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阿賀野川河口付近 [├場所]

このところ著しくヒコーキ分が不足している当ブログでありますが、今回はヒコーキの記事です。

先日また新潟空港に行ってきました。

 

前回行った時→ は、

「午後2時~午前7時までこの先通るべからず。10月31日まで」

という看板があったためにRW28エンドに近寄ることができず、泣く泣く引き返しました。

それで今回は、近くでお弁当を調達して真っ先にRW28エンドへ。

 

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RW28エンド。

今回来てみたら、「この先通るべからず」という看板はなくなってました。

昼休みのために駐車している一般車両も多いのですが、奥に停まっている車ほどマニア度が高いです。

この画面で左側が空港です。

左を向くと・・・

 

9552282.jpg

こんな感じです。

 

9551647.jpg

滑走路から少し離れた場所までは近づくことができるのですが、

相変わらず滑走路のすぐ側まで行くことはできません。

行く手を阻むフェンスには「10月○日まで工事」と書かれてました。
(何日だったか忘れてしまいました。確か月末だったかと すみません)

見るからにそのスジの方だと分かる年配の男性と少しお話する機会があったのですが、「工事が終わっても自由に通れるようにはならないんじゃないかなぁ」と仰っていました。

自由に通れるようになって欲しいのですが・・・。 

 

9551645.jpg

 

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フェンス近くは本格的に腰を据えて撮影するヒコーキ道の有段者たちに占められていて盛り上がってました。

小心者のオイラはその輪の中に入っていけず、少し離れた場所から撮影しました。

まずは読売新聞社のセスナ サイテーション 560V Encore+ 「みらい」

タッチ&ゴーを繰り返してました。

 

9551650.jpg

Private:Piper PA-32R-301T Saratoga SP

 

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JA8387:ANA A320-200    All Nippon767/12:20発 札幌行き

1時間半ほどいる間に、何人か立ち入り禁止のフェンスを越えて奥に入っていきました。

いづれもゴルフ練習、釣りの人たちでした。

この場所には何度か来ていますが、ヒコーキ撮影の人たちがフェンスを越えるのは見たことがありません。

一部のマナー違反が後々手痛い代償としてヒコーキファン全体に跳ね返ってくるあちこちの現状を知っているからでしょうか。

その後空港の展望デッキに移動。

 

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ウラジオストク航空Tu-154M 

 

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ちょっと無駄に大きい画像という気がしますが、Tu-154Mのエンジン。

ソロヴィヨーフ製 D-30KU-154-II 内部のアップです。

ターボファンエンジンなのですがファンの前に固定式の羽があります。

この固定式の羽、湾曲していて角度がついているように見えるのですが、静翼なのでしょうか??

 

 

この後は目ぼしいヒコーキはしばらく来ないので、また新日本海フェリーを見に港に移動しました。

続きます。


 

9551651.jpg

おまけ:RW28エンド側にいた水鳥。

水面に波が発生しています。

波が鳥の前方にも発生していることから、この鳥の泳ぐ速度が音速以下であることが分かります。 

 

アスランマリオさん

言われたとおり白黒にしてみました。

 

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な、なんかシブいっすね^^


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~新潟空港阿賀野川側からの撮影情報~ [├場所]

というほどのことでもないのですが。

 

以前も少し書きましたが、
新潟空港入り口の交差点からR113を新発田方面に進み、松浜橋交差点(阿賀野川の橋のすぐ手前の信号)を左折すると、川を右手に見ながらの土手道になります。

そのままゆるゆる進んで行きますと、間もなく左手に滑走路が見えてきます。

ここが有名な新潟空港RW28エンド側の撮影スポットです。

こちらが風下ならば離陸機は目の前までタキシングして飛んでいきますし、

着陸機はすぐ頭上を通過していきます。

 

