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呑んだ日 [■写真]

冬だ 寒いぜ 忘年会だ

ということで先日某人と呑んだのでした。

 

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チキン南蛮

 

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モツ鍋 これが意外とヒット

 

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〆の麺投入

「食べるコラーゲン」て、結局どうなんですか??

 

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味玉

 

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おわり~

 

前記事が超ヘビーだったので、今回は軽めに^^


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共通テーマ:日記・雑感

原町飛行場(雲雀ヶ原臨時飛行場)跡地 [├空港]

 2009年9月 訪問 

無題8.png
1947年9月当時の写真(USA M486 15) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 


*見学の際、たくさんの地元の方にご協力いただきました。御礼申し上げます。

2016/9/18:防衛研究所収蔵資料:「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 水路部」の地図から作図しました。敷地境界線西側、南側が自信ないです。その他若干記事修正しました。

資料内に当飛行場についての情報がありましたので、以下引用させて頂きます。

面積 北東-南西 1,200乃至2,050米 北西-南東1,200米
地面の状況 平坦なるも南西より北東に向け1/100の下り傾斜を為す
硬度は普通にして一面に良好なる芝密生す 排水良好なり
目標 原町、陸前浜街道
障碍物 南東方付近に比高25米の丘陵、西方約4粁に国見山(高さ564米)あり
離着陸特殊操縦法 着陸方向は北東又は北西を可とす
格納設備 木造格納庫(20x30米)4棟あり
照明設備 なし
通信設備 北東方2粁に原町郵便局(電信及電話取扱)あり
観測設備 なし
給油設備 航空用燃料は少量程度補給可能なり
修理設備 なし
宿泊設備 原町に旅館9あり
地方風 11月-翌年3月間は北西風、4-6月間は南東風 7,8月は東風又は南東風、9,10月は東風又は南東風なり
地方特殊の気象 12月-翌年3月間は暴風期なり、7,8月は雷雨多し 冬季は比較的積雪少し
交通関係 原町駅(常磐線)北東方4.2粁 東側に接して原町に通ずる県道あり
其の他 (記載なし)
(昭和18年4月調)


福島県の旧原町(現在は合併して南相馬市)には有名な相馬野馬追祭場地があります。

その西隣に「原町飛行場」がありました。

原町飛行場のあった場所は、南相馬市原町区大字馬場、大字大木戸を中心に、

北東の神ケ崎、本陣前地区まで広がる一帯なのですが、

これはかつての旧相馬郡大田村から石神村にかけてに相当し、かつては周囲を野馬土手で囲まれた中村藩の放牧地で、

牛越原と呼ばれ、一般には野馬原と称していました。

明治初年、放たれていた野馬は捕らえられ、広大な原野は民間に払い下げられました。

雲雀ヶ原(ひばりがはら)と名付けられた原野は町の権力者に買い取られたところが多く、

他町村からやって来た多くの入植者が借地し、耕作地に変えていったのでした。

 

「野馬原」が入植地として変化を遂げていく一方で、

1919年(大正8年)、原町議会では飛行場の誘致を試みています。

この時の誘致はうまくいかなかったのですが、

1921年(大正10年)、東北県下に設置する陸軍飛行場候補地として当地が注目され、

町役場からは測量図面などの資料が提出されています。

翌1922年(大正11年)3月、陸軍は原町で飛行演習を実施し、大群衆が観戦しました。

これにより一般に航空思想が広まりました。

しかし結局飛行場建設には至らず、誘致運動も次第に沈静化しました。

 

1931年(昭和6年)、誘致運動が再燃することになります。

「陸軍飛行学校において東北地方に適当な飛行演習所を物色中」との情報を聞き、

志賀原町町長が上京して陸軍省に陳情、近隣の村々では、飛行協会を組織するなどして万全を期しました。

同年12月には2度にわたって調査官が候補地を訪れています。

調査結果は良好でした。

翌1932年(昭和7年)に決定した目論見書では、

土地総面積195,766坪1合、国有・民有の原野購入費用他として18,890円を計上しています。

今回は陸軍省から調査官の派遣や、土地整理の内達まであったため、実現するものと思われました。

しかし、その後誘致運動は中断され、飛行場建設計画はとん挫することになります。

 

