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新田原飛行場 [├空港]

  2009年10月訪問、2017/8/26:更新  



無題1.png
1947年1月当時の写真(USA M25A-20 43)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成・2枚とも)


無題6.png SkyVector.com

宮崎県の航空自衛隊新田原基地。

2016年まで飛行教導群のいた基地です。

2017年現在、グーグルアースで使用している画像の取得日は2016/12/7で、

Wikiによれば、2016年6月10日 小松基地へ移転完了とあるのですが、

エプロンにはあの独特なカラーリングのF-15がズラリと駐機しています。

当基地は、かつて陸軍の「新田原飛行場」でした。

防衛研究所収蔵資料「第四十一航空地区飛行場記録 昭和二十年九月二十日(陸空-本土周辺-114)」

の中で、当飛行場についての記述がありましたので、引用させて頂きます。

判決 自重十五屯以下の飛行機の使用に適す
飛行地区
 滑走地区 一二〇〇x一〇〇 約二十糎のコンクリートマガダム舗装
 舗装路 七〇〇x五〇 約十糎のコンクリートマガダム舗装
 土質 粘質壊土
 地表面の状況 舗装路外は張芝にて地耐力可なるも既設陣地あり着陸困難なり
 周辺障碍物の有無 なし
付属地区
 誘導路 なし
 宿営 三角兵舎二十棟(五〇〇名収容可)但し八月二十六日暴風に依り大部破損す
 夜間着陸設備 なし
 動力線 なし
 電燈線 前頃兵舎に配線ありしも暴風に依り大部分切損す
 給水 井戸は十六を有するも冬期に於て水量少なり
其の他
主風向 西北風但し海陸風の影響大なり

付属地区の項目に、「誘導路 なし」とありますね。

オイラにはあるように見えるんですが、どういうことなのかしらん。

実は同資料では、終盤の頁で当飛行場の「要図」と「飛行場記録」がコンパクトにまとめられて再登場しているのですが、

両者には細かな差異があります。

以下異なっている箇所を列挙します。

・舗装路:「七〇〇x五〇 約十糎のコンクリートマガダム舗装」→「滑走路及誘導路「コンクリートマカダム」舗装」
・土質:「粘質壊土」→「粘土質壊土」
・給水:「水道なし」を追加

同資料内の要図によりますと、滑走路東端の更に東側部分に、

「此の付近転圧不十分 着陸不能」とありました(グーグルマップ赤マーカー)。

下の沿革にもまとめたんですが、陸軍飛行場は戦後一旦農地になり、その後再び飛行場に戻っています。

こういうケースもあるのですね。

旧軍用飛行場跡地に戦後再び飛行場を建設する場合、滑走路なりエプロンなり、

多少なりとも元の場所をそのまま使用するケースが多いのですが、

先頭のグーグルマップの通りで、ここは滑走路も誘導路、エプロンもほとんど使用していません。

芝張りならともかく、せっかく舗装した立派なものだったのに、これは珍しいです。

民間に払い下げられたのが1947年。

航空自衛隊の飛行場建設が決まったのが1957年で、飛行場が完成したのは翌年でした。

10余年の時を経て再び飛行場になるまでの間に、舗装がすっかり剥がされて、完全に農地に戻ったのかしらん。

なんて思っていたのですが。。。

無題7.png
1961/10/07(昭36) KU611YZ 1 6   

これは滑走路完成から3年後の写真です。

陸軍当時の滑走路、誘導、エプロンは残っており、その上に飛行場機能を新設したことが分かります。

てっきり陸軍当時の面影は消え去ったのかと思ったのですが、これはオイラの勘違いでした。

また、この記事内でこれまでずっと、「滑走路の向きは変わっていないっぽい」などと書いていたのですが、

これもオイラの先入観からくる勘違いでした(キレイさっぱり消し去った)m(_ _)m 

年代を追って当飛行場の様子を見ていくと、1990年代後半には旧滑走路等の痕跡はほぼ消えています。

それでも新設滑走路と誘導路に挟まれた部分には、一部ですが今でも旧滑走路面が斜めに残っています。

 

オイラの妄想話はここまでにして話は変わりますが、

ここには有蓋掩体壕が4基現存しています(上のグーグルマップの青マーカー)。

基地南側の外周道路からポコポコと見えます。

現存する掩体壕に西側から勝手に番号をつけました。順番にアップします。


1番目の掩体壕 

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開口部が北北東を向いており、外周道路から見るとほぼ正面に口を開けてます。

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ここの掩体壕、開口部がみんなきれいな弧を描いてました。

陸軍型ですね。

ご覧の通り前には広々とした草原が広がっており、ステージのような不思議な場所でした。

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内部の様子

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2番目の掩体壕

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東北東を向いている2番目の掩体。

1番目の掩体の場所から丸い背中が見えました。

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他の掩体が開口部に直接軽トラで乗り付けて荷物の積み下ろしができるのに対し、

この掩体だけは前が畑になっているのでオイラは近寄れませんでした。

畑に入ってしまわないように慎重に。

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奥に見えているのは1番目の掩体。


3番目の掩体壕

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外周道路から見たところ。

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東南東を向いている3番目の掩体

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ロールがいっぱい入ってました。

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4番目の掩体壕

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北北東を向いている4番目の掩体。

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こちらは柵が設けてあって内部に入れないようになってました。

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     宮崎県・新田原飛行場    

外周道路は狭く、車同士がすれ違うポイントが制限されてます。地元車はよく心得ていて、かなり手前で延々待っていてくれる場合があり、要注意でした。

新田原飛行場 データ
設置管理者:陸軍→防衛省
空港種別:軍用飛行場
所在地:宮崎県児湯郡新富町大字新田19581
4レター:RJFN
標 点:N32°05′01″E131°27′05″
標 高:79m
滑走路
 陸軍当時:1,200mx100m(11/29)
 現在:2,701mx46m(10/28)

沿革
1937年 春頃 飛行場建設が村に対して内々に打診される
1938年 04月22日県から村助役に対し、新田原一帯を陸軍飛行場とするため本年度から工事着手決定と伝えられる
      23日 地主会招集
      24日 新田原村長名で予定地の作付け中止通知依頼。
      憲兵分駐所長、特高主任出席の下第一回土地買収委員会開催
1939年 01月09日 宮崎県、第六師団経理部から整地工事の委託を受ける
      01月30日 県、正式受諾
      02月01日 着工
1940年 07月17日 熊谷陸軍飛行学校新田原分教場開設
      10月01日 大刀洗陸軍飛行学校新田原分教場となる
1945年 終戦
1947年 農林省に所管換え、開拓農地として民間に払い下げられる
1957年 航空自衛隊新田原基地開設が決定される
1958年 滑走路完成

関連サイト:
Wiki/新田原基地  
ブログ内関連記事      

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「第四十一航空地区飛行場記録 昭和二十年九月二十日(陸空-本土周辺-114)」


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富高飛行場跡地 [├空港]

 2009年10月 訪問 

無題acc.png

*資料:しらさぎ公園展示地図

飛行場跡地は道路が整備され、すっかり市街地へと変わりました。

整然とした道路が整備されていますが、滑走路の方向とは少しズレていますね。

協和病院から日向自動車学校にかけての周辺(A地点)の道路にかろうじて当時の滑走路方向の名残が残っています。

 

A: 協和病院

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協和病院玄関前の舗装面には一部色の異なる部分があります。

特攻基地滑走路跡(全文) 
ここ病院の敷地一帯は、太平洋戦争中には「富高海軍航空隊基地」とし特に戦争末期には第一線基地とし又特攻基地として重要な役目を果たしていました。この案内板の前にありますコンクリート部分は 当時の滑走路の一部でありまして、戦時中そのままのものであります。 現在の平和の前にはこのコンクリートの滑走路から特攻機が飛び立ったのです。恒久の平和を願う為にこの滑走路を保存するものです。

 

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1957年、当病院が開設される時、初代理事長の切望により残されたもので、

氏は中学時代に学徒勤労動員で本飛行場の拡張工事、掩体壕作りに参加しています。

病院は将来に渡って滑走路の原型を残したい考えなのだそうです。

 

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病院裏手(塩見川側)にある「神風特別攻撃隊出撃之地」の碑

当病院の所に戦闘指揮所があり、特攻に行くひとがあると黄色い旗が立ったのだそうです。

 

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碑の隣にある「爆弾ノ痕」 直径12m,深さ3m

艦載機の250キロ爆弾の跡ではないかとされているそうです。

 

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B:料金所前

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小倉ヶ浜有料道路 料金所前

 


C:小倉ヶ浜海岸

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料金所前から浜辺に出るとこんな場所。

真珠湾攻撃のために水平爆撃隊は鹿児島湾で、

そして急降下爆撃隊はここ小倉ヶ浜海岸の岩場を目標に猛訓練をしていたのだそうです。

ネット等では、「目標となった岩は小さくなってしまったがまだ残っている」と説明されていました。

多分この岩のことだと思うのですが。

 


D:しらさぎ公園

 

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しらさぎ公園にある「富高海軍航空隊跡地プロペラ展示施設」(全文)
この地は昭和4年(1929年)に富高飛行場として発足以来、終戦までは富高海軍航空隊基地として予科練、予備学生等、大空を夢見た若き搭乗員の高度な技術育成のため、通称「赤とんぼ」の中練機で日夜訓練を重ねたのである。またこの基地が開戦当初のハワイ真珠湾奇襲作戦の訓練基地であり、お倉ヶ浜沖の岩場が爆撃投下の攻撃目標として訓練され今ではその岩場も小さくなって残っている。更に神風特攻隊の出撃基地でもあり、多くの若者たちが祖国の勝利と安泰を信じて、ここから飛び立ち二度と帰ることはなかった。その跡地に海上自衛隊のご厚意により借用したプロペラを展示し、「富高海軍航空隊」の史実と世界恒久平和を後世に語り継ぐとともに、二度と戦争を起こさないことを誓うものである。
平成15年6月5日設置

展示物 KM-2型航空機用プロペラ
型式:HC-A3x20-1E
直径:90インチ(228.6cm)
重量:98ポンド(44.4kg)
底辺の長さ:198cm
高さ:171.5cm

この公園の場所が分からなくて、何人かの方にお聞きしたのですが「しらさぎ公園」という名称はあまり知られていないようで、

「プロペラが展示してある公園」とお聞きしたら一発で通じました。

 


E:掩体壕の一部

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掩体壕の一部と説明板

当飛行場の掩体壕はすべてなくなってしまい、現在ではこの掩体壕の一部分が僅かに残るのみだそうです。

「一部が残っている」 ということと、「往還の公民館の近く」ということしか分からず、随分探しました。

10人位の方にお聞きしたのですが、みなさん掩体壕はすべて消えてしまったと思っておられるようでした。

結局、往還の公民館北側の交差点で発見。見つけてみれば大きな交差点にあり、非常に目立ってます。

一番上の地図の緑丸は、消滅した掩体壕群の場所です。

 

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説明板にあった掩体壕の写真

防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:富高 建設ノ年:1940 飛行場 長x幅 米:1800x1000芝張ノ内700x60 600x60コンクリート 主要機隊数:小型練6.0 主任務:教育 隧道竝ニ地下施設:居住、指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、魚雷調整場、魚雷格納庫、工業場、倉庫 掩体:中型小型無蓋48

富高飛行場:map  


     宮崎県・富高飛行場跡地     

富高飛行場 データ
設置管理者:旧海軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:宮崎県日向市
座 標:N32°24′30″E131°38′03″
面 積:132.2ha
滑走路:700m×60m,600m×60m 「日本海軍航空史」(終戦時)より
方 位:18/36,17/35
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1929年 01月 町側のあっせんで海軍が三千町歩の用地買収の契約が整い、実地視察
      03月 下旬に用地買収終了
      04月 着工。砂地が多くしまりが悪いため、県庁のハンドローラー借り入れ
      06月 開場。常駐者のいない臨時の訓練飛行場となる
      07月 03日、冨髙飛行場に飛行機16機飛来
      飛行場用地ははじめ7万坪だったが、二回目の拡張工事で16万坪、三回目の拡張工事で約40万坪となる
1930年 陸海軍による演習が盛んに行われるようになる
1935年 最後の拡張工事終了
1941年 10,11月 真珠湾奇襲作戦の訓練が行われる
1944年 03月 冨髙上空で米艦載機と富高飛行場の零戦が空中戦
      当時当飛行場は築城航空隊富高分遣隊となっており、練習生300人、練習機は30機であった
      11月 冨髙海軍航空隊として独立。練習航空隊の指定を受け、陸上操縦教育を行う
1945年 02月 燃料、機材の不足から当飛行場での搭乗員教育が中止される
      03月 冨髙航空隊廃止。同航空隊から編成された特攻隊が岩国に移動。5月まで夜間体当たり訓練を実施
      04月 菊水一号作戦(特攻作戦)開始。冨髙は鹿屋への中継地となり若い特攻隊員が川辺で過ごす姿が見られる
          21,22日 B29による爆撃を受ける。格納庫をはじめ甚大な被害を受ける
      08月 終戦時、零戦20機残存

関連サイト:
国土地理院 1947年11月当時の写真(USA R169 57) (■→「同意する」→戻る→再度■をクリック)   
ブログ内関連記事    

この記事の資料:宮崎の戦争


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宇佐飛行場(宇佐海軍航空隊)跡地 [├空港]

 2009年10月、2016年5月 訪問 

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1947年4月当時の写真(USA M271 16) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)  

大分県宇佐市の日豊本線と宇佐市役所にはさまれたエリアにはかつて宇佐飛行場がありました。

周辺には掩体壕など様々な遺跡が残っています。

 

城井1号掩体壕
(以下、写真は2009年のものと2016年のものが混在しています。ご了承くださいませ。城井1号以外の掩体壕はすべて所有者、近隣の方から許可を得て撮影させて頂きました。快く許可下さった地元の皆様に心より感謝申し上げます。どうもありがとうございましたm(_ _)m )

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宇佐市指定史跡として整備されている「城井1号掩体壕 」。

周辺に案内標識もあり、探しやすいです。

ご覧の通り、駐車場、トイレ完備。奥に1号とは別の掩体壕も見えます。

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国東半島杵築沖で地引網にかかり引き上げられた零戦のエンジンとプロペラが展示されています。

この掩体壕は元々零戦用のものだったそうです。

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ぼろぼろのプロペラ

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天井アップ。かなり凸凹していて、足跡らしきものがいくつもありました。

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掩体壕の床面には、格納状態を示す零戦原寸大の線が引かれてました。

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全国から参集した154人の若者がここから沖縄の空に散っていきました。

154名の特攻隊員の氏名、出身地が刻まれています。

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特攻隊が飛び立っていくのを手を振って見送った人々をイメージして造られたモニュメントなのだそうです。

 

城井掩体壕群・2
(以下、「城井掩体壕群、畑田掩体壕群等、表記は、「宇佐市平和資料館」の資料に記載されているものを使用させていただきました。ただし末尾のアラビア数字はオイラが便宜上付けたものです。ご了承くださいませ)

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1号掩体のすぐ近くにあります。

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農機具置き場になってますね。

 

城井掩体壕群・3

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工場に隣接しており、パイプ?が掩体壕の中に入っていくという、独特の外観です。

 

城井掩体壕群・4

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1号掩体からそれほど離れておらず、周辺は車一台がやっと通れる道なので、徒歩がよいかもしれません。

1号掩体から南東方向を眺めると、ポコッと掩体の背中が見えます。

掩体入り口部分にひさしが設けられていて、カーポートになっています。

 

中型掩体壕

県道629号線 教覚寺入口の押しボタン式信号の交差点から北に200mちょっと行くと右手にあります。

周辺は田んぼが広がっていて見通しが非常に良く、見ないように努力しても絶対視界に入ってきます。

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開口部隣に民家があります。

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これでも「中型有蓋掩体壕」。デカイです。

宇佐に現存する10基の掩体壕の中では最も大きいです。

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畑田掩体壕群・1

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農機具置き場になっていますね。

 

畑田掩体壕群・2

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こちらも農機具置き場。

 

畑田掩体壕群・3

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畑田掩体壕群・4(未撮影)

この掩体壕は私有地内にあるのですが、オイラがお邪魔した時はお留守だったため、撮影していません。

(本当は位置確認のため遠くから撮ったけど)

 

畑田掩体壕群・5

DSC_0066.jpg


ということで、「城井掩体壕群」4基、「畑田掩体壕群」5基(1基は未撮影)、そして森山の「中型掩体壕」1基、

これが城井1号掩体壕の説明版にある「10基の掩体壕」と思います。

また、「宇佐市平和資料館」の資料によれば、森山の「中型掩体壕」の西北西約340mのところに、

「無蓋掩体壕跡」があります。

こちらは自宅に戻ってから気が付いたたため現地で確認していないのですが、

「多分コレ」と思う場所を上のグーグルマップにプロットしてあります。

 

平和への願い碑

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城井1号掩体から東約270mの所にある「平和への願い」碑。

碑の側面に「宇佐海軍航空隊滑走路跡」と記されていますね。

ここから真っ直ぐ北に伸びる「フラワーロード南北2号線」 が滑走路跡で、

特攻隊がここから飛び立ち、それを見送った場所には、

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こうしたモニュメントが580mに渡り、道路に沿って並んでいます。

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爆弾池 

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県道629号線沿いに標識があります。

標識に従い左右に広大な田んぼが広がる道を進みます。

県道から二つ目の高圧線鉄塔の手前の道を右折して少し進むと・・・

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こんな場所に出ます。奥に白い棒が見えますね。

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直径20m、深さ3mの池。

杭の片面にこんな説明が。
「この大きな穴は、米軍機から落とされた爆弾によりできたものです。水がたまることから爆弾池と呼ばれています。基地跡には、このような穴がたくさんあり、終戦後に元の水田に返されました。しかしこの穴だけは、「悲惨な戦争の想いを後世に語継ぐ」という所有者の強い思いから、その後の場整備事業でも埋められることなく残されています。」

