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富高飛行場跡地 [├空港]

 2009年10月 訪問 

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*資料:しらさぎ公園展示地図

飛行場跡地は道路が整備され、すっかり市街地へと変わりました。

整然とした道路が整備されていますが、滑走路の方向とは少しズレていますね。

協和病院から日向自動車学校にかけての周辺(A地点)の道路にかろうじて当時の滑走路方向の名残が残っています。

 

A: 協和病院

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協和病院玄関前の舗装面には一部色の異なる部分があります。

特攻基地滑走路跡(全文) 
ここ病院の敷地一帯は、太平洋戦争中には「富高海軍航空隊基地」とし特に戦争末期には第一線基地とし又特攻基地として重要な役目を果たしていました。この案内板の前にありますコンクリート部分は 当時の滑走路の一部でありまして、戦時中そのままのものであります。 現在の平和の前にはこのコンクリートの滑走路から特攻機が飛び立ったのです。恒久の平和を願う為にこの滑走路を保存するものです。

 

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1957年、当病院が開設される時、初代理事長の切望により残されたもので、

氏は中学時代に学徒勤労動員で本飛行場の拡張工事、掩体壕作りに参加しています。

病院は将来に渡って滑走路の原型を残したい考えなのだそうです。

 

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病院裏手(塩見川側)にある「神風特別攻撃隊出撃之地」の碑

当病院の所に戦闘指揮所があり、特攻に行くひとがあると黄色い旗が立ったのだそうです。

 

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碑の隣にある「爆弾ノ痕」 直径12m,深さ3m

艦載機の250キロ爆弾の跡ではないかとされているそうです。

 

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B:料金所前

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小倉ヶ浜有料道路 料金所前

 


C:小倉ヶ浜海岸

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料金所前から浜辺に出るとこんな場所。

真珠湾攻撃のために水平爆撃隊は鹿児島湾で、

そして急降下爆撃隊はここ小倉ヶ浜海岸の岩場を目標に猛訓練をしていたのだそうです。

ネット等では、「目標となった岩は小さくなってしまったがまだ残っている」と説明されていました。

多分この岩のことだと思うのですが。

 


D:しらさぎ公園

 

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しらさぎ公園にある「富高海軍航空隊跡地プロペラ展示施設」(全文)
この地は昭和4年(1929年)に富高飛行場として発足以来、終戦までは富高海軍航空隊基地として予科練、予備学生等、大空を夢見た若き搭乗員の高度な技術育成のため、通称「赤とんぼ」の中練機で日夜訓練を重ねたのである。またこの基地が開戦当初のハワイ真珠湾奇襲作戦の訓練基地であり、お倉ヶ浜沖の岩場が爆撃投下の攻撃目標として訓練され今ではその岩場も小さくなって残っている。更に神風特攻隊の出撃基地でもあり、多くの若者たちが祖国の勝利と安泰を信じて、ここから飛び立ち二度と帰ることはなかった。その跡地に海上自衛隊のご厚意により借用したプロペラを展示し、「富高海軍航空隊」の史実と世界恒久平和を後世に語り継ぐとともに、二度と戦争を起こさないことを誓うものである。
平成15年6月5日設置

展示物 KM-2型航空機用プロペラ
型式:HC-A3x20-1E
直径:90インチ(228.6cm)
重量:98ポンド(44.4kg)
底辺の長さ:198cm
高さ:171.5cm

この公園の場所が分からなくて、何人かの方にお聞きしたのですが「しらさぎ公園」という名称はあまり知られていないようで、

「プロペラが展示してある公園」とお聞きしたら一発で通じました。

 


E:掩体壕の一部

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掩体壕の一部と説明板

当飛行場の掩体壕はすべてなくなってしまい、現在ではこの掩体壕の一部分が僅かに残るのみだそうです。

「一部が残っている」 ということと、「往還の公民館の近く」ということしか分からず、随分探しました。

10人位の方にお聞きしたのですが、みなさん掩体壕はすべて消えてしまったと思っておられるようでした。

結局、往還の公民館北側の交差点で発見。見つけてみれば大きな交差点にあり、非常に目立ってます。

一番上の地図の緑丸は、消滅した掩体壕群の場所です。

 

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説明板にあった掩体壕の写真

防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:富高 建設ノ年:1940 飛行場 長x幅 米:1800x1000芝張ノ内700x60 600x60コンクリート 主要機隊数:小型練6.0 主任務:教育 隧道竝ニ地下施設:居住、指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、魚雷調整場、魚雷格納庫、工業場、倉庫 掩体:中型小型無蓋48

富高飛行場:map  


     宮崎県・富高飛行場跡地     

富高飛行場 データ
設置管理者:旧海軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:宮崎県日向市
座 標:N32°24′30″E131°38′03″
面 積:132.2ha
滑走路:700m×60m,600m×60m 「日本海軍航空史」(終戦時)より
方 位:18/36,17/35
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1929年 01月 町側のあっせんで海軍が三千町歩の用地買収の契約が整い、実地視察
      03月 下旬に用地買収終了
      04月 着工。砂地が多くしまりが悪いため、県庁のハンドローラー借り入れ
      06月 開場。常駐者のいない臨時の訓練飛行場となる
      07月 03日、冨髙飛行場に飛行機16機飛来
      飛行場用地ははじめ7万坪だったが、二回目の拡張工事で16万坪、三回目の拡張工事で約40万坪となる
1930年 陸海軍による演習が盛んに行われるようになる
1935年 最後の拡張工事終了
1941年 10,11月 真珠湾奇襲作戦の訓練が行われる
1944年 03月 冨髙上空で米艦載機と富高飛行場の零戦が空中戦
      当時当飛行場は築城航空隊富高分遣隊となっており、練習生300人、練習機は30機であった
      11月 冨髙海軍航空隊として独立。練習航空隊の指定を受け、陸上操縦教育を行う
1945年 02月 燃料、機材の不足から当飛行場での搭乗員教育が中止される
      03月 冨髙航空隊廃止。同航空隊から編成された特攻隊が岩国に移動。5月まで夜間体当たり訓練を実施
      04月 菊水一号作戦(特攻作戦)開始。冨髙は鹿屋への中継地となり若い特攻隊員が川辺で過ごす姿が見られる
          21,22日 B29による爆撃を受ける。格納庫をはじめ甚大な被害を受ける
      08月 終戦時、零戦20機残存

関連サイト:
国土地理院 1947年11月当時の写真(USA R169 57) (■→「同意する」→戻る→再度■をクリック)   
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この記事の資料:宮崎の戦争