原町は飛行場誘致に積極的だったのに対し、地元自治体も全面的に賛成だったわけではありませんでした。

1932年(昭和7年)、石神村は飛行場建設を議会で否決。

一方の太田村では1936年(昭和11年)、村議会で飛行場用地の払い下げを可決、

隣接する村で対応が分かれたのです。

1937年(昭和12年)、臨時陸軍飛行演習所開設決定。

原町では町の有力者が所有している陣ヶ崎部分を飛行場用地に提供しました。

32ヘクタールの土地と12,800円を福島県に寄付、見返りに用地内の伐木許可を申請しています。

用地整理は原町が担当し、急ぎ測量、伐木、整地作業が行われました。

用地内には昭和2年に設置された競馬場があり、原町競馬を終えてから競馬場の木柵を撤去して整地にとりかかりました。

同年10月21日議会提出の飛行場聖地収支清算書には、収入として第二師団経理部と寄付金から1,138円46銭、

支出として伐採保障費や整地費、観音碑移転料などで同額が清算されたとしています。

「雲雀ヶ原臨時飛行場」は11月10日に開場したと言われています。 

 

雲雀ヶ原で多くの人が入植したのは大木戸字南東方地内と松島地内という場所で、

石神村の時代になってからも入植者たちは大木戸集落に所属していましたが、

1939年(昭和14年)3月に念願の1つの行政区として独立し、石神村の「第14区」となりました。

いわゆる「自分達の部落」が誕生したのです。

地区の結束は非常に固いものでした。

そして「雲雀ヶ原臨時飛行場」 は、この石神村「第14区」に隣接していたのでした。

この年の9月、航空本部から2人の担当者が飛行場のある当地の検分に訪れ、綿密な調査を行いました。

両氏によればここは飛行場として適しており、

「14年いっぱいは熊谷飛行学校の演習地として使用し、その後は拡張して陸軍飛行場にする」との意向でした。

 

こうした軍の意向を受け、ついに石神村は昭和7年の飛行場建設反対の決定を覆したのでした。

石神村第十四区の住民にとって、昭和14年12月15日は決して忘れることが出来ない日となりました。

この日役場に集められて聞かされたのは、

「軍の飛行場敷地として買収されるので、戦争完遂のため軍の指示に従い、部落を上げて期日までに移転せよ」

という立ち退き命令であり、一同は「ただ唖然とするばかりであった」のだそうです。

しかも、「代替地は各自で探し、期日までに明け渡すように」というまことに勝手な言い分でした。

「御国のため」という言葉の前には誰も逆らえない、そんな時代でした。

 

住民強制移住の申し渡しから11日後の昭和14年12月26日、

石神村議会は「雲雀ヶ原飛行場設置に関する件」を諮りました。

軍への協力を否めない時代になっていたということと共に、

雲雀ヶ原入植地の大半が借地で自作農が少ないという土地柄が、この決定につながりました。

この時の石神議会では同時に、飛行場設置によって転居を余儀なくされる農民の家屋建材用に、

県道椚平原町線の並木の松を特売することを決めています。

注)1932年(昭和14年)4月、陸軍航空総監部計画設計、熊谷組の施工により、飛行場建設に着手。翌年3月、熊谷陸軍飛行学校第二大隊第4中隊が設置され、6月には原町陸軍飛行場が正式に開場する。という資料あり

 

1940年(昭和15年)に入ると1月から用地の買収が始まりました。

飛行場内を貫通している県道の付け替え、共同墓地の移転売却、移転者に対する交付金等、

軍の豊富な予算に後押しされて、飛行場はあっという間に整備されていったのでした。

移転を指示された石神村の範囲は第十四区と馬場、大木戸の一部でした。

移転者の不動産は評価を受けることになります。

家屋は一等級から八等級の間で評価されるのですが、

当時の小作農の民家は粗末なもので、たいがいは最低評価の八等級でした。

防風林、竹林、果樹や桑園、麦畑も評価され、畑地は反別240円、山林120円でした。

この程度の補償額では、移転先の購入価格を勘案するとまったく余裕はなかったのだそうです。

加えて保証金の支払いは分割払いであったため、現金が必要な各家は相当な難儀を強いられました。

 