方形の水田の角に丸い穴があるので、機械化農業には大変な支障だと思います。

毎年毎年手間を惜しまずに池を残し続けておられる農家の方には頭が下がります。

2016/7/23追記:当「爆弾池」には2009年にお邪魔したのみで、2016年には行っていないのですが、グーグルマップ(画像取得日:2015年12月)で確認すると、現在ここは史跡見学場として整備されているようです。

 

落下傘整備所

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県道629号線 爆弾池の標識からさらに東に進むと、こんな標識があります。

ところがここから先の案内がないんですよ。

結局二つしか見つけられず・・・。

見取り図を作ったのですが、自宅で地図とつき合わせてみたらうまく照合できませんでした。

混乱の元なので地図の掲載はやめておきます。

 

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多分これが「通信室」ではないかと。

 

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案内板で「レンガ建物」として示されている「落下傘整備所」。

住宅密集地にあり、壁には生々しい機銃掃射の跡が残っています。

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機銃掃射跡の残る壁

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柳ヶ浦小学校の低いコンクリート製の壁に幾つも弾痕が残っています。

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正門の標柱

弾痕跡からほんの40m先にあります。

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宇佐海軍航空隊の隊門。

浄化槽の埋設工事の際、当時隊門があった付近で掘り当てられたのだそうです。

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小学校では子供たちの元気な声が響いてました。

防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:宇佐 建設ノ年:1940 飛行場 長x幅 米:1300x1300芝張ノ内1800x80コンクリート 主要機隊数:小型5.5 主任務:教育作戦 隧道竝ニ地下施設:居住(3000平米)指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、工業場、倉庫、魚雷調整場 魚雷格納庫 掩体:中型有蓋1 中型無蓋41 小型有蓋5 小型隠蔽30 其ノ他記事:桜花格納隧道10機分 同切込掩体33機分


     大分県・宇佐飛行場跡地    

宇佐飛行場 データ
設置管理者:旧海軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:大分県宇佐市柳ヶ浦 他
座 標:N33°32′55″E131°20′34″
面 積:150ha
滑走路:(開隊時)1,150mx30m  (終戦時)1,800mx80m
方 位:18/36
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1939年10月01日 艦上爆撃機、艦上攻撃機の練習航空隊として宇佐郡柳ヶ浦村(現大分県宇佐市)に開隊
1941年10月07日 真珠湾攻撃に参加する空母「翔鶴」、「瑞鶴」の艦上攻撃隊が宇佐で訓練開始
     12月08日 日米開戦
     12月28日 真珠湾攻撃に参加した飛行隊が宇佐に帰隊
1943年07月09日 一般人、学徒の勤労奉仕隊により無蓋掩体壕作り始まる
1945年01月 初旬、有蓋掩体壕づくりが始まる
     02月11日 赤江基地(現・宮崎空港)より、雷神部隊(「桜花」による特攻隊) が約30機の「一式陸攻」で移動してくる
     02月16日 練習連合航空隊司令長官より、110名の特攻訓練命令
     03月01日 宇佐航空隊が作戦部隊になる
     03月18日 艦載機による初空襲。死者14名
     04月01日 宇佐航空隊の保有機157機、隊員2,486名
     04月06日 第1八幡護皇隊艦爆隊・艦攻隊が沖縄方面へ特攻出撃。以降5月11日まで81機、154名が戦死
     04月21日 B-29による空襲、壊滅的被害。死者320名。以降、4/26 5/7,10,14 8/8にも空襲
     05月05日 宇佐航空隊解隊 西海海軍航空隊宇佐基地となる(残存機26) 
     05月07日 八面山上空にて小月基地の陸軍機がB29に体当たりして撃墜する。捕虜2名を宇佐基地に連行
     08月08日 空襲により航空隊周辺の畑田・江須賀地区などが大きな被害を受ける
     08月15日 終戦。戦後は水田、住宅地が広がる

関連サイト:
大分県/城井一号掩体壕  
Wiki/宇佐海軍航空隊  
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航空自衛隊築城飛行場(旧海軍築城飛行場) [├空港]

 2009年10月 訪問 

福岡県の旧海軍築城(ついき)飛行場は、現在航空自衛隊築城基地になっています。

基地の北側には掩体壕が数基現存しているということでお邪魔しました。

 

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県道25号沿いに遺跡見学者用の駐車場がありました。

 

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(上が北です)

現存する有蓋掩体壕:3 無蓋掩体壕:7  
消滅・半壊した有蓋掩体壕:5 無蓋掩体壕:12

かなり残ってますね。

それらが誘導路で結ばれ、南側の基地につながっています。

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掩体壕以外にも施設、弾痕跡など残ってますね。

 

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遺跡見学者の駐車場から東に新しい立派な道路が延びていて、その先左側にすぐ現れるのがこの

「稲童1号掩体壕」です。

地図上できちんと名前が付けられているのはこの1号掩体だけ。

 

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地図上には、この「稲童1号掩体」の北東に更に2つ、有蓋掩体壕が現存すると明記されています。

実際に行ってみようと道を進むと「野犬注意」の看板が現れ、そして本当に2匹の犬がけたたましく吠えながら走ってきました。

目の前には掩体壕が。

こっちは車なので、犬に構わず車内から撮ることはできるのですが、

ここは私有地なので撮影許可が必要です。

すんごい吼えてる犬でも大丈夫な犬は大丈夫ですが、この犬は目つきがヤバイので撮影は諦めて引き返しました。とほほ。

*オイラが撮影し損ねた掩体壕、これ以外の掩体壕については、所有者の許可を得て撮影したサイトがいくつかあり、

閲覧することができます。興味のある方は「稲童掩体壕」などで検索してみてください。

防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:築城 建設ノ年:1941 飛行場 長x幅 米:1400x1200芝張ノ内1800x40コンクリート 主要機隊数:小型9.0 主任務:教育作戦 隧道竝ニ地下施設:居住(3750平米)、指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、魚雷調整場 魚雷格納庫、倉庫、工業場 掩体:中型有蓋4 中型無蓋20 小型有蓋8 小型無蓋20 小型隠蔽170 其ノ他記事:建物空爆ニ依リ焼失
 

築城基地:map 


    福岡県・築城飛行場    

築城飛行場(現航空自衛隊築城基地) データ
設置管理者:旧海軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:福岡県行橋市、築城町、椎田町
標 点:N33°41′02″E131°02′23″
面 積:145ha
座 標:17m
滑走路:1,800m×60m 「日本海軍航空史」(終戦時)より
方 位:07/25
(座標はグーグルアースから)

沿革
1939年 春 海軍が飛行場建設計画の通知を八田村役場に提出
      12月 飛行場建設開始
1943年 宮崎県富島町から築城へ初代築城海軍航空隊が移転
      12月 零戦訓練開始
1944年 02月 553航空隊と改称され北海道美幌に転出
      03月 築波海軍航空隊が移駐し第二代築城海軍航空隊 開隊
      08月 基地周辺に掩体壕が築造される
1945年 02月 特攻隊編成される
      08月7日 米軍、稲童地区を空襲。特に稲童出屋地区、被害大
      09月2日 築城海軍航空隊、廃止となる。接収

(説明板より)
「築城海軍航空隊」は、昭和17年10月に宮崎県富高町(現・日向市)に練習航空隊として開隊し、昭和18年6月に築城に移転しました。米軍の空襲が激化した太平洋戦争末期には、特別攻撃隊(特攻隊)の出撃基地にもなり、多くの兵士が飛び立って行きました。現在、飛行場は、行橋市、築城町、椎田町にまたがり、「航空自衛隊築城基地」として利用されています。

関連サイト:
Wiki/築城基地 
ブログ内関連記事   

この記事の資料:
現地の説明板


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ロタコ(御勅使川飛行場)跡地 [├空港]

 2009年10月 訪問 

ロタコ.png

「ロタコ」周辺図

終戦直前、東京の立川航空廠の機能を分散する目的で甲府盆地の西部、御勅使川扇状地に秘匿飛行場が計画されました。

飛行場の名称を「ロタコ」と言います。

なんとも変った名称ですが、「ロタコ」の「ロ」は、「イロハのロ」で「第2」を表し、「タ」は「立川」、「コ」は「航空廠」を

それぞれ表すとされています。

「ロタコ」→「第2立川航空廠」ということですね。

戦時中の文書では地名から「御勅使川原(みだいがわら)飛行場」 などの呼称で記載されているそうです。

 

D20_0040.jpg

A地点

この飛行場跡地には掩体壕の基礎が3つ残ってまして、これは1,2号掩体のどちらかの基礎部分です(この奥にもう1つありました)

 

D20_0042.jpg

以下B地点

3号掩体基礎

 

D20_0046.jpg


 

D20_0050.jpg

手前に基礎が少し見えてますが、ここから奥のブロック塀にかけて掩体壕があったと思われます。

資料によりますと、掩体壕は3つとも開口部を滑走路の逆側に設けていたようです。

 

D20_0055.jpg

C地点:誘導路跡の道路

ゆるやかに右に曲がった先に滑走路があったハズです。

 

D20_0061.jpg

D地点

恐らくこの方向に滑走路が伸びていたと思うのですが・・・

 

D20_0062.jpg

D地点 

左側は果樹園です。

 

D20_0065.jpg

E地点

滑走路北端と思われる部分

ここから真っすぐ滑走路が伸びていたはずです。

 

ロタコ飛行場:map  


     山梨県・ロタコ(御勅使川飛行場)跡地     

秘匿飛行場というその性格からか、滑走路や飛行機を隠した掩体壕 、誘導路、地下壕、兵舎、航空本部などロタコを構成する諸施設は、3キロ四方の広範囲に分散して配置され、扇状地や西に接する山地の山裾に点在していました。

ロタコ飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:山梨県南アルプス市有野、飯野
座 標:N35°39′19″E138°27′10″
面 積:800ha
滑走路:1,500m×100m
磁方位:17/35
*座標、磁方位はグーグルアースにて算出

沿革
1944年 秋頃 工事が一部始まる
1945年 03月地域住民を総動員して工事本格化する。工事は終戦の日まで続けられた 
2005年 南アルプス市教育委員会による発掘調査、聞き取り調査実施

この記事の資料:
国土地理院 1947年11月当時の写真(USA  ) (■→「同意する」→戻る→再度■をクリック)   
山梨県南アルプス市/ロタコ(御勅使河原飛行場跡)pdf    


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静岡空港(富士山静岡空港) [├空港]

 2009年10月 訪問 

D20_0196.jpg

2009年6月4日に開港した静岡空港に行ってきました。

東名道の島田ICから15分ほどで到着。

尚、島田ICから静岡空港への分かり易い行き方ですが、

空港まで標識が出てますので、それに従って右に曲がったり左に曲がったりするとよいです。
(役に立たない情報)

 

D20_0198.jpg

空港周辺には茶畑が広がってます。

オイラは一応狭山茶の地元民なのですが、この規模の大きさ、空港の斜面に作られた段々畑の美しさはすごいです。

 

実は静岡空港には2007年12月にも行ってまして、

当時はターミナル周辺は当然工事中で近寄れず、展望台から眺めたのでした(下記リンク参照)。

その時利用した「石雲院展望台」が現在も利用可だったので、まずはココから眺めてみることに。

 

11534320.jpg

これは2007年12月の建物建設現場

試験飛行を早く始めるため、管制塔を優先して作ってました。

 

D20_0013.jpg

現在はこんな。

 

11534328.jpg

2007年12月のエプロン周辺の様子

 

D20_0014.jpg

現在はこんな。

ちなみにこの時は朝の7時台で、3機のヒコーキが出発準備をしてました。

 

D20_0003.jpg

出発準備中~

 

11534336.jpg

2007年12月の管制塔アップ

 

D20_0005.jpg

現在はこんな。

ショボイ写真なので小さいです^^;

 

D20_0008.jpg

同じく展望台から

なんか霞んでるのか、山肌がよく見えません。

この後ターミナルに移動したら、すっかり雲の中に隠れてしまいました。

 

D20_0016.jpg

ターミナルに移動しました。

 

D20_0017.jpg

駐車場は無料です。

P1~P5まであってすごく広々してます。

車中泊してる車もチラホラ。

駐車場隣にセルフSSもあります。

 

D20_0180.jpg

展望デッキも無料

 

D20_0029.jpg

デッキの隅っこからみるとこんな。

入口は写真奥にあります。

 

D20_0177.jpg

入口付近は高い透明の壁

 

D20_0033.jpg

それ以外も高いフェンス

これは造園業者が使うような脚立でないとクリアできませんね。

 

D20_0026.jpg

そしてこのフェンス、残念ながら覗き穴が付いてません。

オイラが切って差し上げたいです(;´Д⊂)
2010/01/21追記:通りすがりの者さんから情報いただきました。覗き穴あるそうです。オイラは発見できなかったのですが、行かれる方は穴を探してみてくださいm(_ _)m
2010/05/27さらに追記:覗き窓は後から設けたのだそうです。

で、このフェンス越しにスポットにいるヒコーキを撮ると・・・ 

 

D20_0024.jpg

こうなります。。。(;´Д⊂)

 

D20_0022.jpg

デッキにはこんな立派な説明写真と時刻表が。

JAL・・・。

 

D20_0037.jpg

さて。静岡空港出発1番機は8:35発なのですが、ここから40分、45分と、5分ごとに続けて3機離陸します。

まずは1番機 FDA101便小松行きが定刻より2分早く動き始めました。

 

D20_0047.jpg

JA01FJ 

FDAが最初に受領した機体です。

 

D20_0062.jpg

滑走路上にて離陸直前の101便。

吹流し、ずっとこういう向きでした。

「離陸、着陸は風に向かって」が原則なのですが、

エプロンを出て左折すると、すぐエンドなのです。

この程度なら構わず追い風で離陸なのですね~。

 

D20_0082.jpg

 

D20_0083.jpg

ヒコーキがフェンスをクリアする頃には、300mmではこんな風になってしまいます(´;ω;`)ブワッ

 

D20_0090.jpg

本当はJALが2番機のはずなのですが、「2名様搭乗待ち」とのことで、

FDA111便熊本行きが先にプッシュバック開始

JA02FJ FDA2号機です。 

FDAでは1機ごとにボディーカラーを変えることにしているのですが、この2号機については

公式サイトで人気投票を行い、この「ライトブルー」に決定したのだそうです。

 

D20_0101.jpg

ワンテンポ遅れてJAL機も動き始めました。

定刻より8分遅れ。

 

D20_0113.jpg

こんな風景ももうすぐ見られなくなってしまうのですねぇ。

 

D20_0117.jpg

さっきの赤いヒコーキはエンドまで移動して離陸したのですが、

この青いヒコーキは滑走路に進入後右折して・・・

 

D20_0138.jpg

そのまま飛んで行きました。

手前の黒っぽいフェンスに人がいるのが見えますでしょうか。

さっきまでオイラがいた「石雲院展望台」です。

展望デッキの撮影だとフェンス越しになってしまうため、本当はオイラもアッチに移動したかったのですが、

10分間の間に3機まとめて飛んでいってしまうため、気がついた時にはちゃんかちゃんかちゃん。

なのでした。

 

D20_0139.jpg

MD機はさすがにエンドまで移動してから離陸しました。

JAL3810便 福岡行き

 

D20_0168.jpg

 

D20_0181.jpg

展望デッキ手前はこんな。

なんだか楽しげな雰囲気です。

 

D20_0182.jpg

 

D20_0195.jpg

ターミナルの隣、P5の奥に展望広場があります。

 

D20_0192.jpg

エンドが目の前。

さっきの赤いヒコーキとJAL機はここでぐーっと向きを変えて飛んでったんですね。

今日みたいな滑走路の使い方なら、着陸はここから撮るとよさそうですね。

 

D20_0184.jpg

エプロンがバッチリ見えますね。

ちなみに管制塔奥のこんもりしたところが「石雲院展望台」です。

 

静岡空港:map  


    静岡県・静岡空港(富士山静岡空港)     

  ビュー:☆☆★★★   
3Fに広い無料展望デッキあり
フェンス高く、覗き穴あり
展示品、双眼鏡等特になし

  施設:☆☆☆☆☆   
ターミナル前に無料駐車場あり
スタッフさんとても親切でした
建物は明るくキレイ
レストランあり。売店充実
空弁、空港限定スイーツ、うなぎパイ、お茶、ワサビ等
ヒコーキストラップ、プラモも多数
盲導犬用トイレ設置。詳しくは馬さしさんのブログをご覧くださいませ(下記リンク参照)

  マニア度:☆☆☆★★   
展望広場、展望台、富士山、安全わらじ

  総合:☆☆☆★★    
他サイトなど見ても、富士山がよく見える日は限られているらしい
非常に厳しい情況での開港だが、できたからには頑張って欲しい
展望デッキ等今後に期待

 

富士山静岡空港データ 
設置管理者:静岡県
3レター:FSZ
4レター:RJNS
空港種別:地方管理空港
所在地:静岡県牧之原市・島田市
標 点:N34°47′46″E138°11′22″ 
面 積:190ha
滑走路:2,500mx60m
着陸帯:2,620mx300m
磁方位:11/29
エプロン(バース数):大型ジェット用2、中型ジェット用1、小型ジェット用2
運用時間:8:30~20:00
標高:132m(433ft)
概算事業費:空港本体約490億・全体事業費約1,900億円
駐車場:ターミナル前に2,000台分の無料駐車場
ターミナルビルコンセプトの中に、「富士山を眺望できること」が含まれている。

沿革
1987年 空港建設予定地決定
1996年 運輸省、静岡空港設置許可 用地買収開始
1998年 本体盛土工事開始
2007年 用地取得完了
2009年 01月試験飛行開始
2009年 06月04日 開港(立木問題のため、2,200mにて暫定運用)
2009年 07月23日 FDA初就航
2009年 08月27日 滑走路完全運用開始(2,500m)

関連サイト:
富士山静岡空港     
えあぽネット/静岡空港     
国土交通省東京航空局/静岡空港   
Wiki/静岡空港   
盲導犬用トイレ設置についての馬さしさんの記事     
ブログ内関連記事


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花巻(いわて花巻)空港・新ターミナル [├空港]

 2009年9月 訪問 

花巻空港は2009年4月9日に新ターミナルがオープンしました。

遅ればせながら、それから5か月後に見に行ったのでした。

新ターミナル北側から反時計回りで見てきました。

 

