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六郷(明田地)飛行場跡地 [├空港]

 2009年9月 訪問 

無題5.png
1948年5月当時の写真(USA R270 120) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


位置情報は地元美郷町立美郷中学校様サイトから頂きました(下記リンク参照)。

D20_0118.jpg

秋田県「六郷飛行場」のあった「六郷明天地野(ろくごうみょうてんちの)」

現在は美しい水田が広がっています。

2017/1/15追記:美郷町民さんから情報頂きました。地元では「明田地(みょうでんじ)飛行場」と呼ばれていたようです。

地元中学で当飛行場について調査したサイトのリンクを貼って頂きました。美郷町民さんありがとうございましたm(_ _)m

話は「佐藤章(元要蔵)」という人物から始まります。

彼は秋田県仙北郡仙南村の出身で、民間飛行家の草分的存在であり、郷土の英雄でした。

「郷土訪問飛行がしたい」という当人の希望で選ばれたのが、

出身地のすぐ東隣にある六郷町の明天地野という原野でした。

「郷土訪問飛行」は1919年11月9日に行われました。

当時彼は群馬県の中島飛行機の社員だったのですが、

直接飛行機で乗り付けたのではなく、機体は貨車で最寄の飯詰駅に送られました。

中島式四型を使用しての訪問飛行にはなんと6万人の観衆が詰め掛けたのだそうです。

 

2年後、再び郷土飛行を行う予定だったのですが、同年彼は飛行機事故で命を落としてしまいます。

そして佐藤飛行士が搭乗予定だった飛行機は、別のパイロットによって1924年に明天地野に飛来しました。

後援会、秋田県民の支援で製作されたこの「秋田号」はその後陸軍に寄附されたのでした。

こうして中央航空界との縁ができ、数名の飛行士が飛来しました。

 

佐藤飛行士が明天地野に降り立ってから26年後の1945年5月、

軍命でこの明天地野に飛行場の造成が始まりました。

佐藤飛行士が離着陸で使用したすぐ東側に位置する2,000mの滑走路で、

整地して野芝を敷いただけの簡単なものでした。

滑走路の予定地にかかり、移転させられた屋敷もありました。

また飛行場跡近くには、「飛行機離着陸の支障」を理由に途中で切られてしまった松が今も残っています。

切られて以来、枝は横に広がるだけなのだそうです。

整地作業には地元だけでなく、仙北郡内から多くの児童生徒が駆り出されました。

動員されたのは4年生以上で、毎日のように作業し、大八車で芝運びをしたこともあったのだそうです。

現在の大曲高校の女生徒たちは、大曲から徒歩で鍬を担いで来て、石を拾い、地ならしする作業をしたのだそうです。

 

作業中の7月25日、飛行機が数機飛来し旋回するので手を振って迎えたところ、なんとそれは米軍の戦闘機で

機銃掃射を浴びせてきたため慌てて林の中に隠れて命拾いをするという出来事もあったのだそうです。

多大の労力を費やした飛行場でしたが、結局ここから日本軍機が飛び立つことはありませんでした。

戦後の開拓で滑走路を含む一帯はすべて水田に姿を変え、当時の面影は何も残っていません。


    秋田県・六郷(明田地)飛行場跡地   

六郷(明田地)飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:秋田県仙北郡美郷町六郷明天地野
座 標:N39°24′14″E140°34′46″
滑走路:2,000m×200m(1,500mx200mという資料あり)
磁方位:02/20
*座標、磁方位はグーグルアースにて算出

沿革
1945年05月 飛行場の造成始まる
     06月 下旬 ほぼ完成
         戦後進駐軍機飛来。 その後は開拓地に

関連サイト: 
美郷町立美郷中学校/旧陸軍六郷飛行場  
六郷飛行場 六郷に飛行場を造ることになったいきさつ等記されています。

この記事の資料:
六郷町史
秋田魁新報