So-net無料ブログ作成

矢吹(矢吹が原)飛行場跡地 [├空港]

 2009年9月 訪問 

無題6.png
1947年11月当時の写真(USA M627 500) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


防衛研究所収蔵資料:「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 水路部」の中に当飛行場の地図と情報がありました。

資料の地図、1947年の航空写真、グーグルマップを比較して作図したのが上のマップです。

ハッキリしない部分が多々あり、おおよそこんな感じと思います。

「矢吹町文化センター」の辺りに飛行場諸施設がありました。

水路部資料から当飛行場の情報を以下引用させて頂きます。

 面積 東西1,300米、南北400乃至800米 総面積80萬平方米
地面の状況 中央稍高く周圍に向け1/80乃至1/300の下り傾斜を為し稍波状に起伏せるも地上滑走の支障とならず、硬度は普通
目標 矢吹町、東北本線
障碍物 なし
離着陸特殊操縦法 離着陸方向は東又は西を可とす
格納設備 木造格納庫(20x30米)2棟あり
照明設備 (記載なし)
通信設備 (記載なし)
観測設備 なし
給油設備 航空用燃料は少量補給し得
修理設備 なし
宿泊設備 矢吹町に旅館4(収容員数計40)あり
地方風 全年を通じては北西風多し
地方特殊の気象 最近の統計に據れば快晴日数19.3、降雨日数181.6 曇天日数155、降雪日数75.7、霧日数13.5なり
交通関係 矢吹駅(東北本線)西方約1.5粁
其の他 (記載なし)
(昭和18年4月調)


 

1928年(昭和3年)9月 福島県西白河郡の矢吹が原に1機のヒコーキが降り立ちました。

当時、東京朝日新聞社は航空思想の普及と宣伝のため各地に自社機を飛ばしており、

矢吹町有志の要請に応える形で飛来したものです。

当時の矢吹が原は国営猟区の原野で、町の有志が草刈をして整地し、ヒコーキを迎えました。

機は数回の宙返りの後着陸。

ヒコーキなるものを一目見ようと、なんと5万人もの見物人が押し寄せたのだそうです。

そしてこの飛来が、後にここ矢吹が原に陸軍飛行場ができるきっかけとなりました。



その後、現在の矢吹町役場の北西に仮飛行場が設けられました。

滑走路は未舗装だったため、飛来があるたびに草刈、整地が必要で、

地元から勤労奉仕者が大勢動員されました。

1932年(昭和7年)9月18,19日には愛国福島号が、

また1934年(昭和9年)10月27日には霞ヶ浦から海軍偵察機3機が着陸しました。

 

満州事変後の戦争長期化に伴い、全国で飛行機を献納する運動がおこり、

福島県でも献金を集めて、2機の飛行機を献納しました。

1934年(昭和9年)10月28日(霞ヶ浦から海軍機飛来のあった翌日)には、 

福島県民が献納した海軍機報国福島号、陸軍機愛国福島号など4機が命名式と披露のために着陸しました。

この式は県内各界の各士と数千人の観客を集めた盛大なものであり、

こうして当矢吹が原は飛行場としての実績を重ねていったのでした。

 

報知新聞社が矢吹が原を同社の飛行場として確保、軍にも提供するという企画があり、

同社の飛行場予定地であることを示す看板が立てられていた時期もあったのだそうです。

しかし後に陸軍の飛行場候補地として注目され、

これまでもたびたび陸軍機が飛来して用地・気象など調査されており、

1937年5月23日 陸軍飛行場として正式に開場したのでした。

そして戦争の拡大から多くのパイロットが必要となり、

1940年8月25日に埼玉県熊谷飛行学校の矢吹出張班が置かれ、

分教場の開場式が行われました。

飛行場は拡張整備され、格納庫、兵舎が建設されました。

 

1943年、学徒動員令により在学中の学生も動員され、「特別操縦見習士官」として入隊しました。

戦争末期の1945年、特攻隊として特攻基地への移動が始まるようになり、

基地内の飛行機は減り、訓練も思うようにできない状態になりました。

戦局の悪化と共に当飛行場も攻撃対象となり、

5月、7月、8月に空襲を受けました。

特に8月の空襲では部隊本部の建物全焼、兵舎も壊滅、

飛行機はすべて山の中に隠したものの、これで基地の機能は失われてしまいました。

 

当基地に入隊した「特別操縦見習士官」の中に、

終戦直後のプロ野球で大変な人気を博した「青バット」の大下弘がおり、

氏は他の隊員らと共に特攻隊員として鉄路、秋田県の特攻基地に向かう途中で敗戦を知ったのだそうです。

 