D20_0044.jpg

RWY20エンド

エアバンドレシーバーでタイミングを計れば迫力のある画が撮れそうです。

 

D20_0047.jpg

RWY20エンド西側にある「ふれあい広場」

 

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ターニングパッドがすぐ側に見えてますので、じっくり撮るならここからが良さそうです。

 

D20_0059.jpg

「ふれあい広場」から滑走路に沿って遊歩道が整備されてます。

駐車場付き。

 

D20_0061.jpg

旧ターミナル

もう取り壊しちゃっただろうか。などと心配してたのですがちゃんと残ってました。

中を覗いてみたのですが、無人でした(当たり前)。

ターミナル前の駐車場はスペースが非常に狭くて、一般車両の駐車はできなかったのですが、

今回はここに停めさせていただきました。

 

D20_0060.jpg

旧ターミナル前のエプロン。

旅客機は新ターミナルに移りましたが、管制塔はこちら側ですし、旧のエリアは完全閉鎖ではないみたいです。

 

D20_0070.jpg

RWY02エンドにやってきました。

東側に公園が整備されてます。

 

D20_0072.jpg

青い線が3本引かれてますが、これはある動物の足です。

滑走路面が目線より遥かに高くて、こちらの公園は緩衝地帯の意味合いが強いと思いました。

RWY02エンド周辺あちこちうろついたのですが、撮影には反対側のRWY20エンドの「ふれあい広場」が適しているようです。

 

10139423.jpg

これは2年前に撮った新ターミナル入口

 

D20_0076.jpg

こちらが今回撮った写真。

 

D20_0077.jpg

 

D20_0075.jpg

ターミナルに入るとすごく目に付く建物。

この周辺は「花巻流通団地」の広大な区画がありました。

まだまだガラガラでしたけど。

 

D20_0078.jpg

花巻空港旧ターミナルは国道4号のすぐ隣にあったわけですが、国道とターミナルがあまりに近すぎて、

ターミナル前に一般駐車場スペースを確保できず、ターミナル南側の駐車場までゾロゾロ歩いて移動しなければなりませんでした。

雪や風の強い日は大変だったと思います。

新ターミナルは国道から滑走路の向こう側に渡らねばならないのですが、

ターミナル前に広大な無料駐車場を設けることができました。

 

D20_0079.jpg

ターミナル横から。

横着しないで望遠で撮ればヨカッタ・・・。

 

D20_0175.jpg

駐車場からターミナルに向かう横断歩道の先にはアレがありました。

 

D20_0083.jpg

数奇な運命を辿った零戦のプロペラ

旧ターミナルでは展望デッキに展示されていましたが、

新ターミナルでは一番目立つ場所に設置されてます。

 

D20_0082.jpg

 

D20_0084.jpg

ターミナル内部は当たり前ですがキレイで明るかったです。

 

D20_0085.jpgD20_0086.jpg

D20_0087.jpg

展望デッキに向かう階段の踊場にはこんなものが飾られてました。

 

D20_0172.jpgD20_0174.jpg

知らず知らずのうちにJAL好きになってしまうようにアチコチにサブリミナル効果を狙った装置が巧妙に配置されてました。

 

D20_0173.jpg

展望デッキ無料!

と、ココまでは非常に良かったのですが・・・

 

D20_0090.jpg

非常に高いフェンスが設置されました。

 

D20_0091.jpg

一応この穴と、

 

D20_0092.jpg

アクリル?の板から眺められるようになってます。

 

D20_0094.jpg

 

D20_0095.jpg

RWY20側はこんな。

完全にフェンスがかかってしまいます。

(RWY02側は撮りませんでした。すいません)

 

D20_0098.jpg

旧ターミナルでもあった宮沢賢治の世界が展望デッキに再現されてました。

手前は木製スロープ。

 

D20_0102.jpg

滑走路をはさんで向かい側に見える旧ターミナル。

こうして見るとなんかとても立派ですね。

旧ターミナル展望デッキから滑走路、ヒコーキを撮ると、背景の山並がとても美しいのですが、

新ターミナルから見る逆側も山が見えますね。

冬季は雪化粧してキレイに見えるんでしょうか。

 

D20_0105.jpg

 

D20_0118.jpg

 

D20_0129.jpg

 

D20_0132.jpg

9:45

タキシングを始めたJAL機だったのですが、この場所で動かなくなりました。

なぜかと言いますと・・・

 

D20_0139.jpg

9:47

着陸機を待っていたのでした。

花巻には平行誘導路がないためこうなるのです。

着陸機が通過後、離陸機は滑走路上に入って左折。エンドまで移動開始。

新ターミナルはRWY02エンドに結構近いです。

そのため、左折した離陸機はすぐにRWY02エンドに到達して向きを変え、離陸の体勢を整えることができるのですが、

着陸機が反対側のRWY20エンドまで行ってターニングパッドで向きを変え、エプロンまで戻ってくるのをずっと待っていなければなりません。

 

D20_0154.jpg

9:51

着陸機が戻ってきました。

離陸機がここで一時停止してから既に6分経過してます。

滑走路からどいて、これでやっと離陸機が滑走開始です。

 

D20_0162.jpg

9:51

 

D20_0170.jpg

9:52

フェンスやらなにやらでとっても残念な写真になってしまいました(泣)。

「ふれあい広場」からだといい写真が撮れるんでしょうね~(遅)。

 

D20_0035.jpg

D20_0037.jpg

ということで、現在平行誘導路の工事をしています。

総延長3,455mで、2011年度完成予定だそうです。

誘導路沿いに一般道があります。ここも撮影ポイントになるかしらん。

 

おまけ

岩手.png

部分、2,000m時代のターニングパッドの名残だそうです^^(情報:takkunさん。詳しくはコメント欄をご覧くださいませ。)

 

花巻空港:map  


       岩手県・花巻空港(いわて花巻空港)      

    ビュー:☆☆☆★★  
広々とした展望デッキ 無料
旧ターミナルで展示されていたエンジン、ローターブレード等はなし

    施設:☆☆☆☆☆  
売店はお土産類、飛行機関係品、特産品(牛タンなど)が充実している。空港限定スイーツあり
レストラン、軽食あり
ターミナル前に1,150台分の無料駐車場

    マニア度:☆☆☆★★  
零戦のプロペラ
RWY20「ふれあい広場」

    総合:☆☆☆☆★  
滑走路東側に旅客ターミナルが移動して大きく生まれ変わった
周辺はのんびりとした場所
新ターミナルでも「~イーハトーブの風にのって~」をキャッチコピーにしており、
空港のイメージキャラクター「はなっぴー」など、郷土色を出しながら愛される空港作りをしていることが感じられる
空港名を伏せると、一体ドコの空港が分からなくなってしまいそうな空港も多いが、ここは「岩手県に来たなぁ」と実感させてくれる

 

花巻空港 データ
設置管理者:岩手県
3レター:HNA
4レター:RJSI
空港種別:地方管理空港
運用時間:8:00~19:30
所在地:岩手県花巻市葛地内
標 点:N39°25′43″E141°08′07″
標 高:89.7m
面 積:170ha
滑走路:2,500m×45m
磁方位:02/20
航空管制周波数
・飛行場アドバイザリー
  花巻レディオ 118.20 126.20
・航空路管制
 東京コントロール(東北セクター)118.90 135.90

沿革
1964年04月 供用開始(滑走路1,200m)
1983年03月 滑走路延長2,000m
1988年03月 東北新幹線開業
1997年03月 秋田新幹線開業
2005年03月 滑走路延長2,500m
2009年04月 新ターミナルオープン

関連サイト:
岩手花巻空港ターミナルビル株式会社    
えあぽネット/花巻空港  
国土交通省東京航空局/花巻空港   
Wikipedia/花巻空港     
ブログ内関連記事:
旧ターミナル当時       
新ターミナル建設当時
    

 

D20_0068.jpg

(おまけ)公園のナゾの足の正体は、「みみずく」くんでした。


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六郷(明田地)飛行場跡地 [├空港]

 2009年9月 訪問 

無題5.png
1948年5月当時の写真(USA R270 120) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


位置情報は地元美郷町立美郷中学校様サイトから頂きました(下記リンク参照)。

D20_0118.jpg

秋田県「六郷飛行場」のあった「六郷明天地野(ろくごうみょうてんちの)」

現在は美しい水田が広がっています。

2017/1/15追記:美郷町民さんから情報頂きました。地元では「明田地(みょうでんじ)飛行場」と呼ばれていたようです。

地元中学で当飛行場について調査したサイトのリンクを貼って頂きました。美郷町民さんありがとうございましたm(_ _)m

話は「佐藤章(元要蔵)」という人物から始まります。

彼は秋田県仙北郡仙南村の出身で、民間飛行家の草分的存在であり、郷土の英雄でした。

「郷土訪問飛行がしたい」という当人の希望で選ばれたのが、

出身地のすぐ東隣にある六郷町の明天地野という原野でした。

「郷土訪問飛行」は1919年11月9日に行われました。

当時彼は群馬県の中島飛行機の社員だったのですが、

直接飛行機で乗り付けたのではなく、機体は貨車で最寄の飯詰駅に送られました。

中島式四型を使用しての訪問飛行にはなんと6万人の観衆が詰め掛けたのだそうです。

 

2年後、再び郷土飛行を行う予定だったのですが、同年彼は飛行機事故で命を落としてしまいます。

そして佐藤飛行士が搭乗予定だった飛行機は、別のパイロットによって1924年に明天地野に飛来しました。

後援会、秋田県民の支援で製作されたこの「秋田号」はその後陸軍に寄附されたのでした。

こうして中央航空界との縁ができ、数名の飛行士が飛来しました。

 

佐藤飛行士が明天地野に降り立ってから26年後の1945年5月、

軍命でこの明天地野に飛行場の造成が始まりました。

佐藤飛行士が離着陸で使用したすぐ東側に位置する2,000mの滑走路で、

整地して野芝を敷いただけの簡単なものでした。

滑走路の予定地にかかり、移転させられた屋敷もありました。

また飛行場跡近くには、「飛行機離着陸の支障」を理由に途中で切られてしまった松が今も残っています。

切られて以来、枝は横に広がるだけなのだそうです。

整地作業には地元だけでなく、仙北郡内から多くの児童生徒が駆り出されました。

動員されたのは4年生以上で、毎日のように作業し、大八車で芝運びをしたこともあったのだそうです。

現在の大曲高校の女生徒たちは、大曲から徒歩で鍬を担いで来て、石を拾い、地ならしする作業をしたのだそうです。

 

作業中の7月25日、飛行機が数機飛来し旋回するので手を振って迎えたところ、なんとそれは米軍の戦闘機で

機銃掃射を浴びせてきたため慌てて林の中に隠れて命拾いをするという出来事もあったのだそうです。

多大の労力を費やした飛行場でしたが、結局ここから日本軍機が飛び立つことはありませんでした。

戦後の開拓で滑走路を含む一帯はすべて水田に姿を変え、当時の面影は何も残っていません。


    秋田県・六郷(明田地)飛行場跡地   

六郷(明田地)飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:秋田県仙北郡美郷町六郷明天地野
座 標:N39°24′14″E140°34′46″
滑走路:2,000m×200m(1,500mx200mという資料あり)
磁方位:02/20
*座標、磁方位はグーグルアースにて算出

沿革
1945年05月 飛行場の造成始まる
     06月 下旬 ほぼ完成
         戦後進駐軍機飛来。 その後は開拓地に

関連サイト: 
美郷町立美郷中学校/旧陸軍六郷飛行場  
六郷飛行場 六郷に飛行場を造ることになったいきさつ等記されています。

この記事の資料:
六郷町史
秋田魁新報


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升形飛行場(滑空場)跡地 [├空港]

 2009年9月 訪問   2012年9月 再訪問 

2012/09/09追記:hatoyaさんから情報頂き、場所特定できました。hatoyaさんありがとうございましたm(_ _)m

 

「近代戦は最終的には航空機による戦闘が勝敗の帰趨を決する」との認識から

滑空訓練の重要性が重視されるようになり、

ここ新庄に滑空場を設置しようという試みは、昭和17年に入って具体化しました。

最初の滑空場候補地は「東山」という所で、同年7月に大日本飛行協会が実地調査を行いました。

そして当地に東北一の滑空場建設を目指したのですが、

用地内に広い水田、畑が含まれており、「食糧増産を急務とする時局に合致しない」ということで実現しませんでした。

 

滑空場設置と平行して滑空指導者の人材育成も行っており、

操縦課・製造課の科目については、滋賀県と大阪府に代表者を派遣して受講させています。

また同じく昭和17年、新庄の中学校では滑空訓練が正科となり、

新荘中学校での盛んな滑空訓練はしばしば紙上で報道されたのでした。

 

そして翌昭和18年5月、次なる滑空場候補地である最上郡八向村升形地内に大日本飛行協会の現地調査が入りました。

同地は30万坪の痩地のため当時は荒地となっており、滑空場用地として好条件であるとされました。

こうして升形が滑空場用地と決定し、建設計画が動き出したのでした。

昭和18年7月11日 起工式

郡内中学校、青年学校生徒15,000名の勤労奉仕と地元八向村森林組合総動員の応援を見込み、着工しました。

30万坪のうち、10万坪の整地と格納庫、宿舎を8月末までに竣工、9月初旬開場の予定で作業が進められました。

昭和18年9月20日 滑空大会と開所式を兼ねた式典が山形県知事代理臨席の下盛大に挙行されました。

第一期工事として郡内の学徒延べ3万人、地元升形集落民150余名の勤労奉仕作業によって完成したのでした。

用地が決定してからは人海戦術による突貫工事で一気に出来上がったのですね。

当時の様子は地元紙で報じられているのですが、 面積、経費、棟数、収容人数については機密として伏字になっています。

 

ところで。

パイロット養成が非常に重要というのは理解できるとして、

そのために「グライダー訓練」に力を入れるというのがイマイチピンとこなかったのですが、

市史の中にこんな一節がありました。

「滑空場建設の目的は優秀な飛行機搭乗員の養成にあった。軍と大日本飛行協会が一体になって、搭乗員になるための基礎訓練を行い、陸軍特別幹部候補生または海軍予科練習生に進ませることであった。そのため19年度は約千人を目標に、米沢八幡原、新庄升形、酒田の三訓練所で滑空猛訓練と航空兵志願者に必須な学科の学習が、朝五時起床の厳しい日課の中で行われた。」

現代の純粋なグライダー訓練とは異なり、最初から軍用機の搭乗員たる軍人育成を目的とした実技と学科だったわけですね。

 

新庄市の市史で升形滑空場は「最上滑空場」とも表記されており、

開所式後も学徒団体の勤労作業で拡張工事を継続しています。

昭和20年6月26日の山形新聞に、第二回戦時青少年滑空訓練生の入所式は24日午後2時から行われたこと、

今回の入所の130名は向こう1ヵ月間訓練を受けることになることなど書かれていました。

終戦ギリギリまでこのようなことが行われていたのですね。。。

 

また、新庄市史第五巻の中で8月10日の空襲について触れ、

升形滑空場は神町飛行場(現在の山形空港)に属する飛行兵の訓練場とされ数機の航空機もあったので、

特に激しい攻撃目標とされたこと、

真室川飛行場、升形滑空場にもこれを迎え撃つ高射砲も航空機もなかったこと、

両飛行場には複葉の練習機(いわゆる赤とんぼ)があったが飛行は禁止されていたこと等記されていました。

 

またこれと同様ですが、「升形飛行場」で検索すると、

「神町海軍飛行場の補助飛行場として、海軍の升形飛行場(800mx30m)が造られた」という記述が多数出てきます。

市史の内容と合わせ、当初は大日本飛行協会の滑空訓練場として開場したものの、

後に海軍の補助飛行場「升形飛行場」として使用されるようになったようです。

 

D20_0041.jpg

2012/09/09追記:hatoyaさんからいただいた情報で撮った滑空場跡地の様子。

防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 舞鶴鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:升形 建設ノ年:1945 飛行場 長x幅 米:600x30方向NW 主要機隊数:小型 主任務:退避

升形滑空場跡地:map  


     山形県・升形飛行場(滑空場)跡地    

升形飛行場(滑空場) データ
空港種別:滑空訓練場
所在地:山形県新庄市升形
滑走路:800mx30m?
座 標:N38°45′24″E140°14′17″
面 積:99.2ha

沿革
1943年 05月大日本飛行協会による現地調査が行われる
      07月11日起工式
      09月20日開場
       後に神町海軍飛行場の補助飛行場となる
1945年 08月10日空襲により多大の被害を受ける
       戦後開墾される

関連サイト:
国土地理院 1947年11月当時の写真(USA M638 167) (■→「同意する」→戻る→再度■をクリック)   

この記事の資料:
新庄市史
山形市史


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日飛(漆山)飛行場跡地 [├空港]

 2009年9月 訪問 

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山形県山形市にあった「日飛飛行場」。

いきなり刑務所の写真からですが、ここに日飛(にっぴ)飛行場がありました。 

 

D20_0105.jpg

 

日飛AF地図.PNG

ぐーぐる地図に重ねるとこんな感じ。

日飛飛行場から南南西約8キロの所に「日飛(日本飛行機)山形工場」がありました。

現在の末広町、美畑町、鉄砲町1丁目にまたがる約15ヘクタールの敷地で、1942年3月操業。

この工場で、通称「赤とんぼ」と呼ばれた九三式中間練習機、秋水などを製造したのだそうです。

そして日飛飛行場はその名の通り、この「日飛」専用の飛行場なのでした。

アスファルトやコンクリートは使われず、土を平らにしただけだったそうです。

 

県史によりますと、同工場では赤トンボを月に40機ほど生産していたと記されており、

同工場OBの方の「ピーク時には月産80機だった」という記述も残されています。

大戦時に関して素人同然なのでまったくの受け売りなのですが、

空技廠で開発した九一式を川西航空機が改良したのが九三式で、

その後この九三式は日本の各メーカーで生産されたのですが、そのうち約半数が日飛製なのだそうです。

以下、県史より抜粋:「練習機の生産は、航空ガソリンの不足のためパイロットの訓練が制約されたにも関わらず戦争末期に至るまで続けられたが、これは米軍の本土進攻に対する特攻機として用いるためであった。練習機は比較的生産費が少なくて済み、未熟なパイロットでも十分に操縦が可能である上に、特攻兵器として十分な運動性能と航続力を持っていたからである。山形工場では特に木製飛行機生産のために多くの仏壇及び木工関係者が徴用された」