残念ながら現在は滑走路の延長線上まで行くことができず、少し手前で行き止まりになってしまっています。

ところがです。

先日行きましたらば、信号を曲がってすぐのところに看板が出ており、

「午後2時~午前7時までこの先通るべからず。10月31日まで」

となっていました。

 

時計を見ると、午後1:57。

一休さんのようなトンチも度胸もないオイラは泣く泣く引き返しました。

早く全面解除になれ~

 


(以前アップしたものですけど)こんなのとか

 

こんなのとか。水鳥もいっぱいいますヨ。


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所沢航空記念公園 [├場所]

前記事で、「所沢の航空発祥記念館でYSの企画展開催中!」と書きました。

今回はこの記念館のある、「航空公園」のことを書いてみたいと思います。

 

所沢航空発祥記念館の最寄り駅。

駅名、そして時計からしてすでに空の雰囲気がいっぱいです。

 

駅前に出てふと目を向けると、いきなりYSが出迎えてくれます。 

YSの実機が駅前に置いてある・・・。

なんつー贅沢な駅でしょう。

流石に「航空公園駅」と名乗っているだけのことはあります。

 

 

YSとの思わぬ対面にウルッときても、ちゃんと上を向けるモニュメントがあるから大丈夫!

オイラが見ていたときも、大勢の人がコレを見上げて涙を堪えてました(ウソ

 

好きな角度から好きなだけぐる~りと眺めることができます。

 

一方こちらは、公園の正面入り口(かな?

 

入り口を抜け、広々とした歩道を歩き出すと、前方に白い塔が見えます。

「あれはナンだろう??」と、塔に誘われ進んでゆくと・・・

 

記念館の前に出ます。ちなみに駅は、画面左側の方にあります。

では中に入ってみましょう。 

 

中にはいろんなヒコーキが展示されています。

 

ノースアメリカン T-6G テキサン 

 

てきさん操作盤のアップ

 

こんな骨董品のヒコーキもあります

 

ハイ、もう出てきました(早

記念館の前に展示されている カーチス・ライト社製輸送機 C-46A

 

 

 

 

 

記念館の前にある日本初の滑走路跡地と説明板。

 

というわけで、どうしてこの建物が「航空発祥記念館」というのか、わかるようになっています。

 

ところで、ココに来たら是非とも撮りたいと思っているものがありました。

この公園には、↓が隣接しているのです。

この管制部の建物を是非撮りたいっ と思っていたのですが

 

 

入り口では2人の警備のおじさんが目を光らせており、ヘタレなオイラは金網越しにこんな写真を撮るのが精一杯でした。

 

記念館の近くに、よく目立つこんなものがあったので、「おお、これがたくさんのヒコーキにデムパを出しているんだな!」と思っていたのですが

 

別の角度から見たら、なんか見覚えのあるマークが・・・(ガクッ!

 

こちらが正真正銘本物の、ヒコーキにたくさんデムパを出している塔です。

 

この後オイラは、駅も使わず、正面入り口(?)も通らず、裏口からこそこそ帰りましたとさ。

 

 

やあみんな!変人怪人43号だよ! 最近お肌の荒れが気になり始めたんだけど、でも美白だからね、それだけは言っとくよ!

みんなで航空公園に来てね~~!

(しまふくろうさんのマネをしてみました

 

 

航空公園


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御巣鷹山の事故のこと [├場所]

■当時高校生だったオイラは,たまたまスイッチを入れたラジオで事故のことを知った。墜落地点の情報が錯綜しており,地図を開いてコロコロ変わる地名を夢中で追い続けた。事故のことはその後もずっと気にかかっていた。古い表現だが心の中にずっと重い石が引っかかっているような感覚だった。

