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磐城(夫沢磐城、長者ヶ原)飛行場跡地 [├空港]

 2009年9月 訪問 

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1947年4月当時の写真(USA M216 25) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 


2017/3/15追記:防衛研究所収蔵資料 「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 水路部」の当飛行場情報から記事追加しました。

上のマップは、「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 水路部」の当飛行場の地図、1947年の航空写真、

それから現在のグーグルマップを比較して作図しました。

格納庫等、飛行場諸施設はマップの撮影地点(展望台)にありました。

直線が出せる箇所は一応定規と分度器で作図したのですが、プリミティブな境界線が多々あります。

飛行場敷地は海岸線から一気に標高の上がった崖の上にある感じで、

自然が境界線を形成している部分は、現状優先で作図しました。

おおよそこんな感じと思います。

最新のグーグルマップ画像、福一の懸命な作業の様子が映し出され、胸が締め付けられます。

上記資料に飛行場情報が記載されていましたので、以下引用させて頂きます。

面積 東西1,250米、北西-南東1,500米 南北1,200米
地面の状況 植芝
目標 常磐線、新山町、陸前浜街道
障碍物 (記載なし)
離着陸特殊操縦法 (記載なし)
格納設備 格納庫(20x35米)6棟
照明設備 (記載なし)
通信設備 (記載なし)
観測設備 なし
給油設備 航空用燃料補給可能
修理設備 なし
宿泊設備 兵舎あり
地方風 (記載なし)
地方特殊の気象 (記載なし)
交通関係 長塚駅(常磐線)北西方約5粁
其の他 (記載なし)
(昭和18年4月調)

 

福島県双葉郡にあった「大熊町(夫沢)磐城飛行場」。

この飛行場は情報がほとんどなく、地元の図書館で位置を確かめたところ、

「夫沢海岸台地」という記述があり、調べた住所でたどり着いたのは、

東京電力福島第一原子力発電所なのでした。

 

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大熊町夫沢周辺

 

辿り着いたはいいのですが、

「オ、オイラ、飛行場探してるんだな。」

なんて言いながら原子力発電所に入ろうものなら、10分後には白黒の車に乗せられてそうです。

という訳で、流れ着いたのは「展望台」でした。

 

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そして「東電展望台」の駐車場で発見した飛行場の碑

「磐城飛行場跡記念碑」(全文)

この地起伏少なき松山に 農家散在す、昭和15年4月国家の至上命令により突如 陸軍で飛行場建設決定 住民11戸移転直ちに着工す、当時 工法はトロッコにスコップで手積み 人力で押し逐次軌道延長整地す、作業人夫は請負業者と郡内外の青年団 消防団 大日本愛国婦人会 学徒一般民等献身的勤労奉仕で半ば強制作業で工事が進められた この地水源なく志賀秀孝氏の井戸より送水使用す 17年早春 宇都宮飛行学校磐城分校発足 20年2月磐城飛行場特別攻撃教育隊として独立 日夜猛訓練受け第一線配属若者が 御国のため大空に散華す 同年8月9,10日 米軍空母艦載機の大空襲で施設破壊亦各地方の被害甚大なり 20年8月15日終戦となる その後一部農地開拓す 昭和23年日本国土計画で中央部以北塩田化海水揚げ天日式で濃縮 旧長塚駅近くまでパイプで送り製品化す 34年イオン樹脂交換製塩発達のため閉じる 亦塩田以外の地23年旧地主に払下げ25年植林す 37年東京電力株式会社原子力発電所建設備候補地となり39年買収41年本着工現在に至る 思い出大き この地忘れろるを憂い終戦43回忌に当り大戦で亡くなられた人々の御冥福と恒久の平和を祈り兵舎跡地にこの碑を建立す  昭和63年8月15日 磐城飛行場跡記念碑建立有志会

「東電展望台」は飛行場の兵舎跡だったのですね。

 

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碑の裏側

 