全部で100戸近い農家の短期間での一斉移転は他にも思わぬ苦労がありました。

職人は同時に建設する飛行場に徴用されたため、家を立てるにも職人の確保が難しかったのです。

釘やセメントなどは資材不足で配給以外に入手する手立てがなく、多くが値上がりしました。

石神村当局でも移転先を斡旋したり、払い下げ木材を提供するなどの支援をしています。

第十四区として積み重ねてきた歴史や地区のまとまりは、こうして突如突き崩されてしまいました。

移転を余儀なくされた人々は、移転先で様々なものを再び一から積み上げていかねばならなかったのです。

こうして入植者たちの念願だった「第十四区」は、発足から僅か1年余で消滅してしまいました。

結束の強かった「第十四区」の人々はやむなく四散する際、春秋の例祭には寄り合って祭りを行うことを約束したのだそうです。

飛行場の開設という華やかな出来事の影で、理不尽な仕打ちにより多大な労苦を被った人たちがいたのでした。

 

1940年(昭和15年)6月、原町飛行場開場。

当初は「熊谷飛行学校分校」として落成開校式を挙げたのですが、

その後、1941年(昭和16年)6月、明野陸軍飛行学校に移管して「明野飛行学校原町分校」となり、教育課第一中隊を設置。

9月には水戸陸軍飛行学校に移管し、第三中隊を設置。

翌1942年(昭和17年)7月、鉾田陸軍飛行学校に移管、第二中隊を設置。

「鉾田飛行学校原町分校」となりました。

このように、初期には短期間での移管が相次いだのですが、主に陸軍士官学校生の教育が行われました。

戦局悪化が顕著となっていた1944年(昭和19年)5月、「鉾田教導飛行師団原町飛行隊」と改称、

実施学校の軍隊化が急速に推し進められました。

同年11月、陸軍特別攻撃隊が編成され、フィリピン島方面に特攻を実施。

翌1945年(昭和20年)3月以降は、終戦まで本土決戦特攻隊の錬成基地となり、

幾隊もの特攻隊が編成され、地元民の盛大な見送りの中、出撃基地へ前進していきました。

原町飛行場にて編成(仮編含む)された特攻隊は、

フィリピン島方面の作戦においては、八紘部隊大五隊の「鉄心隊」・同第八隊の「勤皇隊」・同十一隊の「皇魂隊」があります。

後の沖縄方面の作戦においては、第四五振武隊の「神州隊」・第六四振武隊の「国華隊」があります。

原町校出身の航空兵が所属した特攻隊は、他にも万朶隊・進襲隊、皇華隊などがあり、

これら以外にも花街飛行場関係の戦没者は数多くいます。

 