防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 舞鶴鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:漆山 建設ノ年:1945 飛行場 長x幅 米:1000x30方向S-N 主要機隊数:小型 主任務:退避 其ノ他記事:旧航空機制作会社施設

「漆山飛行場は陸軍の練習用飛行場で、毎日のように赤トンボが危なっかしい飛び方をしていた」

という記述も残っているのですが、少なくとも1945年には海軍の「漆山航空基地」になっていたようです。

 

日飛飛行場:map  

 


     山形県・日飛飛行場跡地    
終戦までに全国の県庁所在地の大部分が空襲を受けたのですが、8月14日時点で東北地方で戦災を受けていないのはは秋田と山形のみでした。その秋田も15日未明に空襲を受けたため、山形市民は「次は我々だ」と覚悟していたのですが同日終戦となり、山形市は数少ない非戦災都市となったのだそうです

 

日飛飛行場 データ
設置管理者:日本飛行機→海軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:山形県山形市あけぼの2丁目他
座 標:N38°18′43″E140°21′34″
滑走路:1,000m×300m
磁方位:01/19
*座標、磁方位はグーグルアースにて算出

沿革
1945年08月09日 飛行場空襲を受ける

関連サイト:
国土地理院 1947年4月当時の写真(USA M201 73) (■→「同意する」→戻る→再度■をクリック)   
(画面中央上の方にうっすらと飛行場が残ってました。拡大した方が分かりやすいかも)

この記事の資料:
山形県史
山形市史


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むつみ飛行場 [├空港]

 2009年9月 訪問 

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山形県西置賜郡にある「むつみ飛行場」です。

 

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ここは山形県の最上川むつみ橋下流の河川敷にある「むつみ飛行場」。

しらたかスカイスポーツクラブの活動拠点です。

手前にB滑走路、そして画面奥の土手?に沿ってA滑走路があります。

 

D20_0093.jpg

A滑走路 こっち側

 

D20_0096.jpg

A滑走路 あっち側 

 

D20_0100.jpg

 

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D20_0087.jpg

そしてB滑走路のこっち(以下省略)

 

D20_0098.jpg

 

D20_0090.jpg

 

D20_0091.jpg

 

 山形県西置賜郡むつみ飛行場:map  


 

     山形県・むつみ飛行場    
認定スクールのある本格的なULPクラブ。公式サイトはとても分かりやすくて楽しい雰囲気が伝わってきます

むつみ飛行場 データ
空港種別:場外離着陸場
所在地:山形県西置賜郡白鷹町高玉 最上川むつみ橋下流
座 標:N38°09′48″E140°03′44″
滑走路:A:500m(09/27)  B:400m(11/29)
*座標はグーグルアースにて算出

沿革
1989年 クラブ結成

関連サイト:
しらたかスカイスポーツクラブ  


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八幡原飛行場(大日本飛行協会山形県支部第二滑空訓練所)跡地 [├空港]

 2009年9月、2016年7月 訪問 

無題2.png 
1947年11月当時の写真(USA M646 164) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

 

(2016/11/23追記:航空写真、碑の写真、マップ追加、記事修正しました)

山形県米沢市にはかつて「八幡原飛行場」がありました。

現在は「八幡原中核工業団地」になっています。

「八幡原1丁目の一角に飛行場の碑がある」とネットにあり、2016年に再びお邪魔したのでした。

DSC_0076.jpg

「八幡原飛行場跡地」碑

八幡原飛行場の由来(全文)
 1930(昭和5)年4月24日、上郷、万世両村で整地奉仕中の八幡原、帝国飛行協会の実地検分の結果、8万坪(26万4,000平方メートル)の飛行場の実現可能の見込みとなり、防空演習(5月4日)に備え延長300メートル、幅150メートルの滑走路設置に着手する。
 1935(昭和10)年5月9日、八幡原が飛行機離着陸場に決定する。(全国764カ所)県内は八幡原と尾花沢の2カ所。帝国飛行協会が一朝有事に備え全国飛行網充実のため選定した。
 同年9月、同飛行場竣工、約26万平方メートル。格納庫敷地120坪(360平方メートル)11月23日開場式を行い、この日安国飛行士操縦のアポロ式が津田沼飛行場から同地に着陸。
 1940(昭和15)年7月1日、八幡原に格納庫を建設、練習機学生号を常置。1941(昭和16)年6月16・17の両日、米沢高等工業、興議館、米工、米商の滑空部合同のグライダー講習を同飛行場で開催。地元の上郷村は1町8反(約3万5,000平方メートル)の敷地を無償提供、ほか約3万平方メートルの敷地を買収する。学徒動員された市内女子学生が羽黒川の石を運んで滑走路づくりに奉仕した。同場に練武廠舎工費5万円で完成。同年8月4日、大日本飛行協会山形県支部第2滑空訓練所に指定され開所式を行った。1942(昭和17)年11月1日、第11回明治神宮国民練成大会(現国体)に米商滑空部が東北代表として滑空訓練の実技を発表、高松宮殿下台臨のもと優等賞を受ける(於石岡)。1943(昭和18)年9月1日から5日間、グライダーの滑空訓練を行う。
 戦後は食糧増産や開拓者が入植するなど飛行場の形態は失われた。1946(昭和21)年、進駐軍により競馬場設置運動起こり、1948(昭和23)年に第1回の公営競馬が行われたが、後に閉鎖となる。1953(昭和28)年11月、1954(昭和29)年4月、1955(昭和30)、1956(昭和31)年4月、米澤新聞社主催のトライベーサー機で観光飛行。1961(昭和36)年4月、1962(昭和37)年5月、1963(昭和)年4月、米澤新聞社主催のセスナ機で観光飛行。
 このころから米澤新聞社の清野幸男氏(現社長)らが置賜に空港建設をと訴え、1970(昭和45)年12月15日、米澤市議会に置賜空港建設(コミューター空港)の請願書を提出され、議会は採択したが、日の目を見ないまま空港建設はとん挫した。行政当局が米沢の将来の展望に関心がなかったのか、観光立国の現在、誠に残念なことだ。空飛ぶ飛行機を見たならば先人の遺徳を偲びその名をとどめる。
平成22年(2010年)9月20日 航空100年記念日(国土交通省)
米澤新聞社社長 清野幸男

 

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八幡原中核工業団地の一角にある「米沢ヘリポート」

 

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米沢市史に当飛行場についての記述がありましたので、要約して以下記させていただきました。 

1933年(昭和8年)12月 上郷村、万世村の両村長と有力者らが一同に会し、

両村にまたがる八幡原に飛行場を建設することについて協議し、「八幡原飛行場設置期成会」を結成しました。

次いで各関係機関への陳情運動を開始。

1934年(昭和9年)4月、飛行場敷地実地調査のため、帝国飛行協会と逓信省の役員が現地を視察しました。

飛行場の敷地は南北約600m、東西約600mの8万3226坪と定められ、

「都市近郊であり地質が砂利層のため排水がよく、飛行場には好適」と折り紙がつけられました。

その後、飛行場建設の認可が下り、昭和10年9月に構築作業開始。

上郷村をはじめ、近隣各村の青年団、消防組合、米沢市内の学生、生徒の労役奉仕で、11月22日に完成。

その翌日、飛行場開きには安岡一等操縦士が東京から飛来し、市の上空で宙返り、横転などの妙技を披露しました。

その後八幡原飛行場では、昭和11年7月14日、軍用機の離着陸テストが実施され、

向後軍の飛行場としての利用が期待されたのですが、

昭和12年7月の日中戦争勃発で軍用機の利用は過疎となりました。

一方、航空・国防思想の普及と航空兵養成の観点から、グライダー訓練が盛んに奨励され、

市内の中等学校にも滑空部が結成されました。

昭和16年8月、八幡原飛行場は大日本飛行協会山形県支部第二滑空訓練所に指定されて開所式が行われました。

昭和17年5月には、紀元二千六百年事業として計画された八幡原練武廠舎が落成。

本部、講堂、宿舎、衛兵所、倉庫などを擁し、約500名を収容する滑空訓練の殿堂となりました。

以後、在郷軍人や国防婦人会、青少年の心身練成の場として供されました。

昭和20年、飛行場の軍事化のため、近隣の学生を動員して作業が行われています。

戦後の1945年(昭和20年)9月13日には、早くも米沢に米軍の先遣将校が福島からジープで入って来ました。

一行はキャニングストン少佐と下士官、通訳の3名に、案内役の福島県警察職員1名。

キャンプ設営地の視察が目的であり、米沢警察署長が、米工専、米工、米中、松岬国民学校、八幡原飛行場を案内しました。

結果として、松岬国民学校、青年学校(住之江町)、米沢建築工補導所(同)を兵舎とすることになったのでした。

2014/9/12追記:アギラさんから情報頂きました。「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、米澤高等工業學校滑空研究會が当飛行場を使用していたという記録が残されています。アギラさん情報ありがとうございましたm(_ _)m 

終戦当時小学校3年生であった地元民の方の証言が残されています。

「米沢市郊外に存在した旧軍の飛行場は現在の工業団地附近に存在し、ほぼ正方形のような形であった。昭和19年頃に飛行場の南側を拡張する工事が行われたが、完成する前に終戦となった。その場所は、進駐軍が競馬場として利用していた場所で、その後、米沢市の何人かで競馬場を大きくした。 」

 

飛行場の位置について:

当飛行場の位置については、当地の碑文その他の資料で幾つかヒントとなるものがあり、

最も具体的なものの一つは、「飛行場だった場所が競馬場になった」と受け取れ、

その通りだとすると、先頭の航空写真南側に競馬場トラックらしきものが映っていて、碑の位置からすると、

飛行場は碑の南側ということになります。

ところが、2014年8月17日付の山形新聞には、「碑はその(飛行場の)南端だった場所に立つ」とあり、

この記事は地元同窓会のサイトにも引用されています(下記リンク参照)。  

これだと飛行場は碑の北側ということになり、逆になってしまいます。

一体どちらが正しいのか。。。

当飛行場の形について、地元民の方の証言によれば、「ほぼ正方形のような形であった」とあります。

大きさについては、時代と共に拡張されていったようですが、600mx600m が資料内にある最大値です。

ということで、碑を中心としてそのくらいの正方形の地割はないかと探したのが先頭の航空写真です。

碑の北側にそれらしい地割がありました。

その地割を拾って作図したのが二番目のグーグルマップです。

ただし、ご覧の通りで北西側の地割がハッキリしないのと、これだと、450mx500mで一回り小さいです。

競馬場のトラックは、その北側がほんの一部かすっている程度で、これだと「飛行場跡地を競馬場にした」とは

ちょっと言い難い感じです。

飛行場の正確な位置をご存知の方からの情報お待ちしておりますm(_ _)m


     山形県・八幡原飛行場跡地     

学生だった当時、八幡原飛行場でグライダー訓練を行ったこと、戦後やって来た米軍が予想に反して陽気で友好的で拍子抜けしたこと等綴った手記が残されていました

八幡原飛行場 データ
空港種別:陸上飛行場、滑空練習場
所在地:山形県米沢市八幡原
座 標:N37°54′27″E140°10′23″
面 積:27.5ha
*座標はグーグルアースにて算出

沿革
1933年12月 八幡原飛行場設置期成会結成
1934年04月 帝国飛行協会と逓信省の役員が飛行場敷地実地調査
1935年09月 飛行場建設開始・同年11月22日 飛行場完成
1941年08月 大日本飛行協会山形県支部第二滑空訓練所に指定

関連サイト: 
米沢市/米沢ヘリポート  
空への憧れいつしか 滑空部・八幡原飛行場 楽しかったグライダー訓練  

この記事の資料:
米沢市史


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岩手陸軍飛行場(後藤野飛行場)跡地 [├空港]

 2009年9月 訪問 

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岩手県北上市の「後藤野工業団地」が見えてきました。

かつて「岩手陸軍飛行場(後藤野飛行場)」があった場所です。

 

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工業団地の一角にある公園

 

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この公園内に、碑、説明板がまとまって設置してありました。

 

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裏側には沿革が刻まれてました。

沿革(全文)
  一九三七年(昭和十二年)日中戦争が始まった七月、岩手県下の市町村長会議で愛国機の献納と飛行場設置が決議され、当時の黒沢尻、花巻の二町と藤根、江釣子、岩崎、横川目、飯豊、二子、湯田、笹間、太田、湯口、湯本の十一ヶ村で「後藤野飛行場設置同盟会」を結成し、地権者から僅少価格で用地を買収して、その実現を図った。
  広さ百二十万坪(三九六ヘクタール」は関東の熊谷飛行場(三一四ヘクタール)をしのぐもので、抜根、整地作業は建設機械のなかった当時、県下中等学校(現高等学校)地域青年団、職場を単位として結成された「青少年勤労報国団」の勤労奉仕によって、すべて人力によって行われた。
  翌年九月二五日秩父宮を迎えて献納式が行われ「岩手陸軍飛行場」と命名された。起工式から竣工まで一四八日、延十二万八五一人、総工費僅か八万七千円であった。
  当所は陸軍の教育訓練飛行場として使用され、上空には赤トンボと呼ばれた複葉練習機が飛び交ったが、一九四四年(昭和十九年)本土が空襲を受けるようになって俄かに実戦基地化され、「神鷲隊」という特攻隊が移駐し短期間の訓練の末各地に配属されていった。翌年八月九日 米軍艦載機により空襲を受けて飛行場の施設が破壊され、隣接する民家に投下された爆弾で横川目国民学校四年○○○君(当時十歳)が犠牲となった。同日、特攻隊三機が発進したが○○○○中尉(二十二歳)○○○○少尉(二十二歳)○○○伍長(十九歳)は 還らぬ人となった。
  一九四五年(昭和二十年)八月十五日終戦となって飛行場の役目が終った後藤野は、国から払い下げを受け開拓団が入植して農地に生まれ変わり、さらにその一角には工場が誘致され工業団地となって発展した。当時の飛行場の面影を残すものは何もなく忘れ去られようとしている。戦後五十年に当り、この地が飛行場跡であることを後世に伝え、さらなる平和を願い、地区民ならびに篤志者の淨戝と、北上市、花巻市の御援助により記念の碑を建立するものである。
一九九五年(平成七年)十二月二十一日
後藤野飛行場史跡整備委員会

 

 

D20_0179.jpg

説明板拡大

碑文にもありますが、「県から軍に献納された飛行場」なんですね。

陸軍が使用しましたので、「愛国飛行場」ということでしょうか。

 

D20_0180.jpg

説明板の地図拡大

この公園は工業団地の隅っこにあるのですが、

飛行場があった時にはこの公園が中心地だったのですね。

それにしても、こんなに飛行場の資料が充実している跡地は初めてです。

まだそんなに見学してませんけど。

この後地元の図書館に寄ったら休館だったのですが、もういいことにしました。

 

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秩父宮殿下を迎えて行われた献納式を記念する碑

 

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公園のすぐ近くにはこんな風景が広がってました。

 

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岩手陸軍飛行場:map  


   岩手県・岩手陸軍飛行場(後藤野飛行場)跡地   

岩手陸軍飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:岩手県北上市和賀町後藤
座 標:N39°19′55″E141°00′08″
面 積:396ha
*座標はグーグルアースにて算出

沿革
1937年07月 「後藤野飛行場設置同盟会」結成される
1938年09月 献納式
1945年08月 空襲を受ける
戦後は農地、工業団地になる

関連サイト:
国土地理院 1947年11月当時の写真(USA M621 321) (■→「同意する」→戻る→再度■をクリック)   


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阿武隈フライングクラブ飛行場 [├空港]

 2009年9月 訪問 

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福島県‎伊達市‎にある「阿武隈フライングクラブ飛行場」。

阿武隈川の河川敷にある飛行場です

 

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ご覧の通り立入禁止で滑走路に立ち入ることはできません。

 

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向こうに大きな橋が見えますね。

ということで行ってみました。

 

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「梁川大橋」から見た飛行場

 

福島県伊達郡阿武隈フライングクラブ飛行場:map  


    福島県・阿武隈フライングクラブ飛行場    

阿武隈フライングクラブ飛行場 データ
管理者:阿武隈フライングクラブ
空港種別:場外離着陸場
所在地:福島県‎伊達市‎梁川町‎小中島十‎ 阿武隈川右岸河川敷
座 標:N37°52′04″E140°36′24″
滑走路:200m×25m
磁方位:09/27
*座標、磁方位はグーグルアースにて算出


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原町飛行場(雲雀ヶ原臨時飛行場)跡地 [├空港]

 2009年9月 訪問 

無題8.png
1947年9月当時の写真(USA M486 15) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 


*見学の際、たくさんの地元の方にご協力いただきました。御礼申し上げます。

2016/9/18:防衛研究所収蔵資料:「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 水路部」の地図から作図しました。敷地境界線西側、南側が自信ないです。その他若干記事修正しました。

資料内に当飛行場についての情報がありましたので、以下引用させて頂きます。

面積 北東-南西 1,200乃至2,050米 北西-南東1,200米
地面の状況 平坦なるも南西より北東に向け1/100の下り傾斜を為す
硬度は普通にして一面に良好なる芝密生す 排水良好なり
目標 原町、陸前浜街道
障碍物 南東方付近に比高25米の丘陵、西方約4粁に国見山(高さ564米)あり
離着陸特殊操縦法 着陸方向は北東又は北西を可とす
格納設備 木造格納庫(20x30米)4棟あり
照明設備 なし
通信設備 北東方2粁に原町郵便局(電信及電話取扱)あり
観測設備 なし
給油設備 航空用燃料は少量程度補給可能なり
修理設備 なし
宿泊設備 原町に旅館9あり
地方風 11月-翌年3月間は北西風、4-6月間は南東風 7,8月は東風又は南東風、9,10月は東風又は南東風なり
地方特殊の気象 12月-翌年3月間は暴風期なり、7,8月は雷雨多し 冬季は比較的積雪少し
交通関係 原町駅(常磐線)北東方4.2粁 東側に接して原町に通ずる県道あり
其の他 (記載なし)
(昭和18年4月調)


