立したが旧村がそれぞれに町村合併により東松山市と滑川村とになり、組合も松山開拓農業協同組合と合併した。

電灯も入り辛苦の十数年、作物も実りが得られるようになった。この頃より国の経済の動向は農業から工業生産と変化した。市村も将来の発展的計画に基づき県企業局の協力のもとに工業団地として組合にその協力を求められた。血と汗の結晶の土地であるが組合として協力の決がとられた。その後地区内を関越高速道の通過があり全員が協力した。以上のように開拓者一致の協力は、この地域と住民の発展を大きく進展させたことは事実でありかっての苦闘の努力は歴史を綴り不滅に輝き続けてゆくことであろう。

都開拓三十周年記念の開拓者建碑にあたり碑文とする 滑川村長小久保正男 
昭和五十八年四月吉日建之 

 

関東松山飛行場データ
設置管理者:旧陸軍
目 的:帝都防衛
所在地:埼玉県宮前村、唐子村(現:東松山市新郷、滑川町都)
滑走路:1,000m×50m
座 標:N36°02′17″E139°21′51″
面 積:200ha
(座標はグーグルアースから算出)

沿革
1943年 陸軍、松山飛行場建設開始
1945年 08月 飛行場未完成のまま終戦
1945年 10月 進駐
      11月 返還 本格的に入植が始まる 

関連サイト
Wiki/東松山工業団地 
ブログ内関連記事

参考資料
松山市史資料編第四巻
東松山市の歴史 下巻
東武鉄道 会社の沿革
黄塵を友として 松山開拓農協五十年の風雪

資料未確認なのですが、滑川高校郷土部 部報「比企」第二号(1981)に松山飛行場についての詳しい調査報告があるのだそうです。


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霞の目飛行場(旧陸軍仙台飛行場) [├空港]

 2008年8月 訪問 

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宮城県仙台市にある「霞の目飛行場」。

 

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R/W32エンド

 

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ヘリがやって来て・・・ 

 

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宮城県仙台市霞の目飛行場:map 


     宮城県・霞の目飛行場      

陸上自衛隊の航空隊、宮城県警察のヘリコプター基地、
休日には市民のグライダー滑空場として使用されている

霞の目飛行場 データ
設置管理者:防衛省
4レター:RJSU
空港種別:陸上自衛隊管理する飛行場
運用時間:24時間
所在地:宮城県仙台市若葉区霞目1-1-1
標 点:N38°14′07″E140°55′21″
標 高:7m
滑走路:708m×30m(14/32)  400m×15m(09/27)

沿革
1933年 日本陸軍飛行学校の練習用飛行場「仙台飛行場」として開港

関連サイト:
Wiki/霞目駐屯地
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飛騨農道離着陸場(飛騨エアパーク) [├空港]

 2008年7月 訪問 

D20_0372.jpg

岐阜県高山市にある「飛騨農道離着陸場(飛騨エアパーク)」。

ちゃんと大きく標識にも出てますね。

 

D20_0369.jpg

 

D20_0366.jpg

 

D20_0368.jpg

 

D20_0365.jpg

 

D20_0363.jpg

 

D20_0362.jpg

海自からの貸与という形で展示機がありました。 

哨戒ヘリ:HSS-2B(ちどり) 

 

D20_0361.jpg

初等練習機:KM-2(こまどり)

 

D20_0371.jpg

反対側はこんな感じ。

ヒコーキ好きの習性としてもっと滑走路に近づきたいのですが、

滑走路に向かう道という道に立ち入り禁止の標識が。

 

岐阜県高山市飛騨農道離着陸場(飛騨エアパーク):map  


      岐阜県・飛騨農道離着陸場(飛騨エアパーク)      