飛行場は1945年(昭和20年)2月16日と8月9、10日に艦載機による空襲を受け、

掩体内の航空機や対空陣地に被害が出るとともに、

紡績工場や機関区なども攻撃対象となって原町中心部にまで戦禍が広がったのでした。

8月15日 終戦。原町陸軍飛行場は役目を終えました。


飛行場は戦後接収され、10月20日福島県が飛行場用地全てを引継ぎ、

11月20日に正式に原町町長から福島県に引き継がれました。

雲雀ヶ原は再び農耕地として開放され、かつての住民や外地からの引揚者などにより、開墾地として活用されることになりました。

灌漑用水の確保が難しい土地であったために、

深井戸を掘って地下水を利用できるようになる昭和30年代まで収穫は安定せず、

やむなく土地を離れる人も少なくなかったのだそうです。

強風の吹く日は空が真っ黒になるほどの土ぼこりを巻き上げていた雲雀ヶ原も、

半世紀を過ぎると、初期に住み着いた農家の屋敷林に農村のたたずまいが残る程度で、

すっかり近郊住宅地に変貌してしまいました。

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現在の雲雀ヶ原の通り。

飛行場用地と建築物は払い下げられ、学校などの公共施設として使用されました。

現在では陣ヶ崎の公会堂以外、ほとんどが建て替えられてしまいましたが、

今でも飛行場正門の門柱、格納庫の壁や神社など、わずかな遺構に当時を偲ぶことができます。

また陣ヶ崎公園墓地に飛行場慰霊碑があり、地元空襲による犠牲者、飛行場関係、特攻殉職者の名が刻まれています。

ということで遺構を見て回りました。

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陣ヶ崎二公会堂

飛行場の食堂を移築したものだそうです。

資料によりますと、当時食堂は正門から少し西側に離れた場所にあったようです。

公会堂を探し回っていて発見した時、素人目にはとても戦時中の建物には見えなかったため、

後からもう一度戻ってきて撮ったのでした。

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飛行場格納庫の礎石。かなり大きいです。

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道路沿いに同じ形のものが並んでいて、

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向こう側にも同じものが並んでいました。

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飛行場正門跡。敷地外から。

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飛行場敷地内から。

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石碑

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「墾心楽土」 碑文(全文) この地区は 藩政時代は野馬の放牧地であったが 明治維新に官地編入となり 其の後部落有志に払い下げられた処である 昭和十五年 原町飛行場が新設され 強制移転となった農家が この地に転住し林野を開畑したが戦事下の食糧難や物資不足の時代の開墾には並々ならぬ困難を極めたのであった 漸く開畑を見たが幾多の被害に適作物も数少なく悩まされ続けたのであるが 昭和三十五年頃より水稲が作付され 飯米の確保が出来安心を得たのである 然かし地下水の過剰揚水が 大瓮地区の地盤沈下の原因と認定され市条令に依り地下水の採取規制となり 又々障壁に当面したのである この解決には 圃場整備事業以外になしと地区組合員一丸となり昭和六十年より事業に着工を見ようやくこの処に完成を見たのである これに依り区画は整備されコストの軽減と横川ダム用水で水源の問題も解決を見たのである 此の重大なる工事完成を実現した喜びとその履歴を永遠に後世に伝える為 此処に記念碑を建立するものである 平成三年三月 古小髙 宏翁撰

基地からこんな近い場所も移転先になったのですね。


     福島県・原町飛行場跡地     

原町飛行場 データ
設置管理者:陸軍飛行場
空港種別:陸上飛行場
所在地:福島県南相馬市原町区上太田陣ケ崎
座 標:N37°37′06″E140°56′29″
敷 地:2,500mx1,400m
標 高:51m
面 積:220ha
(座標、敷地、標高、面積はグーグルアースから)

沿革
かつては中村藩の放牧地だった
明治初年 広大な原野が民間に払い下げられる
1919年 原町議会、飛行場誘致を試みる
1921年 東北県下に設置する陸軍飛行場候補地として注目され、町役場から測量図面等資料提出
1922年 03月陸軍、飛行演習を実施
1931年 12月町長による上京誘致活動の末調査官が雲雀ヶ原調査
1932年 石神村、飛行場建設を議会で否決
1936年 11月? 雲雀ヶ原臨時飛行場開場?
1940年 01月用地の買収
      原町飛行場熊谷飛行学校分校開校
1942年 07月鉾田飛行学校に移管
1944年 05月鉾田教導飛行師団原町飛行場に改称
      11月陸軍特別攻撃隊編成
1945年 02月飛行場、原町紡績工場に空襲(県内初空襲)
      03月終戦まで本土決戦特攻隊の錬成基地となる
      戦後、飛行場跡地は引揚者などにより再び農耕地に

この記事の資料:
原町市史
南相馬市博物館
現地の碑文
いわき地方史研究 第45号
陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 水路部」


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第二郡山航空基地(金谷飛行場)跡地 [├空港]