福島県の旧原町(現在は合併して南相馬市)には有名な相馬野馬追祭場地があります。

その西隣に「原町飛行場」がありました。

原町飛行場のあった場所は、南相馬市原町区大字馬場、大字大木戸を中心に、

北東の神ケ崎、本陣前地区まで広がる一帯なのですが、

これはかつての旧相馬郡大田村から石神村にかけてに相当し、かつては周囲を野馬土手で囲まれた中村藩の放牧地で、

牛越原と呼ばれ、一般には野馬原と称していました。

明治初年、放たれていた野馬は捕らえられ、広大な原野は民間に払い下げられました。

雲雀ヶ原(ひばりがはら)と名付けられた原野は町の権力者に買い取られたところが多く、

他町村からやって来た多くの入植者が借地し、耕作地に変えていったのでした。

 

「野馬原」が入植地として変化を遂げていく一方で、

1919年(大正8年)、原町議会では飛行場の誘致を試みています。

この時の誘致はうまくいかなかったのですが、

1921年(大正10年)、東北県下に設置する陸軍飛行場候補地として当地が注目され、

町役場からは測量図面などの資料が提出されています。

翌1922年(大正11年)3月、陸軍は原町で飛行演習を実施し、大群衆が観戦しました。

これにより一般に航空思想が広まりました。

しかし結局飛行場建設には至らず、誘致運動も次第に沈静化しました。

 

1931年(昭和6年)、誘致運動が再燃することになります。

「陸軍飛行学校において東北地方に適当な飛行演習所を物色中」との情報を聞き、

志賀原町町長が上京して陸軍省に陳情、近隣の村々では、飛行協会を組織するなどして万全を期しました。

同年12月には2度にわたって調査官が候補地を訪れています。

調査結果は良好でした。

翌1932年(昭和7年)に決定した目論見書では、

土地総面積195,766坪1合、国有・民有の原野購入費用他として18,890円を計上しています。

今回は陸軍省から調査官の派遣や、土地整理の内達まであったため、実現するものと思われました。

しかし、その後誘致運動は中断され、飛行場建設計画はとん挫することになります。

 

原町は飛行場誘致に積極的だったのに対し、地元自治体も全面的に賛成だったわけではありませんでした。

1932年(昭和7年)、石神村は飛行場建設を議会で否決。

一方の太田村では1936年(昭和11年)、村議会で飛行場用地の払い下げを可決、

隣接する村で対応が分かれたのです。

1937年(昭和12年)、臨時陸軍飛行演習所開設決定。

原町では町の有力者が所有している陣ヶ崎部分を飛行場用地に提供しました。

32ヘクタールの土地と12,800円を福島県に寄付、見返りに用地内の伐木許可を申請しています。

用地整理は原町が担当し、急ぎ測量、伐木、整地作業が行われました。

用地内には昭和2年に設置された競馬場があり、原町競馬を終えてから競馬場の木柵を撤去して整地にとりかかりました。

同年10月21日議会提出の飛行場聖地収支清算書には、収入として第二師団経理部と寄付金から1,138円46銭、

支出として伐採保障費や整地費、観音碑移転料などで同額が清算されたとしています。

「雲雀ヶ原臨時飛行場」は11月10日に開場したと言われています。 

 

雲雀ヶ原で多くの人が入植したのは大木戸字南東方地内と松島地内という場所で、

石神村の時代になってからも入植者たちは大木戸集落に所属していましたが、

1939年(昭和14年)3月に念願の1つの行政区として独立し、石神村の「第14区」となりました。

いわゆる「自分達の部落」が誕生したのです。

地区の結束は非常に固いものでした。

そして「雲雀ヶ原臨時飛行場」 は、この石神村「第14区」に隣接していたのでした。

この年の9月、航空本部から2人の担当者が飛行場のある当地の検分に訪れ、綿密な調査を行いました。

両氏によればここは飛行場として適しており、

「14年いっぱいは熊谷飛行学校の演習地として使用し、その後は拡張して陸軍飛行場にする」との意向でした。

 

こうした軍の意向を受け、ついに石神村は昭和7年の飛行場建設反対の決定を覆したのでした。

石神村第十四区の住民にとって、昭和14年12月15日は決して忘れることが出来ない日となりました。

この日役場に集められて聞かされたのは、

「軍の飛行場敷地として買収されるので、戦争完遂のため軍の指示に従い、部落を上げて期日までに移転せよ」

という立ち退き命令であり、一同は「ただ唖然とするばかりであった」のだそうです。

しかも、「代替地は各自で探し、期日までに明け渡すように」というまことに勝手な言い分でした。

「御国のため」という言葉の前には誰も逆らえない、そんな時代でした。

 

住民強制移住の申し渡しから11日後の昭和14年12月26日、

石神村議会は「雲雀ヶ原飛行場設置に関する件」を諮りました。

軍への協力を否めない時代になっていたということと共に、

雲雀ヶ原入植地の大半が借地で自作農が少ないという土地柄が、この決定につながりました。

この時の石神議会では同時に、飛行場設置によって転居を余儀なくされる農民の家屋建材用に、

県道椚平原町線の並木の松を特売することを決めています。

注)1932年(昭和14年)4月、陸軍航空総監部計画設計、熊谷組の施工により、飛行場建設に着手。翌年3月、熊谷陸軍飛行学校第二大隊第4中隊が設置され、6月には原町陸軍飛行場が正式に開場する。という資料あり

 

1940年(昭和15年)に入ると1月から用地の買収が始まりました。

飛行場内を貫通している県道の付け替え、共同墓地の移転売却、移転者に対する交付金等、

軍の豊富な予算に後押しされて、飛行場はあっという間に整備されていったのでした。

移転を指示された石神村の範囲は第十四区と馬場、大木戸の一部でした。

移転者の不動産は評価を受けることになります。

家屋は一等級から八等級の間で評価されるのですが、

当時の小作農の民家は粗末なもので、たいがいは最低評価の八等級でした。

防風林、竹林、果樹や桑園、麦畑も評価され、畑地は反別240円、山林120円でした。

この程度の補償額では、移転先の購入価格を勘案するとまったく余裕はなかったのだそうです。

加えて保証金の支払いは分割払いであったため、現金が必要な各家は相当な難儀を強いられました。

 

全部で100戸近い農家の短期間での一斉移転は他にも思わぬ苦労がありました。

職人は同時に建設する飛行場に徴用されたため、家を立てるにも職人の確保が難しかったのです。

釘やセメントなどは資材不足で配給以外に入手する手立てがなく、多くが値上がりしました。

石神村当局でも移転先を斡旋したり、払い下げ木材を提供するなどの支援をしています。

第十四区として積み重ねてきた歴史や地区のまとまりは、こうして突如突き崩されてしまいました。

移転を余儀なくされた人々は、移転先で様々なものを再び一から積み上げていかねばならなかったのです。

こうして入植者たちの念願だった「第十四区」は、発足から僅か1年余で消滅してしまいました。

結束の強かった「第十四区」の人々はやむなく四散する際、春秋の例祭には寄り合って祭りを行うことを約束したのだそうです。

飛行場の開設という華やかな出来事の影で、理不尽な仕打ちにより多大な労苦を被った人たちがいたのでした。

 

1940年(昭和15年)6月、原町飛行場開場。

当初は「熊谷飛行学校分校」として落成開校式を挙げたのですが、

その後、1941年(昭和16年)6月、明野陸軍飛行学校に移管して「明野飛行学校原町分校」となり、教育課第一中隊を設置。

9月には水戸陸軍飛行学校に移管し、第三中隊を設置。

翌1942年(昭和17年)7月、鉾田陸軍飛行学校に移管、第二中隊を設置。

「鉾田飛行学校原町分校」となりました。

このように、初期には短期間での移管が相次いだのですが、主に陸軍士官学校生の教育が行われました。

戦局悪化が顕著となっていた1944年(昭和19年)5月、「鉾田教導飛行師団原町飛行隊」と改称、

実施学校の軍隊化が急速に推し進められました。

同年11月、陸軍特別攻撃隊が編成され、フィリピン島方面に特攻を実施。

翌1945年(昭和20年)3月以降は、終戦まで本土決戦特攻隊の錬成基地となり、

幾隊もの特攻隊が編成され、地元民の盛大な見送りの中、出撃基地へ前進していきました。

原町飛行場にて編成(仮編含む)された特攻隊は、

フィリピン島方面の作戦においては、八紘部隊大五隊の「鉄心隊」・同第八隊の「勤皇隊」・同十一隊の「皇魂隊」があります。

後の沖縄方面の作戦においては、第四五振武隊の「神州隊」・第六四振武隊の「国華隊」があります。

原町校出身の航空兵が所属した特攻隊は、他にも万朶隊・進襲隊、皇華隊などがあり、

これら以外にも花街飛行場関係の戦没者は数多くいます。

 

飛行場は1945年(昭和20年)2月16日と8月9、10日に艦載機による空襲を受け、

掩体内の航空機や対空陣地に被害が出るとともに、

紡績工場や機関区なども攻撃対象となって原町中心部にまで戦禍が広がったのでした。

8月15日 終戦。原町陸軍飛行場は役目を終えました。


飛行場は戦後接収され、10月20日福島県が飛行場用地全てを引継ぎ、

11月20日に正式に原町町長から福島県に引き継がれました。

雲雀ヶ原は再び農耕地として開放され、かつての住民や外地からの引揚者などにより、開墾地として活用されることになりました。

灌漑用水の確保が難しい土地であったために、

深井戸を掘って地下水を利用できるようになる昭和30年代まで収穫は安定せず、

やむなく土地を離れる人も少なくなかったのだそうです。

強風の吹く日は空が真っ黒になるほどの土ぼこりを巻き上げていた雲雀ヶ原も、

半世紀を過ぎると、初期に住み着いた農家の屋敷林に農村のたたずまいが残る程度で、

すっかり近郊住宅地に変貌してしまいました。

D20_0063.jpg

現在の雲雀ヶ原の通り。

飛行場用地と建築物は払い下げられ、学校などの公共施設として使用されました。

現在では陣ヶ崎の公会堂以外、ほとんどが建て替えられてしまいましたが、

今でも飛行場正門の門柱、格納庫の壁や神社など、わずかな遺構に当時を偲ぶことができます。

また陣ヶ崎公園墓地に飛行場慰霊碑があり、地元空襲による犠牲者、飛行場関係、特攻殉職者の名が刻まれています。

ということで遺構を見て回りました。

D20_0066.jpg

陣ヶ崎二公会堂

飛行場の食堂を移築したものだそうです。

資料によりますと、当時食堂は正門から少し西側に離れた場所にあったようです。

公会堂を探し回っていて発見した時、素人目にはとても戦時中の建物には見えなかったため、

後からもう一度戻ってきて撮ったのでした。

D20_0209.jpg

飛行場格納庫の礎石。かなり大きいです。

D20_0204.jpg

道路沿いに同じ形のものが並んでいて、

D20_0206.jpg

向こう側にも同じものが並んでいました。

D20_0202.jpg

飛行場正門跡。敷地外から。

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飛行場敷地内から。

D20_0039.jpg

石碑

D20_0041.jpg

「墾心楽土」 碑文(全文) この地区は 藩政時代は野馬の放牧地であったが 明治維新に官地編入となり 其の後部落有志に払い下げられた処である 昭和十五年 原町飛行場が新設され 強制移転となった農家が この地に転住し林野を開畑したが戦事下の食糧難や物資不足の時代の開墾には並々ならぬ困難を極めたのであった 漸く開畑を見たが幾多の被害に適作物も数少なく悩まされ続けたのであるが 昭和三十五年頃より水稲が作付され 飯米の確保が出来安心を得たのである 然かし地下水の過剰揚水が 大瓮地区の地盤沈下の原因と認定され市条令に依り地下水の採取規制となり 又々障壁に当面したのである この解決には 圃場整備事業以外になしと地区組合員一丸となり昭和六十年より事業に着工を見ようやくこの処に完成を見たのである これに依り区画は整備されコストの軽減と横川ダム用水で水源の問題も解決を見たのである 此の重大なる工事完成を実現した喜びとその履歴を永遠に後世に伝える為 此処に記念碑を建立するものである 平成三年三月 古小髙 宏翁撰

基地からこんな近い場所も移転先になったのですね。


     福島県・原町飛行場跡地     

原町飛行場 データ
設置管理者:陸軍飛行場
空港種別:陸上飛行場
所在地:福島県南相馬市原町区上太田陣ケ崎
座 標:N37°37′06″E140°56′29″
敷 地:2,500mx1,400m
標 高:51m
面 積:220ha
(座標、敷地、標高、面積はグーグルアースから)

沿革
かつては中村藩の放牧地だった
明治初年 広大な原野が民間に払い下げられる
1919年 原町議会、飛行場誘致を試みる
1921年 東北県下に設置する陸軍飛行場候補地として注目され、町役場から測量図面等資料提出
1922年 03月陸軍、飛行演習を実施
1931年 12月町長による上京誘致活動の末調査官が雲雀ヶ原調査
1932年 石神村、飛行場建設を議会で否決
1936年 11月? 雲雀ヶ原臨時飛行場開場?
1940年 01月用地の買収
      原町飛行場熊谷飛行学校分校開校
1942年 07月鉾田飛行学校に移管
1944年 05月鉾田教導飛行師団原町飛行場に改称
      11月陸軍特別攻撃隊編成
1945年 02月飛行場、原町紡績工場に空襲(県内初空襲)
      03月終戦まで本土決戦特攻隊の錬成基地となる
      戦後、飛行場跡地は引揚者などにより再び農耕地に

この記事の資料:
原町市史
南相馬市博物館
現地の碑文
いわき地方史研究 第45号
陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 水路部」


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第二郡山航空基地(金谷飛行場)跡地 [├空港]

  2009年9月訪問、2017/8/20:更新  


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1947年10月当時の写真(USA R413 25) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)  

昭和17年、福島県郡山市郡山駅の南、阿武隈川右岸沿いに、

「第一郡山航空基地」、「第二郡山航空基地」が設置されました。

現在の国道49号線を境に南側に第一航空基地(整備教育)の兵舎が林立し、

北側に第二航空基地(練習訓練)の広大な飛行場がありました。

この飛行場は地名から「金谷飛行場」とも呼ばれました。

そして第一、第二は隣接しているのですが、ここから西北西約6km離れた場所には「第三郡山航空基地」もありました。

第三航空基地は現在郡山駐屯地になっています。

「第〇郡山航空基地」という名称から、(じゃあ郡山には第一から第三まで3つの飛行場があったのか)

と思ってしまうのですが、第一は整備士の教育施設だったのだそうで、

「航空基地」と言いつつ実際に飛行場があったのは、第二、第三のみでした。

第一航空隊跡地には現在、日大がありますが、

昭和31年の暮、鉄筋コンクリートの建物(現2号館)が完成し、翌32年から使用開始するまでは、

航空隊が使っていた木造の兵舎を使用していたのだそうです。

D20_0020.jpg

写真は第二航空基地跡で、現在は郡山中央工業団地として整備されています。

防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地位置図」の中に「第二郡山航空基地」の略図がありました。

いわゆる細長い滑走路ではなく、八角形っぽい形の着陸帯として描かれており、

大きさは、1,100mx1,250m とありました。

当時の航空写真に八角形の地割が残っていれば作図したかったのですが、

1947年の航空写真を見ても、既に開墾が進んでいるようで、それらしい地割は見つからず、

今のところ詳しい地図等も見つからないため、残念ながら作図できておりません。

「第二郡山航空基地」の敷地は、阿武隈川と谷田川で東西から挟まれており、

二つの河の間は1km強しかありません。

このため飛行場敷地として使用可能な場所はおのずと限定されます。

また、国道49号線すぐ北側にエプロン等諸施設(先頭の航空写真で白く映ってる)がありますから、

このエプロンの辺りから北側に、そして両川いっぱいに着陸帯が広がっていたと思われます。

 

郡山市は積極的に飛行場誘致活動をしており、

1939年(昭和14年) には逓信省が市の案内で大島、庚担原(大槻)、

川田(豊田)、早稲原(喜久田)、境伝左衛門(喜久田)、金谷(高瀬)などを視察しました。

また、これとは別に海軍省は海軍航空隊を福島県内に建設するため調査していたのですが、

1941年(昭和16年)7月、福島市よりも郡山市周辺が適地であるとの結論を出していました。

そして1942年(昭和17年)2月、次の通り設置地域を決定しました。

郡山第一海軍航空隊 田村郡守山町徳定
郡山第二海軍航空隊 田村郡高瀬村金屋
郡山第三海軍航空隊 安積郡大槻町北部

一旦決定された後は突貫工事で建設が進められ、

1日20台の自動車、近郊農村の馬車、牛車が徴用され、海軍施設協力会が創設されました。


軍隊が駐留する都市を広義で「軍都」、「軍郷」と呼びますが、

1944年(昭和19年)1月、内務省は「軍都整備事業計画」を表明しました。

これは、国が正式に指定した「軍都」に支援を行う。というものです。

当時の郡山市長はこの軍都加入を強く希望し、

運動の結果茨城県土浦市、青森県大湊市を抜いて、

国から正式に「軍都」として指定された11の都市の1つとなりました。

これにより、

安積橋・上亀田線新設(現:西の内線)(3.5万円、長さ:400m)

金山橋・開成山線新設(現:国道49号)(29万円、長さ3,350m)

が完成しました。郡山市の負担は5万円でした。

こうして郡山は軍都としての道を突き進むことになり、

飛行場には付属の海軍施設部、格納庫、中島飛行機整備工場など数十棟が並び、

軍都整備、軍需工場、軍部隊、貯金局などの誘致で郡山は活気のある街に発展しました。

そして当然のことながら、この「軍都郡山」を米軍が見過ごすはずもなく、

戦争末期には「郡山空襲」として知られる大空襲により、多くの犠牲を出したのでした。

防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」に第一、第二の資料がありました。
以下引用させて頂きます。