文字通り山の中の小さな飛行場。飛騨から大都市圏に農産物を出荷するため、1995年に開港。毎年7-9月に名古屋や東京、大阪などに野菜を空輸してきた。ピークの2000年に66回あったフライトは、交通網の発達で年々減少。2007年は9回(計画は16回だったが、荒天のため7回は中止)飛んだ。2008年度は名古屋行き9回、神戸行き3回の計12回を予定している。
他の農道空港の例にもれず、当飛行場も本来の目的である農業振興基地としての使用だけでなく、防災活動拠点、救急医療活動拠点、レジャー基地としての運用を行っている。毎年恒例の「スカイホリデー」にはグライダー、曳航機の体験搭乗が行われ、室屋さんアクロも。 

飛騨農道離着陸場(飛騨エアパーク) データ
設置管理者:岐阜県
空港種別:飛行場外離着陸場
所在地:岐阜県高山市丹生川町北方2635-7
標 点:N36°10′34″E137°19′00″
標 高:714m
面 積:10.2ha
滑走路:800m×25m(着陸帯:920m×60m)
磁方位:10/28
 駐機場 2バース
ヘリポート着陸帯:35m×30m
 駐機場 4バース
航空管制周波数
・飛騨フライトサービス 130.75
・ローカルボイス 122.6

沿革
1995年 開港

関連サイト
岐阜県/飛騨エアパーク   
Wiki/飛騨エアパーク 
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旧高松空港(旧陸軍林飛行場)跡地 [├空港]

 2008年7月 訪問 

旧高松.PNG

香川県高松市にあった「旧高松空港」。

この写真のどこかに空港跡地があります。

空港版ウォーリーをさがせ![わーい(嬉しい顔)] 

 

ヒント:
・滑走路はほぼ東西に伸びてます
・滑走路の長さは写真の半分位です

 

探せましたでしょうか?

正解はコチラ!

写真の右下部分を拡大するとこうなります↓ 

ぐーぐる旧高松.PNG 

旧高松空港跡地。かつて空港として運用していた頃の写真がこちら↓

オルソ.PNG
写真:「国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省」
撮影年度:1974年 高松南部  編集・加工:「空港探索・とり」

 

1340413_341733.jpg
写真:「国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省」
撮影年度:1974年 高松南部  編集・加工:「空港探索・とり」

エプロン周辺の拡大図。

ワイエスですかね。 

 

D20_0270.jpg

跡地ターミナル部分の一角にある石碑

旧高松空港跡地の碑(全文) ここは昭和の後半から平成の初めまで香川県の空の玄関であった旧高松空港の跡地であるが、旧高松空港の成り立ちは地元との関わりを抜きにしては語ることができない。 太平洋戦争の戦局が厳しくなる中、昭和十九年一月二十三日林村に晴天の霹靂ともいうべき事態が突発した。陸軍省から林村を中心に周辺三町村にまたがる約二百七十ヘクタールに飛行場を建設するとの連絡が入ったのである。時の三宅信夫村長は事の重大さのあまり顔面蒼白、絶句して言葉を失うほどであった。
 五日後の二十八日、林小学校講堂に指定区域内の関係者四百余名が集められ土地の買収家屋の移転を正式に要請された。永年住み慣れた土地家屋への愛着、近隣の親しい友との別れ、新しい土地での生活の不安などが心中に激しく交錯し、場内は寂として声もなかった。戦争に勝つためとはいえ、断腸の思いでこれを承諾せざるを得なかった。
 昭和十三年には優良町村として内務大臣表彰を受けた林村も 田畑の半分近くを失い、公共建物を含めた二百七十五戸の家屋を一挙に移転するに至っては、まさに崩壊寸前となり、村民の苦悩はその極みに達した。周辺市町村からの勤労奉仕隊の援助を得ながらも、縁故知人を頼って列をなして家財を運ぶ村民の姿は今も脳裏を離れるものではない。移転は4月末までの極めて短期間のうちに完了し、引き続き軍は飛行場の建設に着手した。作業はすべて人力に頼るため一般人はもとより学生・生徒まで連日数千人が勤労奉仕に動員された。夜を日につぐ突貫工事の末、八月には東西滑走路が完成し、九月からは軍用機の飛行訓練が始まった。しかし当初計画されていた南北滑走路は翌年八月の終戦時に至も遂に完成し得なかった。
 戦後、飛行場用地についてはいわゆる飛行場解放運動が行われたが、昭和三十年十二月運輸省高松航空保安業務所長と宮井政雄村長との間で高松飛行場敷地設定についての協定書が交わされ決着をみた。その結果大部分が農地等として売渡し、譲与され、約三十二ヘクタールが飛行場として残されることとなった。
 本格的な民間航空による利用は昭和三十年五月の大阪-高松路線の開設にはじまり、昭和三十一年には第二種空港となり、滑走路や通信施設等の整備も順次進められ、香川県の空の玄関として広く県民に親しまれてきたところであるが、平成元年十二月の新しい高松空港の開港に伴い、三十余年に及ぶその使命を終え供用廃止された。
 その後、この空港跡地は高松市の中心部近くに位置する立地条件を活かし二十一世紀に向けて香川県の産業の飛躍的発展や文化の振興を図るための拠点とするため、平成二年四月香川県が国から用地を取得し、技術・情報・文化の複合拠点としての「香川インテリジェントパーク」の形成を図るべく、地元の協力の下鋭意整備が進められたところである。
 今、空港跡地の開発が進む中、空港の歴史を振り返り碑として後世に残するものである。平成六年三月 林地区開発協議会