  2009年9月訪問、2017/8/20:更新  


無題8.png
1947年10月当時の写真(USA R413 25) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)  

昭和17年、福島県郡山市郡山駅の南、阿武隈川右岸沿いに、

「第一郡山航空基地」、「第二郡山航空基地」が設置されました。

現在の国道49号線を境に南側に第一航空基地(整備教育)の兵舎が林立し、

北側に第二航空基地(練習訓練)の広大な飛行場がありました。

この飛行場は地名から「金谷飛行場」とも呼ばれました。

そして第一、第二は隣接しているのですが、ここから西北西約6km離れた場所には「第三郡山航空基地」もありました。

第三航空基地は現在郡山駐屯地になっています。

「第〇郡山航空基地」という名称から、(じゃあ郡山には第一から第三まで3つの飛行場があったのか)

と思ってしまうのですが、第一は整備士の教育施設だったのだそうで、

「航空基地」と言いつつ実際に飛行場があったのは、第二、第三のみでした。

第一航空隊跡地には現在、日大がありますが、

昭和31年の暮、鉄筋コンクリートの建物(現2号館)が完成し、翌32年から使用開始するまでは、

航空隊が使っていた木造の兵舎を使用していたのだそうです。

D20_0020.jpg

写真は第二航空基地跡で、現在は郡山中央工業団地として整備されています。

防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地位置図」の中に「第二郡山航空基地」の略図がありました。

いわゆる細長い滑走路ではなく、八角形っぽい形の着陸帯として描かれており、

大きさは、1,100mx1,250m とありました。

当時の航空写真に八角形の地割が残っていれば作図したかったのですが、

1947年の航空写真を見ても、既に開墾が進んでいるようで、それらしい地割は見つからず、

今のところ詳しい地図等も見つからないため、残念ながら作図できておりません。

「第二郡山航空基地」の敷地は、阿武隈川と谷田川で東西から挟まれており、

二つの河の間は1km強しかありません。

このため飛行場敷地として使用可能な場所はおのずと限定されます。

また、国道49号線すぐ北側にエプロン等諸施設(先頭の航空写真で白く映ってる)がありますから、

このエプロンの辺りから北側に、そして両川いっぱいに着陸帯が広がっていたと思われます。

 

郡山市は積極的に飛行場誘致活動をしており、

1939年(昭和14年) には逓信省が市の案内で大島、庚担原(大槻)、

川田(豊田)、早稲原(喜久田)、境伝左衛門(喜久田)、金谷(高瀬)などを視察しました。

また、これとは別に海軍省は海軍航空隊を福島県内に建設するため調査していたのですが、

1941年(昭和16年)7月、福島市よりも郡山市周辺が適地であるとの結論を出していました。

そして1942年(昭和17年)2月、次の通り設置地域を決定しました。

郡山第一海軍航空隊 田村郡守山町徳定
郡山第二海軍航空隊 田村郡高瀬村金屋
郡山第三海軍航空隊 安積郡大槻町北部

一旦決定された後は突貫工事で建設が進められ、

1日20台の自動車、近郊農村の馬車、牛車が徴用され、海軍施設協力会が創設されました。


軍隊が駐留する都市を広義で「軍都」、「軍郷」と呼びますが、

1944年(昭和19年)1月、内務省は「軍都整備事業計画」を表明しました。

これは、国が正式に指定した「軍都」に支援を行う。というものです。

当時の郡山市長はこの軍都加入を強く希望し、

運動の結果茨城県土浦市、青森県大湊市を抜いて、

国から正式に「軍都」として指定された11の都市の1つとなりました。

これにより、

安積橋・上亀田線新設(現:西の内線)(3.5万円、長さ:400m)

金山橋・開成山線新設(現:国道49号)(29万円、長さ3,350m)

が完成しました。郡山市の負担は5万円でした。

こうして郡山は軍都としての道を突き進むことになり、

飛行場には付属の海軍施設部、格納庫、中島飛行機整備工場など数十棟が並び、

軍都整備、軍需工場、軍部隊、貯金局などの誘致で郡山は活気のある街に発展しました。

そして当然のことながら、この「軍都郡山」を米軍が見過ごすはずもなく、

戦争末期には「郡山空襲」として知られる大空襲により、多くの犠牲を出したのでした。

防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」に第一、第二の資料がありました。
以下引用させて頂きます。