当飛行場は「宇都宮飛行学校磐城分校」だったのですが、1945年2月に「磐城飛行場特別攻撃教育隊」として独立しました。

「旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会」からいただいた機関紙によりますと、

磐城飛行場が特攻訓練基地として独立してから3ヵ月後の1945年5月、

埼玉県桶川飛行場から当飛行場に飛行兵と整備員が特攻訓練のために短期派遣されています。

桶川飛行場はオイラの地元なのですが、思わぬところで磐城飛行場と繋がりがあったのですね。

陸軍つながりということなのでしょうか。

派遣された整備員の方によりますと、夕方から薄暮にかけての夜間飛行訓練で、

しかも洋上で羅針盤を使った飛行訓練だったのだそうです。

桶川からは、この洋上航法を習わせるために派遣されたのではないかと思われるのだそうです。

整備員の方は、午前中は海で海老取り。砂の中にオキアミが残るのでそれをバケツですくい、

一晩おいて翌朝の味噌汁に入れたのだそうです。

訓練が始まる午後から夕方にかけてが整備員の仕事で、飛行機は95式練習機だったのだそうです。

更に、漁船をめがけて特攻の訓練が行われたのだそうです。

 

防衛省戦史資料で当飛行場について以下の説明がありました。

位置     福島県双葉郡熊町村
滑走地区  地積二一二〇〇〇〇平方米、中型機用
付属設備  居住施設一〇〇名ヲ収容シ得 他ニ講堂自習室(約一五〇名)アリ 一一ピスト分教場 水量水質 右需要ス
周囲ノ状況 敷地ハ長者ケ原ト称スル高台ニシテ 東方ヲ除キ敷地周囲ト一〇米内外ノ標高差ヲ有シ 
        東方ハ太平洋ニ面シ海面ト四〇米内外ノ標高差ヲ有ス
気象     最高気温 三四・七度 最低気温 零下九・二度
        北西界線ヨリ北西ニ直距離ニ 五粁ニテ 常磐線「ながつか」駅(現在の双葉駅)ニ連絡ス
其ノ他    憲兵 福島県相馬郡原町 原町分隊 警察 富岡警察署

 

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福島第一原発展望台より

なんとなくテレビで見たことあるような・・・

展望台のあるこの地が兵舎等がある建物敷地で、原発のある辺りが滑走地区だったようです。

 

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同じく展望台から

この周辺も飛行場だったと思うのですが・・・

 

福島県双葉郡大熊町(夫沢)磐城飛行場:map  


     福島県・磐城飛行場跡地     

(夫沢)磐城飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
空港種別:中型機用飛行場
所在地:福島県双葉郡大熊町夫沢
座 標:N37°24′45″E141°01′49″
面 積:300ha(滑走路地区:212ha)
滑走帯:1,300m×1,200m全面芝
*座標はグーグルアースにて算出

沿革
1939年 06月夫沢海岸台地約300haが飛行場用地として買収され、民家10戸が移転 
      熊谷飛行隊磐城分校として滑走路等作られる
1941年 04月夫沢磐城飛行場開場 約60機の練習機が置かれ、飛行兵の訓練をする
1942年 宇都宮飛行学校磐城分校として開校
1945年 02月磐城飛行場特別攻撃教育隊として独立。特攻隊の訓練基地となる
      05月桶川飛行場から飛行兵、整備員の短期派遣   
      08月09日 この頃、双葉沖200カイリに空母16隻の機動部隊あり
      09日午前8時頃 夫沢の飛行場を艦載機群が攻撃 格納庫、練習機を機銃掃射で破壊 死者1人
      10日午前9:15頃 艦載機の焼夷弾により、全焼44戸、全壊3戸、半壊3戸、死者6人
※2011/8/8 ざんなんさんからの情報により追記致しました。

この記事の資料:
大熊町史年表
現地の碑文

関連サイト:
国土地理院 1947年4月当時の写真(USA M216 26) (■→「同意する」→戻る→再度■をクリック)   
ブログ内関連記事
   


矢吹(矢吹が原)飛行場跡地 [├空港]

 2009年9月 訪問 

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1947年11月当時の写真(USA M627 500) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


防衛研究所収蔵資料:「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 水路部」の中に当飛行場の地図と情報がありました。

資料の地図、1947年の航空写真、グーグルマップを比較して作図したのが上のマップです。

ハッキリしない部分が多々あり、おおよそこんな感じと思います。

「矢吹町文化センター」の辺りに飛行場諸施設がありました。

水路部資料から当飛行場の情報を以下引用させて頂きます。

 面積 東西1,300米、南北400乃至800米 総面積80萬平方米
地面の状況 中央稍高く周圍に向け1/80乃至1/300の下り傾斜を為し稍波状に起伏せるも地上滑走の支障とならず、硬度は普通
目標 矢吹町、東北本線
障碍物 なし
離着陸特殊操縦法 離着陸方向は東又は西を可とす
格納設備 木造格納庫(20x30米)2棟あり
照明設備 (記載なし)
通信設備 (記載なし)
観測設備 なし
給油設備 航空用燃料は少量補給し得
修理設備 なし
宿泊設備 矢吹町に旅館4(収容員数計40)あり
地方風 全年を通じては北西風多し
地方特殊の気象 最近の統計に據れば快晴日数19.3、降雨日数181.6 曇天日数155、降雪日数75.7、霧日数13.5なり
交通関係 矢吹駅(東北本線)西方約1.5粁
其の他 (記載なし)
(昭和18年4月調)