 

D20_0265.jpg

碑文にある通り、現在跡地は香川県の技術・情報・文化の複合拠点、

「香川インテリジェントパーク」になっていますが、

滑走路跡の中央部分は上空写真にある通り巨大な駐車場になっています。

上の写真はその駐車場部分。

右側が敷地外の道路で左側がかつて滑走路だった駐車場。

 

D20_0266.jpg

(もしかしたら滑走路面がそのまま使われているかも)と思っていたのですが、

きれいに舗装し直されてました。

 

D20_0268.jpg

一角に残る、空港の名残(嘘)

 

D20_0277.jpg

かつてのエプロン周辺

 

香川県高松市旧高松空港:map  


       香川県・旧高松空港跡地        

空港運用当時から市街地であり、機能拡張が困難なことから移転することとなりました。  

旧高松空港 データ
空港種別:第2種
所在地:香川県高松市林町
標 点:N34°17′43″E134°04′20″
(標点はグーグルアースで出したおおよそのものです)
面 積:32ha
滑走路:1200m×30m
磁方位:09/27

沿革
1944年01月 旧陸軍、林村に飛行場建設着手
1945年09月 接収
1952年06月 接収解除
1955年05月 極東航空が高松~大阪に不定期路線開設
1989年12月 新高松空港開港/旧高松空港廃止
1990年04月 国が用地を取得し、「香川インテリジェントパーク」として整備

関連サイト
Wiki/高松空港
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高松空港 [├空港]

 2008年7月 訪問 

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香川県の「高松空港」。

不思議な外観の建物でした。

 

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ターミナル内部

 

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展望デッキ入口

 

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展望デッキ。

広々してます。 

 

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展望デッキは高いフェンスが張り巡らされ、

 

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中央部分はガラス張りです 

 

D20_0173.jpg

 

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展望デッキ裏手に展示されてました。

ヒコーキのタイヤ三種 

 