位 置基地名最寄り駅よりの方位 距 離  粁建設年
飛行場
長x幅 米
格納庫収容施設
福島県安積郡永盛村第一郡山
東北本線郡山駅
   S3
1944下記共用
小型 50機分
中型 50機分
10,000名
第二郡山
同     同
   S3
同上
1,100x1,000
芝張
小型100機分
2,000名

 

基地名工場倉庫教育施設隊外酒保
送信所
方位測定所
主要機隊数主任務
第一郡山郡山市〇下記共用飛行機整備教育
第二郡山上記共用小型練6.0同上

 

基地名隧道並に地下施設掩 体其の他記事
第一郡山〇一部工事中  
第二郡山居3,000?、燃、通?他工事中 

〇印……施設あるも数量不明


     福島県・第二郡山航空基地(金谷飛行場)跡地    

郡山市史5近代(下)477pに「郡山地方でも金屋海軍飛行場や、大槻海軍飛行場の建設によってつぶされた耕地も多い」と記されていました。また「日東紡績第三工場も、十九年に中島飛行機に接収された工場の一つである。中島飛行機は接収と同時に飛行機部品の製造を開始した。しかし翌二十年の終戦によって日東紡績に返還されたが、二十一年にパラマウント硝子工業株式会社として再出発するのである。また、松葉製糸も同じように飛行機製造会社の接収に遭い松葉飛行機と改名し、その製造を開始するのである。しかし製造の開始が二十年四月であり実際には準備のみで終戦を迎えている」と記されていました

第二郡山航空基地(金谷飛行場) データ
設置管理者:旧海軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:福島県郡山市田村町
座 標:N37°22′29″E140°23′54″
着陸帯:1,100mx1,250m(1,500mx1,350mとする資料もあり)
(座標はグーグルアースから)

沿革
1942年 2月 飛行場建設決定
1945年 4月12日 郡山大空襲
      7月29日 市内にパンプキン爆弾(模擬原爆)投下される
      8月9,10(8,9?)日 飛行場空襲

この記事の資料:
郡山市史
郡山の歴史
「海軍航空基地現状表(内地の部)」
「海軍航空基地位置図」


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磐城(夫沢磐城、長者ヶ原)飛行場跡地 [├空港]

 2009年9月 訪問 

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1947年4月当時の写真(USA M216 25) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 


2017/3/15追記:防衛研究所収蔵資料 「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 水路部」の当飛行場情報から記事追加しました。

上のマップは、「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 水路部」の当飛行場の地図、1947年の航空写真、

それから現在のグーグルマップを比較して作図しました。

格納庫等、飛行場諸施設はマップの撮影地点(展望台)にありました。

直線が出せる箇所は一応定規と分度器で作図したのですが、プリミティブな境界線が多々あります。

飛行場敷地は海岸線から一気に標高の上がった崖の上にある感じで、

自然が境界線を形成している部分は、現状優先で作図しました。

おおよそこんな感じと思います。

最新のグーグルマップ画像、福一の懸命な作業の様子が映し出され、胸が締め付けられます。

上記資料に飛行場情報が記載されていましたので、以下引用させて頂きます。

面積 東西1,250米、北西-南東1,500米 南北1,200米
地面の状況 植芝
目標 常磐線、新山町、陸前浜街道
障碍物 (記載なし)
離着陸特殊操縦法 (記載なし)
格納設備 格納庫(20x35米)6棟
照明設備 (記載なし)
通信設備 (記載なし)
観測設備 なし
給油設備 航空用燃料補給可能
修理設備 なし
宿泊設備 兵舎あり
地方風 (記載なし)
地方特殊の気象 (記載なし)
交通関係 長塚駅(常磐線)北西方約5粁
其の他 (記載なし)
(昭和18年4月調)

 

福島県双葉郡にあった「大熊町(夫沢)磐城飛行場」。

この飛行場は情報がほとんどなく、地元の図書館で位置を確かめたところ、

「夫沢海岸台地」という記述があり、調べた住所でたどり着いたのは、

東京電力福島第一原子力発電所なのでした。

 

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大熊町夫沢周辺

 

辿り着いたはいいのですが、

「オ、オイラ、飛行場探してるんだな。」

なんて言いながら原子力発電所に入ろうものなら、10分後には白黒の車に乗せられてそうです。

という訳で、流れ着いたのは「展望台」でした。

 

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そして「東電展望台」の駐車場で発見した飛行場の碑

「磐城飛行場跡記念碑」(全文)

この地起伏少なき松山に 農家散在す、昭和15年4月国家の至上命令により突如 陸軍で飛行場建設決定 住民11戸移転直ちに着工す、当時 工法はトロッコにスコップで手積み 人力で押し逐次軌道延長整地す、作業人夫は請負業者と郡内外の青年団 消防団 大日本愛国婦人会 学徒一般民等献身的勤労奉仕で半ば強制作業で工事が進められた この地水源なく志賀秀孝氏の井戸より送水使用す 17年早春 宇都宮飛行学校磐城分校発足 20年2月磐城飛行場特別攻撃教育隊として独立 日夜猛訓練受け第一線配属若者が 御国のため大空に散華す 同年8月9,10日 米軍空母艦載機の大空襲で施設破壊亦各地方の被害甚大なり 20年8月15日終戦となる その後一部農地開拓す 昭和23年日本国土計画で中央部以北塩田化海水揚げ天日式で濃縮 旧長塚駅近くまでパイプで送り製品化す 34年イオン樹脂交換製塩発達のため閉じる 亦塩田以外の地23年旧地主に払下げ25年植林す 37年東京電力株式会社原子力発電所建設備候補地となり39年買収41年本着工現在に至る 思い出大き この地忘れろるを憂い終戦43回忌に当り大戦で亡くなられた人々の御冥福と恒久の平和を祈り兵舎跡地にこの碑を建立す  昭和63年8月15日 磐城飛行場跡記念碑建立有志会

「東電展望台」は飛行場の兵舎跡だったのですね。

 

D20_0222.jpg

 

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碑の裏側

 

当飛行場は「宇都宮飛行学校磐城分校」だったのですが、1945年2月に「磐城飛行場特別攻撃教育隊」として独立しました。

「旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会」からいただいた機関紙によりますと、

磐城飛行場が特攻訓練基地として独立してから3ヵ月後の1945年5月、

埼玉県桶川飛行場から当飛行場に飛行兵と整備員が特攻訓練のために短期派遣されています。

桶川飛行場はオイラの地元なのですが、思わぬところで磐城飛行場と繋がりがあったのですね。

陸軍つながりということなのでしょうか。

派遣された整備員の方によりますと、夕方から薄暮にかけての夜間飛行訓練で、

しかも洋上で羅針盤を使った飛行訓練だったのだそうです。

桶川からは、この洋上航法を習わせるために派遣されたのではないかと思われるのだそうです。

整備員の方は、午前中は海で海老取り。砂の中にオキアミが残るのでそれをバケツですくい、

一晩おいて翌朝の味噌汁に入れたのだそうです。

訓練が始まる午後から夕方にかけてが整備員の仕事で、飛行機は95式練習機だったのだそうです。

更に、漁船をめがけて特攻の訓練が行われたのだそうです。

 

防衛省戦史資料で当飛行場について以下の説明がありました。

位置     福島県双葉郡熊町村
滑走地区  地積二一二〇〇〇〇平方米、中型機用
付属設備  居住施設一〇〇名ヲ収容シ得 他ニ講堂自習室(約一五〇名)アリ 一一ピスト分教場 水量水質 右需要ス
周囲ノ状況 敷地ハ長者ケ原ト称スル高台ニシテ 東方ヲ除キ敷地周囲ト一〇米内外ノ標高差ヲ有シ 
        東方ハ太平洋ニ面シ海面ト四〇米内外ノ標高差ヲ有ス
気象     最高気温 三四・七度 最低気温 零下九・二度
        北西界線ヨリ北西ニ直距離ニ 五粁ニテ 常磐線「ながつか」駅(現在の双葉駅)ニ連絡ス
其ノ他    憲兵 福島県相馬郡原町 原町分隊 警察 富岡警察署

 

D20_0030.jpg

福島第一原発展望台より

なんとなくテレビで見たことあるような・・・

展望台のあるこの地が兵舎等がある建物敷地で、原発のある辺りが滑走地区だったようです。

 

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同じく展望台から

この周辺も飛行場だったと思うのですが・・・

 

福島県双葉郡大熊町(夫沢)磐城飛行場:map  


     福島県・磐城飛行場跡地     

(夫沢)磐城飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
空港種別:中型機用飛行場
所在地:福島県双葉郡大熊町夫沢
座 標:N37°24′45″E141°01′49″
面 積:300ha(滑走路地区:212ha)
滑走帯:1,300m×1,200m全面芝
*座標はグーグルアースにて算出

沿革
1939年 06月夫沢海岸台地約300haが飛行場用地として買収され、民家10戸が移転 
      熊谷飛行隊磐城分校として滑走路等作られる
1941年 04月夫沢磐城飛行場開場 約60機の練習機が置かれ、飛行兵の訓練をする
1942年 宇都宮飛行学校磐城分校として開校
1945年 02月磐城飛行場特別攻撃教育隊として独立。特攻隊の訓練基地となる
      05月桶川飛行場から飛行兵、整備員の短期派遣   
      08月09日 この頃、双葉沖200カイリに空母16隻の機動部隊あり
      09日午前8時頃 夫沢の飛行場を艦載機群が攻撃 格納庫、練習機を機銃掃射で破壊 死者1人
      10日午前9:15頃 艦載機の焼夷弾により、全焼44戸、全壊3戸、半壊3戸、死者6人
※2011/8/8 ざんなんさんからの情報により追記致しました。

この記事の資料:
大熊町史年表
現地の碑文

関連サイト:
国土地理院 1947年4月当時の写真(USA M216 26) (■→「同意する」→戻る→再度■をクリック)   
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矢吹(矢吹が原)飛行場跡地 [├空港]

 2009年9月 訪問 

無題6.png
1947年11月当時の写真(USA M627 500) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


防衛研究所収蔵資料:「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 水路部」の中に当飛行場の地図と情報がありました。

資料の地図、1947年の航空写真、グーグルマップを比較して作図したのが上のマップです。

ハッキリしない部分が多々あり、おおよそこんな感じと思います。

「矢吹町文化センター」の辺りに飛行場諸施設がありました。

水路部資料から当飛行場の情報を以下引用させて頂きます。

 面積 東西1,300米、南北400乃至800米 総面積80萬平方米
地面の状況 中央稍高く周圍に向け1/80乃至1/300の下り傾斜を為し稍波状に起伏せるも地上滑走の支障とならず、硬度は普通
目標 矢吹町、東北本線
障碍物 なし
離着陸特殊操縦法 離着陸方向は東又は西を可とす
格納設備 木造格納庫(20x30米)2棟あり
照明設備 (記載なし)
通信設備 (記載なし)
観測設備 なし
給油設備 航空用燃料は少量補給し得
修理設備 なし
宿泊設備 矢吹町に旅館4(収容員数計40)あり
地方風 全年を通じては北西風多し
地方特殊の気象 最近の統計に據れば快晴日数19.3、降雨日数181.6 曇天日数155、降雪日数75.7、霧日数13.5なり
交通関係 矢吹駅(東北本線)西方約1.5粁
其の他 (記載なし)
(昭和18年4月調)


 

1928年(昭和3年)9月 福島県西白河郡の矢吹が原に1機のヒコーキが降り立ちました。

当時、東京朝日新聞社は航空思想の普及と宣伝のため各地に自社機を飛ばしており、

矢吹町有志の要請に応える形で飛来したものです。

当時の矢吹が原は国営猟区の原野で、町の有志が草刈をして整地し、ヒコーキを迎えました。

機は数回の宙返りの後着陸。

ヒコーキなるものを一目見ようと、なんと5万人もの見物人が押し寄せたのだそうです。

そしてこの飛来が、後にここ矢吹が原に陸軍飛行場ができるきっかけとなりました。



その後、現在の矢吹町役場の北西に仮飛行場が設けられました。

滑走路は未舗装だったため、飛来があるたびに草刈、整地が必要で、

地元から勤労奉仕者が大勢動員されました。

1932年(昭和7年)9月18,19日には愛国福島号が、

また1934年(昭和9年)10月27日には霞ヶ浦から海軍偵察機3機が着陸しました。

 

満州事変後の戦争長期化に伴い、全国で飛行機を献納する運動がおこり、

福島県でも献金を集めて、2機の飛行機を献納しました。

1934年(昭和9年)10月28日(霞ヶ浦から海軍機飛来のあった翌日)には、 

福島県民が献納した海軍機報国福島号、陸軍機愛国福島号など4機が命名式と披露のために着陸しました。

この式は県内各界の各士と数千人の観客を集めた盛大なものであり、

こうして当矢吹が原は飛行場としての実績を重ねていったのでした。

 

報知新聞社が矢吹が原を同社の飛行場として確保、軍にも提供するという企画があり、

同社の飛行場予定地であることを示す看板が立てられていた時期もあったのだそうです。

しかし後に陸軍の飛行場候補地として注目され、

これまでもたびたび陸軍機が飛来して用地・気象など調査されており、

1937年5月23日 陸軍飛行場として正式に開場したのでした。

そして戦争の拡大から多くのパイロットが必要となり、

1940年8月25日に埼玉県熊谷飛行学校の矢吹出張班が置かれ、

分教場の開場式が行われました。

飛行場は拡張整備され、格納庫、兵舎が建設されました。

 

1943年、学徒動員令により在学中の学生も動員され、「特別操縦見習士官」として入隊しました。

戦争末期の1945年、特攻隊として特攻基地への移動が始まるようになり、

基地内の飛行機は減り、訓練も思うようにできない状態になりました。

戦局の悪化と共に当飛行場も攻撃対象となり、

5月、7月、8月に空襲を受けました。

特に8月の空襲では部隊本部の建物全焼、兵舎も壊滅、

飛行機はすべて山の中に隠したものの、これで基地の機能は失われてしまいました。

 

当基地に入隊した「特別操縦見習士官」の中に、

終戦直後のプロ野球で大変な人気を博した「青バット」の大下弘がおり、

氏は他の隊員らと共に特攻隊員として鉄路、秋田県の特攻基地に向かう途中で敗戦を知ったのだそうです。

 

終戦時、当飛行場には陸軍練習機6機、海軍偵察機1機、特別攻撃隊機数機が残っており、

整備兵により火がつけられたのでした。

その後1946年2月 飛行場跡地の開墾が始まり、美田広がる現在の姿へと至ります。

D20_0224.jpg

矢吹町文化センター東側の駐車場に飛行場の碑がありました。

D20_0225.jpg

隣にはこんなものが。

矢吹飛行場記念碑建立の記(全文)
 かつて矢吹ヶ原と呼ばれたこの地は、その名の示すごとく萱が茂り疎林が点在する原野であった。
雉、山鳥等の野鳥が多く生息し宮内省の御猟場として明治大正期の貴顕の来訪が頻繁であったと伝えられている。
 今、眼の前に展開する豊かな田園と街並からは想像すべくもないが、この地に昭和初期福島県で最初の飛行場が建設されたのである、然しその事を知る人は年々少なく間もなく忘れ去られようとしている。
近隣の地に近代的設備を誇る福島空港が開港するこの時に、今まさに歴史の中に埋没せんとしている我々の矢吹飛行場を永遠に記念し、語り継いでゆく事は意義深い事と考えられる。
  昭和初期は航空機に対する内外の関心が高まりつヽあった時代だが、昭和三年九月二十三日、草を刈り簡単な整地をしただけの矢吹ヶ原にはじめて朝日新聞社の飛行機が飛来、
上空で数回の宙返りをした後、低空旋回しながら着陸した。
当時の町民有志の熱烈な要請に応えたものであった。
そのころは飛行機を目の前で見る事はたいへん珍しく近郷近在から弁当持参で大勢の見物人が押しかけたそうである。
その後矢吹ヶ原は飛行場として注目され、町民の勤労奉仕により整備され滑走路が作られた。
昭和七年愛国福島号飛来、次いで昭和九年十月二十七日二十八日とあい次いで海軍機、陸軍機が飛来着陸した等の記録が残っている。
その後は陸軍の飛行場候補地となり、用地や気象の調査が繰り返し行われた。
その頃から国際情勢は次第に緊迫、間もなく日中戦争の勃発から長い戦争の時代へと突入して行ったのである。
矢吹飛行場は昭和十二年五月二十三日正式に陸軍の所属となり、昭和十五年八月二十五日熊谷陸軍飛行学校矢吹分校として操縦要員の養成に当る事となる。
当時の練習機は複葉で色や形の印象から住民からは赤とんぼと呼ばれて親しまれた。
然し戦火は拡大し戦況も深刻となって昭和十八年頃からは専ら特攻隊員の養成が行なわれるようになった。
隊員はじめ軍人軍属が多数来町し、町内の旅館に分宿或は民家に下宿した。
時局柄隊員達を預った家は勿論全町民あげて飛行場に協力し、隊員達を支えた事は現在も当時を知る人達の間で語り草となっている。
やがて、戦局は末期的様相を呈し、訓練を終えた隊員は次々と戦場へ飛び立ち、祖国の未来を信じ勝利を念じつヽ多くの若い命が散っていったのである。
そして飛行場は敗戦直前の米軍の爆?と機銃掃射により破壊された。
 敗戦後廃墟となった飛行場跡地は開拓のため入植した人々の筆舌に尽くし難い困難と努力の結果、今日のような豊かな田園風景へと変貌を遂げたのである。
往時を思えば誠に感無量なものがある。
 最近矢吹航空隊を語る会が元隊員の方々、当時の飛行場関係者、矢吹ふるさと塾の塾生の間で持たれ記念碑建立の運びとなった。
 戦前戦中戦後と激動の昭和を振り返る時、二度とあのような悲劇を繰り返してはならないと痛感し、世界恒久の平和を念じてこの碑を建立する。
 平成五年三月吉日