 

1928年(昭和3年)9月 福島県西白河郡の矢吹が原に1機のヒコーキが降り立ちました。

当時、東京朝日新聞社は航空思想の普及と宣伝のため各地に自社機を飛ばしており、

矢吹町有志の要請に応える形で飛来したものです。

当時の矢吹が原は国営猟区の原野で、町の有志が草刈をして整地し、ヒコーキを迎えました。

機は数回の宙返りの後着陸。

ヒコーキなるものを一目見ようと、なんと5万人もの見物人が押し寄せたのだそうです。

そしてこの飛来が、後にここ矢吹が原に陸軍飛行場ができるきっかけとなりました。



その後、現在の矢吹町役場の北西に仮飛行場が設けられました。

滑走路は未舗装だったため、飛来があるたびに草刈、整地が必要で、

地元から勤労奉仕者が大勢動員されました。

1932年(昭和7年)9月18,19日には愛国福島号が、

また1934年(昭和9年)10月27日には霞ヶ浦から海軍偵察機3機が着陸しました。

 

満州事変後の戦争長期化に伴い、全国で飛行機を献納する運動がおこり、

福島県でも献金を集めて、2機の飛行機を献納しました。

1934年(昭和9年)10月28日(霞ヶ浦から海軍機飛来のあった翌日)には、 

福島県民が献納した海軍機報国福島号、陸軍機愛国福島号など4機が命名式と披露のために着陸しました。

この式は県内各界の各士と数千人の観客を集めた盛大なものであり、

こうして当矢吹が原は飛行場としての実績を重ねていったのでした。

 

報知新聞社が矢吹が原を同社の飛行場として確保、軍にも提供するという企画があり、

同社の飛行場予定地であることを示す看板が立てられていた時期もあったのだそうです。

しかし後に陸軍の飛行場候補地として注目され、

これまでもたびたび陸軍機が飛来して用地・気象など調査されており、

1937年5月23日 陸軍飛行場として正式に開場したのでした。

そして戦争の拡大から多くのパイロットが必要となり、

1940年8月25日に埼玉県熊谷飛行学校の矢吹出張班が置かれ、

分教場の開場式が行われました。

飛行場は拡張整備され、格納庫、兵舎が建設されました。

 

1943年、学徒動員令により在学中の学生も動員され、「特別操縦見習士官」として入隊しました。

戦争末期の1945年、特攻隊として特攻基地への移動が始まるようになり、

基地内の飛行機は減り、訓練も思うようにできない状態になりました。

戦局の悪化と共に当飛行場も攻撃対象となり、

5月、7月、8月に空襲を受けました。

特に8月の空襲では部隊本部の建物全焼、兵舎も壊滅、

飛行機はすべて山の中に隠したものの、これで基地の機能は失われてしまいました。

 

当基地に入隊した「特別操縦見習士官」の中に、

終戦直後のプロ野球で大変な人気を博した「青バット」の大下弘がおり、

氏は他の隊員らと共に特攻隊員として鉄路、秋田県の特攻基地に向かう途中で敗戦を知ったのだそうです。

 

終戦時、当飛行場には陸軍練習機6機、海軍偵察機1機、特別攻撃隊機数機が残っており、

整備兵により火がつけられたのでした。

その後1946年2月 飛行場跡地の開墾が始まり、美田広がる現在の姿へと至ります。

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矢吹町文化センター東側の駐車場に飛行場の碑がありました。