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高松空港:map  


       香川県・高松空港       

    ビュー:☆☆☆★★  
展望デッキ大人100円
エプロン、滑走路全域見渡せる
ガラス越しか、フェンスの網目越しの眺め

    施設:☆☆☆☆★  
お土産:さぬきうどん、海産物、ヒコーキグッズなど
空弁、軽食もあり
レストラン、ショップ多数あり、ビル内各所でさぬきうどんが食べられる 

    マニア度:☆☆☆☆☆  
展望デッキに、747,767,YS-11のタイヤ展示
空港全域が「さぬき航空公園」と「さぬきこどもの国」で囲まれている     

    総合:☆☆☆☆★  
山の上の緑豊かな空港
手っ取り早く撮影、見学を楽しみたいなら、「さぬきこどもの国」がおススメ

高松空港 データ
設置管理者:国土交通省
3レター:TAK
4レター:RJOT
空港種別:拠点空港/国管理空港
運用時間:7:30~21:30
所在地:香川県高松市香南町
標 点:N34°12′51″E134°00′56″
標 高:184.9m
面 積:154ha
滑走路:2,500m×60m
磁方位:08/26
航空管制周波数
・飛行場管制 
 高松タワー 118.30 126.20
・進入・ターミナルレーダー管制
 高松アプローチ 120.40 121.20
 高松ディパーチャー 120.40
・航空路管制
 東京コントロール(播磨セクター)132.70 124.95
 福岡コントロール(四国北セクター)132.40 119.35 
・飛行場情報放送 
 高松ATIS 127.45
・TCAアドバイザリー
 高松TCA 119.025

沿革
1972年02月 新高松空港整備促進協議会設置
1989年12月 新高松空港供用開始/旧高松空港廃止
1992年04月 国際線旅客ターミナル完成

関連サイト
高松空港     
高松空港ビル     
えあぽネット/高松空港     
国土交通省大阪航空局/高松空港   
Wiki/高松空港     
ブログ内関連記事
     


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松山空港(旧海軍松山航空基地、吉田浜飛行場) [├空港]

 2008年7月 訪問 

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愛媛県の松山空港。

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広々とした展望デッキ。

フェンスは高いのですが、 

 

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こういう隙間があります[わーい(嬉しい顔)]

高いフェンスを設置/設置しようとしている各空港様、

次回フェンス張りの際には是非この形式をご検討いただけませんでしょうか。m(_ _)m

このブログのがもれなく1つ増えますよ(エ? 要らない?^^;)。

 

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R/W32エンド 

 

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前身は旧海軍松山航空基地(吉田浜飛行場)でした。 

防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:松山基 建設ノ年:1942 飛行場 長x幅 米:126000㎡コンクリート 主要機隊数:小型4.0 主任務:作戦 隧道竝ニ地下施設:居住、電信所、燃料庫、爆弾庫、倉庫、工業場、魚雷調整場 魚雷格納庫 掩体:中型有蓋24 小型有蓋39 分散隠蔽30 其ノ他記事:空爆ニ依リ建物一部焼却

松山空港:map  


      愛媛県・松山空港       

   ビュー:☆☆☆★★  
広々とした無料展望デッキ
フェンスは高いが、隙間が開いている

 

    施設:☆☆☆☆★  
レストラン、売店、お土産屋さん
一六タルト、栗タルトなど
ターミナル前に有料駐車場あり 

    マニア度:☆☆☆★★  
掩体壕 

    総合:☆☆☆★★  
市内に非常に近い空港
周辺には住宅が建ち並ぶ

松山空港 データ
設置管理者:国土交通省
3レター:MYJ
4レター:RJOM
空港種別:第拠点空港/国管理空港
運用時間:7:30~21:30
所在地:愛媛県松山市南吉田町
標 点:N33°49′26″E132°42′08″
標 高:4.0m
面 積:135ha
滑走路:2,500m×45m
磁方位:14/32
航空管制周波数
・飛行場管制 
 松山タワー 118.35 126.20
・進入・ターミナルレーダー管制
 岩国アプローチ 128.00
 岩国ディパーチャー 128.00
・航空路管制
 福岡コントロール(中国北セクター)132.50 132.90
 福岡コントロール(中国南セクター)126.10 132.90
・飛行場情報放送 
 松山ATIS 126.65

沿革
1943年10月 海軍松山航空基地完成
1945年08月 接収
1952年07月 接収解除
1960年10月 滑走路1,200m×30m供用開始
1972年04月 滑走路2,000m×45m供用開始
1991年12月 滑走路2,500m×45m、新ターミナルビル供用開始

関連サイト
松山空港     
えあぽネット/松山空港      
国土交通省大阪航空局/松山空港   
Wiki/松山空港    
ブログ内関連記事
  
(リンク先は、「旅行記」・「空港周辺の掩体壕その1」・「その2」の順です)


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豊栄飛行場 [├空港]

 2008年7月 訪問 

当記事は写真掲載とリンクについて、豊栄フライングクラブ様から快諾頂きました。
ありがとうございました。
  


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広島県東広島市にある「豊栄飛行場」。

山の頂上にあり、周囲も山に囲まれた飛行場です。

 

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残念! 