■数年経って車に乗るようになり,遠出の自信もついた頃,ふと御巣鷹に行ってみようと思った。そこは国道からそれ,未舗装の凸凹道を延々と走り,それからさらに険しい山道を1時間近く徒歩で登らねばならない場所だった。確か休日か何かで,山道でたくさんの人とすれ違った。周りの空気を読むのが鈍いオイラだけど,自分が恥ずかしくてたまらなくなった。単なる見学で来ている人と,遺族とで,その表情や雰囲気があまりにも違い過ぎるのだ。”たくさんの犠牲者を出した悲惨な事故”なんだと,なんとなく分かっているつもりでいたのに,数年経って尚遺族の方にとってその事故がどれだけ残酷なものであり続けたのか,ほんの僅かな部分にしか過ぎないのだろうけど,思い知らされた気がした。事故現場に向かう途中,次から次に遺族の方たちとすれ違った。悲しみに暮れた顔,顔,顔・・・。興味本位でフラリと来てしまった自分が恥ずかしくて,現場の碑を見て,逃げるように山を降りた。

■瞬く間にあの事故から20年が経った。書店には関連本がたくさん置かれている。その中の一冊に,事故当時のボイスレコーダーを収録したDVDが付録のものがあった。コックピット内は混乱し,管制官との無線交信はおろか,乗員同士のコミュニケーションもきちんと行えていない。パイロットたちは最後まで機体の外観がどう変化しているかすら知ることができなかったのだ。しかも事故から20年も経つというのに,未だにその原因については諸説が入り乱れている状態だ。多数の乗客の命を預かっている重責と,「一体どうなっているんだ!!」という,極限状態の中で翻弄され続け,それでも精一杯の努力を最後までやめなかった彼らのことを思うと,なんともいえない気持ちになる。

■「過去の修理ミスが原因なので,この機だけの問題だ。世界中で飛んでいる他のジャンボは大丈夫。」ボーイングと事故調の出した事故原因には,当初から疑問の声が上がっていた。「そうではない,これは基本設計の問題だ。ボーイングは保身のためのごまかしをしている。今に似たような事故が必ず起こるであろう。」という声が上がった。「10年以内にまた必ず事故は起きる!」というような題の本も出た。ジャンボが初飛行をしてから約15年後にこの事故は起きた。そしてそれからさらに20年が経った。事故前より,事故後の方がジャンボの歴史は長くなった。その間もジャンボの機数は増え続け,機齢は上がり続けている。しかし同様の事故は起こらない。それで今度は他の説が現実味を帯びてくる。説はオイラが知るだけでもいくつもあり,それぞれが「自説こそ正しい」と唱え,他説の不備を示している。真相は一体何なのか・・・。正直オイラにはまったく分からない。20年前に引っかかった石は,色と重さを変えて,未だ同じところに引っかかっている。

■ボイスレコーダーを聞いてから数日後,仕事で外にいる時に,突然身体が恐怖で硬直するような生まれて初めての感覚を味わった。ボイスレコーダーのマイクは,破損した垂直尾翼の風切音も拾っていた。パイロットたちの懸命なやり取りの後ろで,機体の姿勢の変化に合わせて,周期的に鳴り響く不気味な風切音。あの風切音と似た音が不意にどこからか聞こえてきて,身体が勝手に反応したのだ。これは軽い”PTSD”とか”フラッシュバック”とかなのだろうか。遺族でも何でもないオイラですらこうなのだ。遺族の方や関係者のこれまでの,またこれから先の心境はいかばかりか。

 

もう2度とあんな事故は起こらないで欲しい。  

御巣鷹山


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太平洋無着陸横断への挑戦 [├場所]

青森県三沢市淋代海岸 

かつてここは太平洋横断の舞台となった

これは,1930~32年にかけて行われた5組の男たちによる挑戦の記録である。
                                         (○ロジェクトX風)

 

1組目の挑戦者:ブロムリー,ゲッティー/タコマ市号

1930年8月
 8日 飛行機と共に横浜港に到着。霞ヶ浦飛行場を出発地に決定する。
19日 霞ヶ浦飛行場到着。
30日 離陸失敗。(重量過大のため,離陸速度に達せず)
     →周囲に障害物がなく,大圏コース(後述)の場所を探すことにする。