終戦時、当飛行場には陸軍練習機6機、海軍偵察機1機、特別攻撃隊機数機が残っており、

整備兵により火がつけられたのでした。

その後1946年2月 飛行場跡地の開墾が始まり、美田広がる現在の姿へと至ります。

D20_0224.jpg

矢吹町文化センター東側の駐車場に飛行場の碑がありました。

D20_0225.jpg

隣にはこんなものが。

矢吹飛行場記念碑建立の記(全文)
 かつて矢吹ヶ原と呼ばれたこの地は、その名の示すごとく萱が茂り疎林が点在する原野であった。
雉、山鳥等の野鳥が多く生息し宮内省の御猟場として明治大正期の貴顕の来訪が頻繁であったと伝えられている。
 今、眼の前に展開する豊かな田園と街並からは想像すべくもないが、この地に昭和初期福島県で最初の飛行場が建設されたのである、然しその事を知る人は年々少なく間もなく忘れ去られようとしている。
近隣の地に近代的設備を誇る福島空港が開港するこの時に、今まさに歴史の中に埋没せんとしている我々の矢吹飛行場を永遠に記念し、語り継いでゆく事は意義深い事と考えられる。
  昭和初期は航空機に対する内外の関心が高まりつヽあった時代だが、昭和三年九月二十三日、草を刈り簡単な整地をしただけの矢吹ヶ原にはじめて朝日新聞社の飛行機が飛来、
上空で数回の宙返りをした後、低空旋回しながら着陸した。
当時の町民有志の熱烈な要請に応えたものであった。
そのころは飛行機を目の前で見る事はたいへん珍しく近郷近在から弁当持参で大勢の見物人が押しかけたそうである。
その後矢吹ヶ原は飛行場として注目され、町民の勤労奉仕により整備され滑走路が作られた。
昭和七年愛国福島号飛来、次いで昭和九年十月二十七日二十八日とあい次いで海軍機、陸軍機が飛来着陸した等の記録が残っている。
その後は陸軍の飛行場候補地となり、用地や気象の調査が繰り返し行われた。
その頃から国際情勢は次第に緊迫、間もなく日中戦争の勃発から長い戦争の時代へと突入して行ったのである。
矢吹飛行場は昭和十二年五月二十三日正式に陸軍の所属となり、昭和十五年八月二十五日熊谷陸軍飛行学校矢吹分校として操縦要員の養成に当る事となる。
当時の練習機は複葉で色や形の印象から住民からは赤とんぼと呼ばれて親しまれた。
然し戦火は拡大し戦況も深刻となって昭和十八年頃からは専ら特攻隊員の養成が行なわれるようになった。
隊員はじめ軍人軍属が多数来町し、町内の旅館に分宿或は民家に下宿した。
時局柄隊員達を預った家は勿論全町民あげて飛行場に協力し、隊員達を支えた事は現在も当時を知る人達の間で語り草となっている。
やがて、戦局は末期的様相を呈し、訓練を終えた隊員は次々と戦場へ飛び立ち、祖国の未来を信じ勝利を念じつヽ多くの若い命が散っていったのである。
そして飛行場は敗戦直前の米軍の爆?と機銃掃射により破壊された。
 敗戦後廃墟となった飛行場跡地は開拓のため入植した人々の筆舌に尽くし難い困難と努力の結果、今日のような豊かな田園風景へと変貌を遂げたのである。
往時を思えば誠に感無量なものがある。
 最近矢吹航空隊を語る会が元隊員の方々、当時の飛行場関係者、矢吹ふるさと塾の塾生の間で持たれ記念碑建立の運びとなった。
 戦前戦中戦後と激動の昭和を振り返る時、二度とあのような悲劇を繰り返してはならないと痛感し、世界恒久の平和を念じてこの碑を建立する。
 平成五年三月吉日

D20_0232.jpg

D20_0235.jpg


    福島県・矢吹が原飛行場跡地    

熊谷陸軍飛行学校矢吹分校増田分校の校舎は、現在の矢吹町文化センター敷地内にあったのだそうです

矢吹が原飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:福島県西白河郡矢吹町一本木
標 点:N37°12′07″E140°20′21″
*標点はグーグルアースにて算出

沿革
1928年09月23日 東京朝日新聞社機飛来
1937年05月23日 陸軍飛行場として開場
1940年08月25日 熊谷陸軍飛行学校矢吹分教場開場
1945年05月11日 空襲
      07月16日 空襲
    08月9,10日 空襲、基地壊滅
1946年02月     開墾始まる

関連サイト:
Wiki/矢吹陸軍飛行場 

この記事の資料:
「矢吹町史 通史編」
「矢吹町生活年表」
「目で見る矢吹町史」
現地の碑文
防衛研究所収蔵資料:「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 水路部」