 

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来た道を引き返す。

トホホ。 

 

豊栄飛行場:map  


         広島県・豊栄飛行場         

国内で唯一のアスファルト滑走路をもつULP(Ultra Light Plane)専用飛行場。飛行の様子などサイトの写真を見ると、周囲は山に囲まれ、滑走路も山頂にあり、着陸の様子はまるで空母の着艦のように見える。山間部なので気流が乱れそうな気がするが、豊栄町は気流が非常に安定しており、たくさんの候補地の中から最適地として選ばれたらしい。 

豊栄飛行場 データ
設置管理者:豊栄フライングクラブ
所在地:広島県東広島市豊栄町清武
座 標:N34°37′30″E132°47′48″
標 高:600m
滑走路:200m×15m
磁方位:03/21
(座標はグーグルアースから算出)
追記:滑走路データ、フライングクラブ様からご連絡頂きました。ありがとうございました。

沿革
1992年06月 開港

関連サイト
豊栄フライングクラブ
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石見(萩・石見)空港 [├空港]

 2008年7月 訪問 

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島根県西側にある「石見空港」。

 

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ターミナルビル内

 

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ターミナルビル内

 

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展望デッキ入口から。 

 

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「いしみ」じゃなくて、「いわみ」! 

 

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展望デッキから見たR/W11方向。

隣接する公園の展望台でちょっと見切れますね。 

 

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同じく展望デッキから見たR/W29方向。

こちらはバッチリ。

 

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展望デッキ正面。

 

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公園展望台・1

ここはお勧めです。

 

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公園展望台・2

 

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公園展望台・3

 

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公園展望台・4

(これは1番機到着前に撮った写真です)

何度も往復してました。 

 

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公園展望台・5

 

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公園展望台・6

 

石見空港:map  


        島根県・石見空港(萩・石見空港)       

    ビュー:☆☆☆☆★  
展望デッキ無料
フェンス低く、見晴らし良い

    施設:☆☆☆☆★  
ターミナル前に無料駐車場あり
建物は明るくキレイ
売店あり。ふぐ、ヒコーキグッズ、各種お土産

    マニア度:☆☆☆☆★  
風の丘広場、眺め最高 

    総合:☆☆☆☆★  
山の中の小ぢんまりとした、よく手入れの行き届いたキレイな空港。

石見空港(萩・石見空港) データ
設置管理者:島根県
3レター:IWJ
4レター:RJOW
空港種別:地方管理空港
運用時間:8:00~19:30
所在地:島根県益田市内田町
標 点:N34°40′35″E131°47′25″
標 高:54.0m
面 積:111ha
滑走路:2,000m×45m
磁方位:11/29
航空管制周波数
・飛行場ドバイザリー
 石見レディオ 118.55 126.20
・航空路管制
 福岡コントロール(中国北セクター)132.50 132.90

沿革
1993年07月 供用開始
2002年03月 愛称「萩・石見空港」採用

関連サイト
萩・石見空港    
えあぽネット/石見空港      
国土交通省大阪航空局/石見空港   
Wiki/石見空港    
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広島空港 [├空港]

 2008年7月 訪問 

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ターミナル前の広場にある不思議な円柱。 

 

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ターミナル内部

 

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展望デッキ 

 

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県立中央森林公園の展望台。

 

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県立中央森林公園の滑走路前の広場。

 