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隣にはこんなものが。

矢吹飛行場記念碑建立の記(全文)
 かつて矢吹ヶ原と呼ばれたこの地は、その名の示すごとく萱が茂り疎林が点在する原野であった。
雉、山鳥等の野鳥が多く生息し宮内省の御猟場として明治大正期の貴顕の来訪が頻繁であったと伝えられている。
 今、眼の前に展開する豊かな田園と街並からは想像すべくもないが、この地に昭和初期福島県で最初の飛行場が建設されたのである、然しその事を知る人は年々少なく間もなく忘れ去られようとしている。
近隣の地に近代的設備を誇る福島空港が開港するこの時に、今まさに歴史の中に埋没せんとしている我々の矢吹飛行場を永遠に記念し、語り継いでゆく事は意義深い事と考えられる。
  昭和初期は航空機に対する内外の関心が高まりつヽあった時代だが、昭和三年九月二十三日、草を刈り簡単な整地をしただけの矢吹ヶ原にはじめて朝日新聞社の飛行機が飛来、
上空で数回の宙返りをした後、低空旋回しながら着陸した。
当時の町民有志の熱烈な要請に応えたものであった。
そのころは飛行機を目の前で見る事はたいへん珍しく近郷近在から弁当持参で大勢の見物人が押しかけたそうである。
その後矢吹ヶ原は飛行場として注目され、町民の勤労奉仕により整備され滑走路が作られた。
昭和七年愛国福島号飛来、次いで昭和九年十月二十七日二十八日とあい次いで海軍機、陸軍機が飛来着陸した等の記録が残っている。
その後は陸軍の飛行場候補地となり、用地や気象の調査が繰り返し行われた。
その頃から国際情勢は次第に緊迫、間もなく日中戦争の勃発から長い戦争の時代へと突入して行ったのである。
矢吹飛行場は昭和十二年五月二十三日正式に陸軍の所属となり、昭和十五年八月二十五日熊谷陸軍飛行学校矢吹分校として操縦要員の養成に当る事となる。
当時の練習機は複葉で色や形の印象から住民からは赤とんぼと呼ばれて親しまれた。
然し戦火は拡大し戦況も深刻となって昭和十八年頃からは専ら特攻隊員の養成が行なわれるようになった。
隊員はじめ軍人軍属が多数来町し、町内の旅館に分宿或は民家に下宿した。
時局柄隊員達を預った家は勿論全町民あげて飛行場に協力し、隊員達を支えた事は現在も当時を知る人達の間で語り草となっている。
やがて、戦局は末期的様相を呈し、訓練を終えた隊員は次々と戦場へ飛び立ち、祖国の未来を信じ勝利を念じつヽ多くの若い命が散っていったのである。
そして飛行場は敗戦直前の米軍の爆?と機銃掃射により破壊された。
 敗戦後廃墟となった飛行場跡地は開拓のため入植した人々の筆舌に尽くし難い困難と努力の結果、今日のような豊かな田園風景へと変貌を遂げたのである。
往時を思えば誠に感無量なものがある。
 最近矢吹航空隊を語る会が元隊員の方々、当時の飛行場関係者、矢吹ふるさと塾の塾生の間で持たれ記念碑建立の運びとなった。
 戦前戦中戦後と激動の昭和を振り返る時、二度とあのような悲劇を繰り返してはならないと痛感し、世界恒久の平和を念じてこの碑を建立する。
 平成五年三月吉日

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    福島県・矢吹が原飛行場跡地    

熊谷陸軍飛行学校矢吹分校増田分校の校舎は、現在の矢吹町文化センター敷地内にあったのだそうです

矢吹が原飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:福島県西白河郡矢吹町一本木
標 点:N37°12′07″E140°20′21″
*標点はグーグルアースにて算出

沿革
1928年09月23日 東京朝日新聞社機飛来
1937年05月23日 陸軍飛行場として開場
1940年08月25日 熊谷陸軍飛行学校矢吹分教場開場
1945年05月11日 空襲
      07月16日 空襲
    08月9,10日 空襲、基地壊滅
1946年02月     開墾始まる

関連サイト:
Wiki/矢吹陸軍飛行場 

この記事の資料:
「矢吹町史 通史編」
「矢吹町生活年表」
「目で見る矢吹町史」
現地の碑文
防衛研究所収蔵資料:「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 水路部」


沈まぬ太陽 [├雑談]

原作読破はしてなかったのですが、限られた時間内で非常によくまとめられていると思いました。

上映時間は3時間22分! 途中10分間の休憩をはさみます。

オイラは別にヒコーキ○ニアではないのですが、本当にあっという間で長いとは感じませんでした。

 