1930年9月
 3日 青森県三沢村周辺を調査。淋代海岸を使用することに決定。 
 7日 タコマ市号 淋代海岸に着陸。
14日 淋代海岸を離陸。悪天候と,エンジン故障による排気ガスの機内
     入り込みにより,横断を断念,引き返す。
15日 濃霧により方向感覚を失い,青森県下北郡尻労海岸に不時着。
17日 再挑戦のため,再び淋代海岸に戻るが,ガス中毒の後遺症が回復せず,
        計画を断念。
29日 飛行機を淋代海岸から,立川飛行場に移動。格納庫にて保管する。

1930年11月
21日 ガス中毒後遺症のため静養中のゲッティーを残し,ブロムリーは帰国。
     出港の際,「来年3月に再挑戦する」と述べる。

 

2組目の挑戦者:トーマス・アッシュ/パシフィック号

1931年4月
11日 1組目の挑戦者が使用した機体の使用権を得る。
         中島飛行機技師らと共に機体の修理と整備を行う。
21日 朝日新聞社に懸賞金挑戦の申し込み,宿泊先の帝国ホテルにて
        横断計画の正式発表。

1931年5月
 7日 青森県到着。村長から淋代海岸を案内される。
29日 立川飛行場から淋代海岸へ機体を移動。翌30日に出発することを決定。
30日 悪天候のため出発できず。
31日 離陸を試みるも,回転数上がらず離陸に失敗。

1931年6月
 1日 性能不足を理由に計画断念。
 3日 機体は再び立川へ戻され,保管される。

 

3組目の挑戦者:モイル,アレン/クラシナマッジ号

1931年8月
 6日 横浜港に到着。1組目,2組目が使用した機体の改造に着手,8月末に完成。
31日 初試験飛行。

1931年9月
 3日 日本航空輸送の格納庫にパングボーンら(4組目の挑戦者)を訪問する。 
 5日 立川から淋代に機体移動。
 6日 天候不良のため離陸断念。
 7日 天候不良のため離陸断念。
 8日 淋代海岸を離陸。燃料漏れ,悪天候により,横断を断念。
 9日 無人島に不時着。
12日 無人島を離陸し,ベーリング海西岸,ロシア領マイノビリグインに着陸。
14日? マイノビリグイン離陸。

1931年10月
 7日? タコマ市に着陸。(3度目の挑戦で機体は一応アメリカに戻った)

 

4組目の挑戦者:パングボーン,ハーンドン/ミス・ビードル号

1931年8月
 6日 ハバロフスク飛行場より立川飛行場に飛来。飛行許可を得ずに飛来したため,
        取調べを受ける。許可が下りるまでの間,機体の改造を行う。

1931年9月
27日 機体改造後,初の試験飛行。
29日 機体を立川から淋代に移動。

1931年10月
 4日 7:01 淋代海岸を離陸。
 6日 0:14(日本時間) アメリカ ウェナッチに着陸。
      太平洋無着陸横断 記録達成
      所要時間:41時間13分

 

5組目の挑戦者:本間,馬場,井下/第三報知日米号

1932年9月
10日 羽田飛行場から淋代海岸に着陸。
         滑走路の整備を行い,出発日を15日に決定。
15日 悪天候のため出発断念。その後天候回復せず,出発が大幅に遅れる。
24日 淋代離陸。間もなく通信途絶。遭難と断定。機体,遺体共に発見できず・・・。

 

 

その他追加

 5組以外の挑戦: 
  某アメリカ人が,米国からの無着陸横断を発表。また,日本人による無着陸横断,島伝いの横断がいくつか企画されたが,いずれも実現しなかった。また,1組目の挑戦者の1人であるブロムリーは,1929年7月29日に,ワシントン州タコマ飛行場からの無着陸横断を試みたが,離陸に失敗。機体は大破してしまう。(日本人による達成者が出たら,絶対”プロジェクトX”で紹介されたと思う)

 