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広島空港:map  


        広島県・広島空港        

    ビュー:☆☆☆☆★  
展望デッキ100円。フェンス低く、視界良好

    施設:☆☆☆☆★  
フードコート
お土産屋さん もみじ饅頭、空弁、軽食、ヒコーキグッズあり
ターミナル前に有料駐車場あり

    マニア度:☆☆☆☆★  
中央森林公園 

    総合:☆☆☆☆★  
山の上の空港 

広島空港データ
設置管理者:国土交通省
3レター:HIJ
4レター:RJOA
空港種別:拠点空港/国管理空港
運用時間:7:30~21:30
所在地:広島県三原市本郷町善入寺
標 点:N34°26′10″E132°55′10″
標 高:331.4m
面 積:198ha
滑走路:3,000m×60m
磁方位:10/28
航空管制周波数
・飛行場管制 
 広島タワー 118.60 126.20
・進入・ターミナルレーダー管制
 広島アプローチ 119.90 124.05 121.50
 広島ディパーチャー 119.90
・航空路管制
 福岡コントロール(中国北セクター)132.50 132.90
・飛行場情報放送 
 広島ATIS 127.25

沿革
1993年10月 供用開始(滑走路2,500m)
2001年01月 滑走路延長(3,000m)
      03月 ILS運用開始 
2008年06月 CAT-Ⅲa運用開始

関連サイト
広島空港     
広島空港ビルディング株式会社     
えあぽネット/広島空港      
国土交通省大阪航空局/広島空港   
Wiki/広島空港     
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岡山空港 [├空港]

 2008年7月 訪問 

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空港ターミナルビル前にはとても立派な庭園があって、

 

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だそうです。 

 

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国際線出発口

 

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国内線チェックインロビー

 

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展望デッキ

 

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覗き穴いろいろ

 

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二段抜き

 

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二段抜き上欠

 

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展望デッキから

 

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岡山空港はこの規模の空港としては珍しく駐車場が無料なのですが、

ターミナルビルに近い第一~第三までは小さくてすぐ満車になってしまいます。 

少し離れたところに大きな第四駐車場があり、これまた無料のシャトルバスが出ています。 

 

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第四駐車場から見た第三駐車場とエプロン。 

岩手の花巻空港っぽいです。

 

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第四駐車場の一角に設けられた見学席

 

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時刻表が掲示されています。

素晴らしい。 

 

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「見学席」から。

 

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着陸進入灯 

 

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空港に隣接する、「自然の森スポーツ広場」

 

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こちらにも時刻表が設置されてました。

 

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公園はR/W25エンド付近にあり、滑走路を見下ろせるようになっています。

 

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岡山空港:map  


          岡山県・岡山空港       

    ビュー:☆☆☆★★  
展望デッキ大人100円。
デッキは2つに分かれているが、一度お金を払うと自由に行き来できる。
デッキからの見晴らしは良いが、
高いフェンスに囲まれており、
穴が開いているが、大きなレンズは左右に振れない。

    施設:☆☆☆☆★  
展望レストラン、土産物屋、売店あり。
岡山の民芸品(備前焼など)、吉備団子、モモ、
軽食、空弁、ヒコーキグッズ充実
建物は古いが、分かりやすく、明るい
駐車場は無料  第四駐車場はシャトルバスあり

    マニア度:☆☆☆☆★  
第四駐車場見学席、スポーツ広場 

    総合:☆☆☆☆★  
山の上の空港。
利用者が快適に過ごせる工夫が随所に見られる。 

岡山空港 データ
設置管理者:岡山県
3レター:OKJ
4レター:RJOB
空港種別:地方管理空港
運用時間:7:00~21:30
所在地:岡山県岡山市日応寺
標 点:N34°45′25″E133°51′19″
標 高:239.2m
面 積:187ha
滑走路:3,000m×45m
磁方位:07/25
航空管制周波数
・飛行場管制 
 岡山タワー 124.30 126.20
・進入・ターミナルレーダー管制
 高松アプローチ 120.40 121.20
 高松ディパーチャー 120.40
・航空路管制
 東京コントロール(播磨セクター)132.70 124.95
・TCAアドバイザリー
 高松TCA 119.025

沿革
1988年03月 新岡山空港供用開始
1993年03月 滑走路延長(2,000m→2,500m) 
2001年10月 滑走路延長(2,500m→3,000m) 

関連サイト
岡山空港    
岡山空港ターミナル株式会社      
えあぽネット/岡山空港      
国土交通省大阪航空局/岡山空港   
Wiki/岡山空港    
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