架空の航空会社内部の黒い部分に焦点があてられていて、

どうしたってJALを強く意識してしまいます。

JALは「こんなことは現実にはあり得ない」、「風評被害」だと訴えています。

時期的には「泣きっ面に蜂」の思いかもしれませんが、

勧善懲悪、安全向上に真摯に取り組む主人公以外の社員の場面もありました。

見終わった後、別にJALが嫌いになったりもしませんでした。

 

あの事故はJALという会社が存在する限りついて回る事実。

危機に瀕しているにもかかわらず、自力で問題解決できずに今まできてしまったことも事実。

政府管理下、今度こそ問題が徹底的に改善され、

いつまでも安心して乗っていられる、そんな航空会社に生まれ変わって欲しいと心より願います。

一JALファンより。


それがマニア・1 [├雑談]

■空港編
空港とヒコーキは手段なのが一般人
空港とヒコーキこそ目的なのがマニア

小型機を見て「セスナ」と言うのは一般人
「セスナはメーカー名。アレは・・・」と語りだすのがマニア

大型機を見て「ジャンボ」と言うのは一般人
(たっ、確かにジャンボは747の正式名称ではない。だがしかし・・・)と葛藤するのがマニア

メートル/グラムに換算するのが一般人
フィート/ポンドのままのがしっくりくるのがマニア

「騒音」で迷惑なのが一般人
「エンジンサウンド」にうっとり目をつぶり、機種判別を始めるのがマニア

「なんか赤いヒコーキに乗ったよ」で済んでしまうのが一般人
便名、スポットナンバー、レジナンバー、シート番号をログブックに記録しているのがマニア

千葉に行くと浦安に行きたくなるのが一般人
そのまま東関道に乗ってしまいたくなるのがマニア
(幕張に行きたくなるのは別のマニア)

ブルーインパルスの飛行を見て普通に感動するのは一般人
「次は来月の○○基地ですね」が普通の挨拶なのがマニア

空港で白いヘッドホンを付けているのは一般人
黒いイヤホン付けて防人のように遠方を凝視しているのがマニア

展望デッキで友人家族と写メ撮ってるのは一般人
友人家族そっちのけで、おもむろに大砲取り出すのがマニア

オペラグラスは大袈裟だろうか、と迷うのは一般人
脚立持込に一点の迷いもないのがマニア



■対人関係
IHIと聞くとキッチンを連想し、社名を言われてもピンとこないのは一般人
IHIの知名度の低さに愕然とするのがマニア

BMWと聞いてフロントグリルを連想するのは一般人
エンブレムを連想して大戦当時にトリップしてしまうのがマニア

ロールス・ロイスと聞いて、庶民には一生縁がない。と感じるのは一般人
わりと親近感湧くのがマニア

オシャレな空港スイーツを買って来てみんなに喜ばれるのは一般人
世界の尾翼キーホルダーをお土産に配ってドン引かれるのがマニア

「○○さんは家康タイプだよね」などと例えに偉人や動物を持ってくるのは一般人
「その思想はエアバス的だよね」とか突然言い出し、周囲を硬直させるのがマニア

「オーライ! オーライ!」と分かり易い誘導をするのは一般人
無言のまま、真顔でマーシャラーのマネを始めてドライバーを困惑させてしまうのがマニア

”JA”を見ると農協を連想するのは一般人
反射的にいろんなレジナンバーが脳内を駆け巡るのがマニア

この記事を見てイマイチ意味がつかめないのは一般人
「ねーよw」なのがマニア

 

続編は2週間後☆


室谷さん@会津塩川バルーンフェスティバル2009 [├雑談]

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悪天候の場合は室谷さんは翌日に持ち越しかも。

という恐れもあったのですが、お天気も回復して無事飛んできてくれました。

会場のアナウンスでは、「これから軽飛行機による演技飛行が行われます」と言ってました。

「軽飛行機」って・・・。 いや確かに軽飛行機ですけども^^;

カンクリさんご夫婦にSS教えてもらって、撮影開始。

 

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・・・写真からはまったくもって伝わりませんが、すごい迫力でした(汗)

 

近くで見ていたご家族、こういうのは初めてだったようで(と言ってもオイラも似たようなものですが)、

「ヒコーキに対するイメージが変わりました!!」とビックリしておられ、

カンクリさんご夫婦がいろいろ解説をしておられました。

 

カンクリさんご夫婦が席を外した時のそのご家族の会話。

「あのお母さんスゴイね。」

「うん、スゴイね。趣味の域越えてるね」

「マニアだね」

 

 

(おしまい)