 淋代海岸が選ばれた理由: 
   特に青森県が選ばれた理由として,地球が球形であることを考慮に入れた最短コース(大圏コース)であることが挙げられる。本当は北海道の方がさらに有利だったが,太平洋無着陸横断の懸賞金を得るための条件の1つに,「日本は本州内を離着陸地とすること」という条項が含まれていたため,本州では最も米国に近い大圏コースとなる青森が選ばれた。
  その青森県でも特に淋代海岸が選ばれた理由としては,2000メートルの滑走路が十分に取れ,起伏もほとんどないこと,陸から流れた粘土と,海岸一帯に層を成している砂鉄が交じり合い,波打ち際まで固い岩盤を形成しており,ハーフ・ベイクド・クレイ(=半焼粘土)と形容される状態であった。整備すると容易に滑走路を作ることができること,給油などの手配が容易であること,などが挙げられる。

 

  淋代海岸が選ばれた経緯: 
  日本側からの横断を最初に試みたのはブロムリーとゲッティーだった。2人は当初,出発地として立川飛行場,霞ヶ浦飛行場を計画していた。しかし長距離飛行のために燃料を満載にすると,滑走路が短すぎて離陸できないことが判明する。そのため別の飛行場を探すことになる。
  当時立川飛行場にいた所長が自ら飛行した経験から,青森県八戸市から野辺地町にいたる海岸線周辺に白羽の矢が立つ。さらに所長はつてを頼り,青森県十和田市在住の元海軍航空隊所属の少佐を紹介してもらい,この少佐の尽力により周辺のいくつかの候補地の中から最終的に淋代海岸に決定した。
  この飛行場の名称として幾つかの案が出たが,最初に淋代からの飛行を行ったブロムリーとゲッティーは,「少佐が見つけてくれた飛行場だから」ということで,少佐の名前に因み,「大田エアポートがいい」と主張して譲らなかったという。

 

  記録達成の経緯: 
  それまでの3組が最初から太平洋横断挑戦のために来日したのに対し,ミス・ビードル号で太平洋横断無着陸飛行に成功した2人(クライド・パングボーンとヒュー・ハーンドン)は,当初世界一周の最短記録に挑戦していた。しかしハバロフスクに到達した時点で時間遅れのため,挑戦を断念する。ハバロフスク滞在中に偶然太平洋横断に懸賞金が懸かっていることを知り,急遽予定を変更し,来日。
  日本から正式の許可が下りるまでの間,機体の航続距離を伸ばすための改良を施した。尾輪式の大きな前輪は,離陸後に支柱もろとも落下できるようにした。車輪を切り離すので胴体着陸になるが,胴体も衝撃に耐えられるよう改良を施す。さらに,燃料を余分に200リットルつめるようにした。1931年(昭和6年)10月4日午前7時1分,淋代海岸を離陸。41時間13分の飛行の後,米国ワシントン州・ウェナッチに無事着陸した。

 

  三沢村について:
  いくつか資料を見たが,金さえあれば大抵のものはそろってしまう現代とは異なり、非常に不便な当時のことであり、当時の三沢村の人々の多大な協力なしにこの記録は達成できなかっただろうということをつくづく感じた。食事,宿泊等身の回りの一切の世話を行ったが,わざわざ西洋風料理の勉強までして食材を取り寄せ,食事を提供するという歓待ぶりだった。また村長の呼びかけのもと,離陸挑戦のたびに村の人々が総出で海岸の転圧整備を行い,離陸可能な状態にしている。まさか10年後には敵同士になろうとは夢にも思わなかっただろう。  離陸機にはフライト中の食事も積み込まれたが,その中に地元のリンゴも含まれていたという。後日,米国側から感謝の印としてリンゴの苗が送られた。この苗は農業試験場で現在も実をつけているという。最近になって三沢市と着陸地であるワシントン州ウェナッチ市は姉妹都市となった。

関連サイト:
三沢国際クラブ   


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