D20_0232.jpg

D20_0235.jpg


    福島県・矢吹が原飛行場跡地    

熊谷陸軍飛行学校矢吹分校増田分校の校舎は、現在の矢吹町文化センター敷地内にあったのだそうです

矢吹が原飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:福島県西白河郡矢吹町一本木
標 点:N37°12′07″E140°20′21″
*標点はグーグルアースにて算出

沿革
1928年09月23日 東京朝日新聞社機飛来
1937年05月23日 陸軍飛行場として開場
1940年08月25日 熊谷陸軍飛行学校矢吹分教場開場
1945年05月11日 空襲
      07月16日 空襲
    08月9,10日 空襲、基地壊滅
1946年02月     開墾始まる

関連サイト:
Wiki/矢吹陸軍飛行場 

この記事の資料:
「矢吹町史 通史編」
「矢吹町生活年表」
「目で見る矢吹町史」
現地の碑文
防衛研究所収蔵資料:「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 水路部」


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沼ノ端飛行場跡地 [├空港]

 2009年7月、2016年7月 訪問 

オルソa.PNG
写真:国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省
撮影年度:1975年 地区名:ウトナイ湖、勇払 編集・加工:空港探索・とり

苫小牧港のすぐ東側に、かつて「沼ノ端飛行場」がありました。

1947年撮影の写真では滑走路、誘導路の跡がハッキリ写ってます(下記リンク参照)。

上図は1975年の地図です。

肝心の滑走路は既に溶けかかってますが、

飛行場北側には室蘭本線、千歳線があり、

飛行場に最も近い目印となる明野川がカーブして日高本線と交差する箇所など、

国土地理院の1947年当時の地図から上の1975年の地図、そして現在まで、

まったく変化していない目標に恵まれていて、位置特定は容易です。

部分、まだハッキリと誘導路、駐機スペースの跡が残ってますね。

駐機スペースには無蓋/有蓋掩体壕を設けるケースが多いので、

この当時はまだまだ掩体壕が残っていたかもしれません。

 

蛇足なのですが、飛行場西側にある日高本線、1947年の写真と最近の写真では、

室蘭本線と分岐する部分の線形がどう見ても異なっていて、どういうことか??とかなり混乱したのですが、

実は日高本線、苫小牧港建設のため、1962年に線路の移設工事をしてました。

それで1962年以前の地図とは線形が異なっているのでした。

 

グーグル地図a.PNG

年代の異なる数枚の地図を参考にしてグーグル地図に重ねるとこんな感じ。

例によってフリーハンドですので、多少ズレがあると思います。

回転、サイズ変更、重ね合わせとかができるソフトが欲しくなってきました^^;

 

グーグル写真a.PNG

こちらは現在のグーグル写真。

個人的には滑走路が残ってて欲しかったのですが、残念ながら既に完全に溶けてるようです。

となると次は当然「掩体壕が残ってないか」ということになるわけです。

実は当飛行場には当時、大小35の掩体壕が造られたのだそうで、

その中の一つが溶けかかった状態で奇跡的に残っている。と記されているサイトがあります(下記リンク参照)。

現場の写真はあるのですが、場所が明記されていません。

ということで、自力で探してみることにしました。

ありそうな場所としては、

1:誘導路跡で、2:緑が残っている場所 なのではないかと考えました。

この2つの条件が重なるのが上の写真の印の場所なのですが・・・

残念ながら3時間歩いたのですが、会社の敷地内だったり、緑があまりに深くて中に入れず、

発見できませんでした。とほほ。


2016年7月にまたお邪魔しました。以下追記です。

無題4.png
1944年10月当時の写真(9122 C3 60) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)



苫小牧市立中央図書館に当飛行場関係の資料が数点あり、それらを参考に作図しました。

微妙にズレていたので苦労しましたが。

以前tuka@北海道さんから掩体壕の場所をピンポイントで教えて頂いており

(上の1944年の航空写真の赤矢印のものと思われる)、今回見に行ったのですが、深い排水路と濃い緑に阻まれ、

道路から30m先にあるはずなのに、近づくことはおろか、視認することもできませんでした。とほほ。


「目でみる沼ノ端のあゆみ」に当飛行場について記されていました。

以下、関係個所を引用させて頂きました。

陸軍飛行場の建設と勤労動員

 沼ノ端に陸軍飛行場の建設が始まったのは一九四三(昭和一八)年であった。まず、駅前から勇払方面へむかう道路の西側に滑走路の建設が始まった。当時このあたりは、灌木(低木)の林と草原の広がる土地であった。(中略)工事は、樹木を伐り根を起こし地表面を平らにならし、学校のグランド造成と同じように、滑走路に粘土を五センチ程の厚さに敷きならし、ローラで圧力をかけるというものであった。ローラは大勢の人で引いた。苫小牧の中学や工業学校の生徒たちが、勤労奉仕で動員されてきたという。沼ノ端の国民学校高等科の生徒も動員された。滑走路の長さは千数百メートルであった。この飛行場が一九四三年度中に出来上がると、隼戦闘機が訓練のためにやってきた。一時期、多いときには五十数機が、編隊飛行、急降下、急上昇、左右急旋回、きりもみ飛行、木の葉落ち飛行などの訓練を行うのを住民は見ていた。

 さらに一九四三年から翌年にかけて、勇払道路の東側に、約千五百メートルのT字型二本の滑走路をもつ、コンクリート造りの本格的な飛行場の建設が始まった。もちろん、これは後日わかったことで、当時はどの程度のものが建設されるのか、住民には判らなかった。この計画が決定するとともに、一九三五(昭和十)年に、勇払原野開拓の実践例として期待され入植していた人々は、室蘭本線北側の地に移転を余儀なくされた。

 一九四三年の十月から、沼ノ端駅構内設備の増改築が行われた。貨物一番線の延長、貨物二番線の増線、貨物二番線に堅ホーム新設、貨物一番ホーム増設、貨物上屋ならびに保管庫改築など、全て本格的な飛行場建設の資材を運び込むためであった。工事は十一月に竣工しているから、以後建設資材の受け入れが本格化したであろう。

 建設工事のため、苫小牧町だけでなく、近隣町村の一般住民、学校生徒が動員された。一般住民の場合は、町内会あるいは部落会単位で勤労報国隊が結成され、動員されたであろう。学徒の場合は、一九四四(昭和一九)年一月の「緊急学徒動員要綱」によって、一年間ほぼ四ヶ月を標準として継続的に動員を行うこととした。さらに、七月には、学徒勤労動員は国民学校高等科児童以上にまで範囲が及び、一日十時間労働の励行が決められた。八月には、「学徒勤労令」によって、従来引き続き学徒を動員させる期間は二ヶ月以内であったのが一年以内に改められた。このような状況のもとで、各地の住民、生徒、児童が動員されたのである。

 飛行場は、一九四四年中に完成した。沼ノ端には、飛行場建設を管理し、防衛する目的で陸軍の部隊が駐屯していた。兵士はテントか三角兵舎に居住し、将校は沼ノ端市街地の旅館や民家に泊まっていた。多くの人の労力とたくさんの資材が用いられた、この飛行場が完成した後、どのように使われたのか、筆者は知らない。陸軍航空隊が配備されなかったのは確かである。

まず西側の転圧式滑走路が1943年度に完成し、

次いで東側のT字型コンクリート滑走路が1944年に造られた。ということのようですね。

「コンクリート造りの本格的な飛行場」とあるのですが、1944年、1947年の航空写真(USA M589 15)で見ると、

東側T字滑走路のうち、北西~南東方向の滑走路の一部がまるでレントゲン写真のように部分的に白く映っています。

全面的にコンクリートを打設したのではなく、部分的なものだったのかもしれません。

滑走路のあった場所にお邪魔してきました。

DSC_0166.jpg

A:西側滑走路南側エンド部分から滑走路方向。

DSC_0169.jpg

B:T字滑走路東側エンド付近から滑走路方向。

DSC_0162.jpg

C:T字滑走路南側エンド付近から滑走路方向。


     小牧市・沼ノ端飛行場跡地    
前出の「目でみる沼ノ端のあゆみ」には沼ノ端駅について、飛行場建設にともなう資材の到着があったこと、召集や徴用によって現場を離れる男子鉄道員が続出したため、鉄道省では全国的に女子職員を増やして対応したことが記されていました。このため沼ノ端駅でも、十数人の女子駅員が交代で24時間の勤務に就いていたのだそうです

沼ノ端飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:北海道苫小牧市沼ノ端

・西側滑走路
座 標:N42°39′46″E141°41′48″
滑走路:1,330m×320m
方 位:15/33
標 高:6m

・東側T字滑走路
座 標:N42°39′54″E141°42′41″
滑走路:1,500m×300m
方 位:08/26
標 高:5m 
座 標:N42°39′35″E141°42′54″
滑走路:1,500m×300m
方 位:15/33
標 高:6m 
(滑走路長さは交差部含まず。座標、滑走路長さ、方位、標高はグーグルアースから)

沿革
1943年 西側滑走路着工。1943年度中に完成
      10月 沼ノ端駅構内設備の増改築工事開始
      11月 沼ノ端駅構内設備の増改築工事竣工
      この年、西側T字滑走路建設始まる
1944年 7月14日、沼ノ端初空襲。主に飛行場要地に来襲と記録あり
      この年西側T字滑走路完成

関連サイト:
苫小牧民報/「沼ノ端に2つの飛行場」  
苫小牧民報/「苫小牧市内に掩体壕」 
北海道の旧飛行場 
ブログ内関連記事
 

この記事の資料:
蝦夷古地図 地図で見る苫小牧の歴史
目でみる沼ノ端のあゆみ


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鯉沼スカイパーク [├空港]

 2009年7月 訪問 

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北海道勇払郡にある「鯉沼スカイパーク」。

 

D20_0105.jpg

北海道スポーツ航空連盟の会長さんにお会いすることができました。

とても気さくな方で、突然の訪問だったにもかかわらずいろいろお話を聞かせていただきました。

 

とても広々とした滑走路。

大きな空港は気象観測を続けて膨大なデータを取り、慎重に滑走路の向きを決定するので、

その近隣であれば、気象を大きく変える山などなければ同じ滑走路の向きで間違いないのだそうです。

こちらでは、ほど近い新千歳空港と同じ滑走路の向きになっているのだそうです。

 

D20_0110.jpg

スカイスポーツにも後継者?不足の問題があるのだそうです。

オイラも入会誘われました^^

環境は最高の場所ですので、「やってみようかなぁ」と思った方は、

下に連絡先がありますので、連絡してみてください。

 

D20_0111.jpg

 

鯉沼スカイパーク:map  


    勇払郡・鯉沼スカイパーク   

「当飛行場に関してのお問い合わせは下記までどうぞ。」とのことでした。

北海道スカイスポーツクラブ
Katsuyoshi Kawashiro
℡011-773-5006
   090-3898-4282
skysports@muse.ocn.ne.jp

鯉沼スカイパーク データ
所在地:北海道勇払郡厚真町鯉沼
座 標:N42°38′35″E141°52′43″
滑走路:320~330m
磁方位:01/19
*座標はグーグルアースにて算出

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十勝西部地区(新得)農道離着陸場 [├空港]

 2009年7月 訪問 

D20_0087.jpg

北海道上川郡にある「新得(西部地区)農道離着陸場」。

 

農道離着陸場は全国8ヵ所に作られました

北海道北見地区農道離着陸場(スカイポートきたみ)
  〃  新得町農道離着陸場
  〃  美唄市農道離着陸場(スカイポート美唄)
  〃  余市農道離着陸場(あっぷるぽーと余市)
福島県福島市農道離着陸場(ふくしまスカイパーク)
岐阜県飛騨農道離着陸場(飛騨エアパーク)
岡山県笠岡地区農道離着陸場(笠岡ふれあい空港)
大分県豊肥地区農道着陸場(大分県央飛行場)

 

今回の旅行で上の2つ、北見と、当新得にお邪魔して、これで一応全部見たのでした。

お邪魔する前にネットでいろいろ調べてはみるのですが、

他の7つが公式サイトを持っていたりするのと対照的に、

最も情報がないのがこの新得で、非常に気になってました。

ここだけ愛称もついてないし。

 

で、イザ行ってみたら、「新得」ではなく上の写真の通り「十勝西部地区」になっていて、

「十勝西部地区農道離着陸場」で検索すると、これまでは調べられなかった地元情報がいろいろ引っ掛かりました。

 

D20_0088.jpg

案の定というか、門が閉じられていてまったく人気がありません。

カメラをぐーっと左に振ると・・・

 

D20_0092.jpg

滑走路に出られるようになっています。

 

D20_0095.jpg

よく見ると、向こう側に抜けられるようになってますね。

看板には「滑走路、エプロンを許可なく使用することを禁じる」と書かれてますが、

横断するだけならいいのかしらん。

タイヤの泥もついてるし。

迷ったのですが、滑走路の方には行きませんでした。

 

D20_0094.jpg

R/W35側

 

D20_0093.jpg

R/W17側 

 

D20_0097.jpg

周辺を回ってみたら、ランウエイエンド付近に出られました。

R/W35側 

 

D20_0100.jpg

R/W17側  

供用開始からしばらくは、仙台経由で東京や関西方面に地場の農産物を運んでいた(年間約30回)

のですが、1回のフライトにかかるコストは約40万円で、飛べば飛ぶほど赤字の状態だったそうです。

 

北海道上川郡新得(西部地区)農道離着陸場:map  


    上川郡・新得(西部地区)農道離着陸場    

新得(西部地区)農道離着陸場 データ
設置管理者:新得町
所在地:北海道上川郡新得町字上佐幌東1線
標 点:N43°04′32″E142°52′37″
座 標:210.3
滑走路:800m×25m
磁方位:17/35
*座標はグーグルアースにて算出

沿革
1989年 建設計画 総事業費5億1900万円
1990年 着工
1991年 08月 滑走路800m×25m完成
      11月 付帯施設完成
1992年 07月 完成


この農道離着陸場の運営は第3セクター方式で、町、農協、西洋環境開発(株)、生産者でつくる西十勝フライト農業公社(株)などの共同体によって推進されることになりました。

事業開始当時は大規模消費圏に空輸しても採算の取れる高付加価値農産物はありませんでした。

それが可能になる農産物を作り出す計画だったのですが、この試みはうまくいきませんでした。

結局他の農道空港の例にもれず、農産物の空輸のみでは採算が取れず、

現在は多目的利用による有効活用の道を模索しているのですが、

地元議会の議事録を拝見すると、飛行場を活用したい側と地元との意識のズレがあり、なかなか難しい状況のようです。

関連サイト:
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上士幌航空公園滑走路 [├空港]

 2009年7月 訪問 

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北海道河東郡にある「上士幌航空公園空港」。

 

D20_0079.jpg

 

D20_0076.jpg

朝の5時前に到着したのですが、ちょうどドラッグレース開催日でいかにもという車が続々集結中で、

滑走路周辺は既にロープが張られ、立ち入り禁止になってました。残念。

来年もまた北海道は回る予定なのですが、ここは地理的にもう来ません。

「せっかくここまで来たからには」ということで滑走路ににぢり寄って行ったのですが、

ラップを大音響で鳴らしているお兄さんたちからすんごい機嫌悪そうに睨まれて怖かったです><

それでもオイラとしましては、これでも随分勇気を出して頑張って滑走路に近づいた方なのですが・・・ ^^;

(後でよく考えたら、お兄さんたちは単に眠かっただけかもしれません)

 

上士幌航空公園空港:map  


      河東郡・上士幌航空公園     

熱気球、ウルトラライトプレーンなどスカイスポーツの基地になっており、

年2回熱気球フェスが開催されています。


上士幌航空公園空港 データ
設置管理者:上士幌町
運用期間:5月~10月
所在地:北海道河東郡上士幌町字上士幌基線242番地
標 点:N43°14′40″E143°16′39″
標 高:283.4m
滑走路:850m×20m
磁方位:03/21

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足寄芽登飛行場 [├空港]

 2009年7月 訪問 

D20_0063.jpg

北海道足寄郡にある「足寄芽登飛行場」。

手前に左折できる道がありますね。

ここを左折すると・・・

 

D20_0062.jpg

こうなります。

周辺はうっそうと生い茂っているのですが、ここだけ突然開けた場所が広がっています。

 

やっと来ることができました。

とってもミステリアスな飛行場で、出発前から見たくて見たくて非常に楽しみにしていたのです。

飛行場入り口ですが、立ち入り禁止になっていて入れません。

カメラを右側に振ってみると、

 

D20_0061.jpg

こんな感じ。土が見えている部分が滑走路でしょうか。

 

D20_0068.jpg

道路側から撮りました。

滑走路?正面。

 

D20_0069.jpg

道路沿いに建物がありました。

画面右側のポールの上に付いているのはラジコン機でしょうか。

いいな~(*´∀`*)

 

この飛行場では足寄スカイスポーツクラブがウルトラライトプレーンを飛ばしています。

サイトを拝見すると、雪に覆われた滑走路にULPが写っており、

元旦からフライトしておられるのだそうで、「氷点下30℃もなんのその」と書かれていました。

北海道の小さな飛行場、滑空場は冬季閉鎖が当たり前なのですが、

そんな過酷な条件でも飛ぼうと思えば飛べるものなんですね~(@Д@)

きっと「寒冷地仕様」の特殊なノウハウがいろいろとあるのでしょうね。

 

足寄芽登飛行場:map  


     足寄郡・足寄芽登飛行場    

足寄芽登飛行場 データ

設置管理者:足寄スカイスポーツクラブ
運用期間:通年
所在地:北海道足寄郡足寄町芽登
座 標:N43°19′02″E143°25′52″
滑走路:350m
磁方位:01/19
*座標、磁方位はグーグルアースにて算出

関連サイト:
足寄スカイスポーツクラブ  
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北見地区農道離着陸場 [├空港]

 2009年7月 訪問 

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北海道北見市にある「北見地区農道離着陸場(スカイポートきたみ)」。

 

D20_0045.jpg

「ご自由に、お立ち寄りください」 とてもオープンな飛行場ですね。

残念ながら18時過ぎに到着したため、見学できませんでした。

 

D20_0049.jpg

案内板も周囲の風景も、いかにも北海道という感じでした。

いつかじっくりお邪魔してみたい場所です。

 

北海道北見市北見地区農道離着陸場(スカイポートきたみ):map  


  北見市・北見地区農道離着陸場(スカイポートきたみ)   

冬期閉場期間には、自動車メ-カ-による寒地走行テストなどにも利用されています

北見地区農道離着陸場(スカイポートきたみ) データ
設置管理者:北見市
空港種別:場外離着陸場
運用時間:5月上旬~12月下旬 水~日、祝祭日 9:00~17:00
所在地:北海道北見市豊田635番地3
標 点:N43°46′48″E143°43′51″
標 高:185.51m
滑走路:800m×25m
磁方位:10/28
航空管制周波数
・飛行場アドバイザリー
 女満別レディオ 118.85 126.20
 北見フライトサービス 130.75

関連サイト:
エアロスポーツきたみ  
Wiki/農道離着陸場 
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美幌航空公園 [├空港]

 2009年7月 訪問 

D20_0044.jpg

北海道網走郡美幌町にある「美幌航空公園」。

美幌町が管理する滑空場で網走川の河川敷にあります。

 

D20_0324.jpg

 

D20_0323.jpg

キレイに整備されてますね~。

 

D20_0002.jpg

土手の外側には広い駐車場があり、奥には公園も整備されています。

そしてここの大きな特徴の1つは、展示機がズラリとならんでいること。

以下、ズラズラと。


D20_0005.jpg

 

D20_0004.jpg

 

D20_0006.jpg

 


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てきさん

 

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D20_0021.jpg

オイラの実家上空をよく飛んでました。

 

D20_0024.jpg

 


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D20_0028.jpg

 

D20_0032.jpg

 

D20_0035.jpg

Σ(゚Д゚;) パイプイス?

 


D20_0036.jpg

 

D20_0039.jpg

 

D20_0041.jpg

この胴体は・・・いつ見てもエグイですねぇ。

 

美幌航空公園:map  


     網走郡・美幌航空公園    

スカイスポーツの街として、グライダー・ウルトラライトプレーン・ラジコンなど
多様なスカイスポーツ振興のための拠点となっています

美幌航空公園 データ
設置管理者:美幌町
運用時間:8:45~17:15(休日/12/31~1/2 )
所在地:北海道網走郡美幌町昭野地先
標 点:N43°48′55″E144°04′42″
標 高:18.1m
滑走路:600m×20m
磁方位:03/21
航空管制周波数 130.65

関連サイト:
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旧女満別空港跡地(旧海軍美幌第二航空基地) [├空港]

 2009年7月 訪問 

現在の女満別空港のすぐ北側に隣接する「旧女満別空港」-

空港のある大空町のサイト内にこんな説明がありました。

昭和10年のこの空港についての話です(下記リンク参照)。

元々は、冷害克服のためオホーツク海の流氷や、気象観測が目的で設置されました。
当時の中央気象台は静岡県清水市三保出張所の根岸錦蔵気象観測隊員を派遣し、
女満別村営の競馬場を滑走路に選び、村民総動員の協力により突貫工事で飛行場を完成させました。
こうして、昭和10年(1935年)3月23日に女満別の空に初の流氷観測機が飛び立ったのです。

村民総出の工事で500mの滑走路が1週間で完成したのだそうです。

その後、戦時中は海軍の航空基地として建設が進み、

終戦後は米軍の不時着場として接収され、返還後に旧女満別空港となり、

新空港に移転した後は、ボッシュ社の女満別テクニカルセンターとなりました。 滑走路はテストコースに。

旧紋別空港と似てますね。

しかし、ものすごく歴史のある、そして波乱万丈の空港だったのですね。

「大空町」という町名、2006年の女満別町と東藻琴村の合併で誕生したのですが、

いいですね~^^

 

旧女満別.PNG
写真:国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省
撮影年度:1977年 地区名:女満別 編集・加工:空港探索・とり

これはまだ「女満別空港」として現役の頃の写真です。

1977年撮影なので、新空港移転まであと8年、という時期です。

 

女満別a.PNG

これは現在のぐーぐる写真。

滑走路はすっかりテストコース場になっています。

 

D20_0306.jpg

女満別空港跡地。周囲はぐるっと高い塀に囲われています。

 

旧女満別.PNG
写真:国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省
撮影年度:1977年 地区名:女満別 編集・加工:空港探索・とり

ところでこの写真はR/W36東側部分なのですが、部分に掩体壕が残っています。

 

D20_0303.jpg

 

D20_0305.jpg

すごいですね。

通称「広告掩体」だそうです。

海軍型掩体壕特有の凸型の開口部

これは道路からも目立つ南側の掩体壕です。

もう1つの北側の掩体壕も見たかったのですが、発見できませんでした。とほほ。

 

旧女満別空港:map  


     網走郡・旧女満別空港     

現在空港跡地を使用しているボッシュ社によりますと、施設を現在の2倍に拡張する計画が進行中だそうです

旧女満別空港 データ(当時)
設置管理者:国土交通省 防衛省
空港種別:第3種空港 
所在地:北海道網走郡大空町‎女満別中央‎
座 標:N43°54′19″E144°09′51″
滑走路:1,200mx60m(コンクリート)、1,300mx80m(コンクリート) 「日本海軍航空史」より
磁方位:18/36
*座標はグーグルアースにて算出

沿革
1935年03月 中央気象台が気象観測飛行場として設置 滑走路500m
1936年06月 滑走路延長650m
1943年     海軍飛行隊 美幌第二航空基地建設開始
1945年     滑走路等一部は完成したが、連合国軍に爆破され使用不能になる
1952年     米軍、修理の上不時着場として接収
1956年04月 一部返還
      06月 北日本航空、丘珠空港線不定期運航
1958年07月 全面返還 女満別町が管理
      12月 第三種空港F級として供用開始
1961年04月 女満別町から北海道に移管 
1963年04月 第3種空港として供用開始 滑走路1,200m
1981年09月 ジェット化のため空港南側に新空港着工
1985年04月 新女満別空港供用開始、女満別空港廃止

関連サイト:
女満別空港の歴史  
国土地理院 1947年10月当時の写真(USA M577 141) (■→「同意する」→戻る→再度■をクリック)   
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女満別空港 [├空港]

 2009年7月 訪問 

D20_0224.jpg

 

D20_0226.jpg

 

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ターミナル内部

 

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展望デッキ入口

 

D20_0232.jpg D20_0233.jpg

ヒコーキ用タイヤが置いてありました。

 

D20_0232a.jpg

D20_0233.jpga.jpg

スペック部分拡大。

乗用車用タイヤと比較すると、内圧と荷重の差がすごいです。

こういう比較は興味深いですね。

 

D20_0236.jpg

展望デッキ

奥行きが大きいです。

 

D20_0237.jpg

R/W18方向

 

D20_0238.jpg

正面

個人的な感想ですが、JAL塗装のエアバス機は未だに違和感があります。

 

D20_0241.jpg

 

D20_0245.jpg

 

D20_0279.jpg

「それじゃあ またね」

 

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コックピット上部にカナードを取り付けたANA機。

現在ANAは各務原の飛行開発実験団と連携し、民間機の特殊機動飛行技術についてのテストを行っています。(嘘)

「CCV」なんて言うと、もうオッサン扱いなのかしらん。

 

D20_0261.jpg

 

D20_0286.jpg

 

女満別空港:map  


     網走郡・女満別空港      

    ビュー:☆☆☆☆★  
3Fに広い無料展望デッキあり
フェンス低く、エプロン、滑走路全域見渡せる

    施設:☆☆☆☆★  
ターミナル前に有料駐車場あり
建物は明るくキレイ
レストランあり。売店、土産物店充実している。ロイズチョコ、白い恋人、柳月など
JAL系ショップBLUE SKYあり

    マニア度:☆☆☆☆☆  
空港周辺に撮影ポイント多数
隣接する旧女満別空港と掩体壕
展望デッキ入口に展示されているタイヤ

    総合:☆☆☆☆★   
旧空港時代から歴史ある北の空の玄関口
周辺は畑、牧草地が広がり、市街地も近い

女満別空港 データ
設置管理者:北海道
3レター:MMB
4レター:RJCM
空港種別:地方管理空港
運用時間:8:00~21:00
所在地:北海道網走郡大空町
標 点:N43°52′50″E144°09′51″
標 高:33.1m
面 積:167ha
滑走路:2,500m×45m
磁方位:18/36

航空管制周波数
・飛行場管制 
 女満別タワー 118.25 126.20
・航空路管制
 札幌コントロール(北海道東セクター)127.50 132.60 134.24
 札幌コントロール(道東空域セクター)128.325 134.25

沿革
1985年04月 新空港供用開始 滑走路2,000m
2000年02月 滑走路延長 2,500m


関連サイト:
女満別空港ビル  
大空町/女満別空港  
えあぽネット/女満別空港      
北海道開発局/女満別空港     
国土交通省東京航空局/女満別空港   
Wikipedia/女満別空港  
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紋別空港(オホーツク紋別空港) [├空港]

 2009年7月 訪問 

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「オホーツク海の雄大さ、力強さをイメージ」した特徴的な外観 だそうです。

 

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流氷をイメージしたオブジェ だそうです。

 

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D20_0127.jpg

さあ、クリオネに会いに今すぐ紋別へGo!

 

D20_0135.jpg

展望デッキにやって来ました。

こんな写真を撮る人などまずおるまい~。

 

D20_0129.jpg

R/W32側。バッチリ見えます。

 

D20_0130.jpg

中央。こちらもよく見えます。

 

D20_0131.jpg

そしてR/W14側もよく見えます。

 

D20_0136.jpg

ターミナル内部

曲線で構成された天井、全面鏡張りの壁面。明るいです。

手すりには点字の案内プレートが取り付けられています。

 

D20_0169.jpg

以下、R/W14エンド付近の写真です。

 

D20_0175.jpg

 

D20_0176.jpg

 

D20_0178.jpg

 

D20_0222.jpg

ターミナルビル反対側は滑走路に沿って道路が続いてます。
(画面右側が滑走路)

現在紋別空港は東京便が1日1往復のみ。

ワンチャンスをドコから撮ろうかとせわしなく動き回り、R/W32側から撮ることに。

 

D20_0184.jpg

12:46

定刻12時50分到着の東京発ANA845便が姿を現しました。

 

D20_0192.jpg

 

D20_0196.jpg

 

D20_0200.jpg

 

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12時53分 到着~。

定刻13:35発846便になって再び東京に戻っていきます。

 

紋別空港:map  


     紋別市・紋別空港(オホーツク紋別空港)    

    ビュー:☆☆☆★★  
ターミナル2階に広い無料展望デッキあり
塀低く、エプロン、滑走路全域見渡せる    

    施設:☆☆☆☆★  
小さな売店、喫茶店あり
売店はターミナルの開いている9時~17時まで営業しているが、喫茶店、案内所は定期便が離着陸する時間帯のみ
ターミナル前に広い無料駐車場あり。
建物は明るくキレイ

    マニア度:☆☆☆★★  
展望デッキ、外周道路、撮影に適した場所多い

    総合:☆☆☆★★  
オホーツク海に面した空港
周辺は広々とした牧草地など北海道らしい風景が広がる
札幌便が2007年に廃止してしまい、現在は昼の時間帯の東京便1往復のみ。
ジェット化のためにわざわざ造られた新規空港だが現状ではその能力を十分活かし切っていない

紋別空港 データ
設置管理者:北海道
3レター:MBE
4レター:RJEB
空港種別:地方管理空港
運用時間:9:00~17:00
所在地:北海道紋別市小向
標 点:N44°18′15″E143°24′15″
標 高:17.8m
面 積:129ha
滑走路:2,000m×45m
磁方位:14/32

航空管制周波数
・航空路管制
 札幌コントロール(北海道東セクター)127.50 132.60 134.25
 札幌コントロール(道東空域セクター)128.325 134.25
・飛行場アドバイザリー
 紋別リモート 118.15

沿革
1994年04月 新空港設置許可
1999年11月 供用開始 滑走路2,000m

関連サイト:
オホーツク紋別空港     
北海道/オホーツク紋別空港     
国土交通省東京航空局/紋別空港   
Wikipedia/紋別空港    
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旧紋別空港跡地 [├空港]

 2009年7月 訪問 

D20_0114.jpg

旧紋別空港正門

現在の紋別空港から東に11キロほどの所にかつての紋別空港がありました。

オホーツク海に面していて、コムケ湖とシブノツナイ湖という2つの湖に挟まれています。

このロケーションが後に悲劇を生むことに(謎)。

現在はコンティネンタル・オートモーティブ社の紋別テストセンター/テストコースです。

 

D20_0111.jpg

かつて空港だった頃の標識が残ってました。

 

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当時のターミナルビルをそのまま使用しているようです。

ターミナルビル玄関上方には、かつての空港名に代わり、現在の所有者である会社名が掲げられています。

 

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裏手に回ってみました。(以下R/W30付近)

 

D20_0119.jpg

ご覧の通りフェンスが続いています。

 

D20_0120.jpg

かろうじて見えた滑走路面。

 

旧紋別空港:map  


    紋別市・旧紋別空港跡地   

2つの湖に挟まれた位置にあったため滑走路の延長ができず移転。廃止から約2年後、個人所有の小型機が誤認着陸してしまうというインシデントが発生しました

旧紋別空港 データ(当時)
設置管理者:紋別市、後に北海道
空港種別:第3種
所在地:北海道紋別市沼の上
座 標:N44°15′33″E143°31′55″
滑走路:1,200m×30m
磁方位:12/30
*座標、磁方位はグーグルアースにて算出

沿革
1966年07月 開港 滑走路1,200m
1973年08月 北海道の管理に変更
1999年11月 新紋別空港開港に伴い廃港

関連サイト:
Wikipedia/紋別空港    
国土地理院 1997年7月当時の写真(HO971X 16 3) (運用中)
(■→「同意する」→戻る→再度■をクリック)   
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浅茅野第一飛行場跡地 [├空港]

 2009年7月 訪問 

浅茅野第一地図.PNG

前記事の「浅茅野第一飛行場」から国道238号線でオホーツク海沿いに更に南下した所にある「浅茅野第一飛行場」。

1947年撮影の写真(下記リンク参照)からすると、滑走路位置はおおよそこんな感じ。

先ずは国道238から南下する道を通り、A地点に向かいました。

 

D20_0050.jpg

画面奥がA地点方向。すぐにこんな小道と交差します。

 

D20_0051.jpg

現在はサイクリングロードになっている天北線跡です。  

 

D20_0055.jpg

 

D20_0059.jpg

A地点付近

この道にはいくつか牧場の入り口があります。

朝の6時過ぎに周辺をウロウロしたのですが、人影はない代わりに朝露に伏した数頭の牛さんにジッと見られました。

飛行場運用当時既にあったのかは不明ですが、この道は国道238と飛行場を結ぶ3本の道の1つとして1947年撮影の写真にもハッキリ写っています。

特に滑走路西側唯一の道で、掩体壕、誘導路につながっていました。

 

D20_0063.jpg

ハイ、A地点に到着しました。

A地点の西側(方向)はこんな感じ。画面中央部をズームすると・・・

 

D20_0067.jpg

こうなります。

現存する掩体壕の一部です。

実はですね・・・この掩体壕の右側にもいくつか掩体壕が残っているのですが、

現地で写真を撮っていた時は「ココに残ってるのはこの2つだけ!」と思い込んでますた。

埼玉からはるばる行ったというのに・・・下調べ不足です。_| ̄|○ il||li

 

D20_0064.jpg

全体を撮った写真を思いっきりトリミングして、上の写真の右側部分を一応アップしておきます。

なんとなくポコポコしてるのが掩体壕だそうです。

で、この後(裏側から掩体壕が見えないかしらん)と考えて、道道732を走ってみたのですが、

緑が壁のようになってるわ、道はあらぬ方向に向かっていくわでダメでした。とほほ。

(オイラが調べた限りでは)合法的に掩体壕が見られるのはこのA地点のみのようです。


 

D20_0076.jpg

一旦国道に戻り、東に進んで再び南に延びる道を入り、B地点に向かいました。

こちらでも先ほどのA地点に向かう道同様すぐに線路跡の小道と交差します。

 

D20_0080.jpg

「飛行場前駅」

1955年に国鉄の仮乗降場として開業しました。

開業当時、飛行場は終戦でとっくに閉鎖されていましたが周囲になんにもないため、

「飛行場がないのに飛行場前」になったのだそうです。

路線廃止と共に駅が閉鎖になって今年で20年。ご覧の様子です。

駅跡から更に南下していくと・・・

 

D20_0092.jpg

 

D20_0095.jpg

B地点付近から道沿いにいくつか古い構造物が現れます。

上2つは同一のものです。橋脚跡?

 

D20_0097.jpg

ちょっと行った先にも似たようなものが。これも橋脚跡?

 

D20_0103.jpg

門柱跡だそうです。

 

D20_0106.jpg

こちらは水槽の支柱だそうです。

 

D20_0108.jpg

滑走路周辺と思われる辺り。

飛行場だった範囲の道路を全部通ってみたのですが、

上記以外の古い構造物、滑走路跡等特に発見することはできませんでした。

 

浅茅野第一飛行場:map  


 

    宗谷郡・浅茅野第一飛行場跡地   
浅茅野第一/第二飛行場建設には大勢の朝鮮人労働者が動員され、冬期間も続けられた苛酷な工事により多数の犠牲者を出したのだそうです。

浅茅野第一飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
種 別:軍用陸上飛行場
所在地:北海道宗谷郡猿払村浅茅野及び枝幸郡浜頓別町
座 標:N45°11′24″E142°14′39″
面 積:120ha
滑走路:1,200m×60m 板敷き
   1500m×300m 転圧(未完成)
   1200m×150m 転圧(未完成)
磁方位:03/21
*座標、磁方位はグーグルアースにて算出

沿革
1942年 06月 着工
1943年 秋滑走路完成
1944年 秋(冬?) 完成
1945年 09月閉鎖

関連サイト:
Wikipedia/浅茅野飛行場   
国土地理院 1947年9月当時の写真(USA M513 19) (■→「同意する」→戻る→再度■をクリック)  
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