位 置基地名最寄り駅よりの方位 距 離  粁建設年
飛行場
長x幅 米
格納庫収容施設
福島県安積郡永盛村第一郡山
東北本線郡山駅
   S3
1944下記共用
小型 50機分
中型 50機分
10,000名
第二郡山
同     同
   S3
同上
1,100x1,000
芝張
小型100機分
2,000名

 

基地名工場倉庫教育施設隊外酒保
送信所
方位測定所
主要機隊数主任務
第一郡山郡山市〇下記共用飛行機整備教育
第二郡山上記共用小型練6.0同上

 

基地名隧道並に地下施設掩 体其の他記事
第一郡山〇一部工事中  
第二郡山居3,000?、燃、通?他工事中 

〇印……施設あるも数量不明


     福島県・第二郡山航空基地(金谷飛行場)跡地    

郡山市史5近代(下)477pに「郡山地方でも金屋海軍飛行場や、大槻海軍飛行場の建設によってつぶされた耕地も多い」と記されていました。また「日東紡績第三工場も、十九年に中島飛行機に接収された工場の一つである。中島飛行機は接収と同時に飛行機部品の製造を開始した。しかし翌二十年の終戦によって日東紡績に返還されたが、二十一年にパラマウント硝子工業株式会社として再出発するのである。また、松葉製糸も同じように飛行機製造会社の接収に遭い松葉飛行機と改名し、その製造を開始するのである。しかし製造の開始が二十年四月であり実際には準備のみで終戦を迎えている」と記されていました

第二郡山航空基地(金谷飛行場) データ
設置管理者:旧海軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:福島県郡山市田村町
座 標:N37°22′29″E140°23′54″
着陸帯:1,100mx1,250m(1,500mx1,350mとする資料もあり)
(座標はグーグルアースから)

沿革
1942年 2月 飛行場建設決定
1945年 4月12日 郡山大空襲
      7月29日 市内にパンプキン爆弾(模擬原爆)投下される
      8月9,10(8,9?)日 飛行場空襲

この記事の資料:
郡山市史
郡山の歴史
「海軍航空基地現状表(内地の部)」
「海軍航空基地位置図」


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それがマニア・2 [├雑談]

今日はヒコーキ版自己診断をしてみましょう。

よろしければお付き合いくださいませ。



「これは自分に当てはまる」もしくは、「非常に共感できる/機会があれば是非やってみたい」

というものがいくつあるか数えてみてください。
<日本自己診断協会理事・精神科医 埜原源次郎監修(嘘)>

 

全般
○ィズニーランド級のヒコーキのテーマパークがないという現状は理解できない
「ですかい」シリーズ、コンビニで売ってたら絶対買うのに
「機内食フェアー」がないのはファミレス・マーケティング部の怠慢だ
新谷かおる、カトカンは必読書。バイブルである
フォネティックコードは小学校学習指導要領に組み込んで当然だと思う
マスコミの「ヘリコプターのプロペラ」等のいい加減な表現には罰則を設けるべきだ

自動車編
首都高湾岸線を走っていると落ち着かない(ヒコーキ的な意味で・以下同様)
左手はセレクトレバーに添えたままなのが基本姿勢である
坂道にさしかかると、ついハンドルを押したり引いたりしてしまう
並走する車とピッタリ速度を合わせ、寄せていってしまう
目上の人に左席を譲るのは最低限の礼儀である
運転中は脳内管制官と交信したり架空の乗客にアナウンスしたり、常に何かしゃべっている


空港編
修学旅行/出張におけるメインイベントは当然移動である
主要空港のレターコード? その位知ってるのがたしなみってもんでしょ?
使用滑走路、出発経路を確認してしまう己の律儀さにちょっと照れる
いつでも操縦を代われるよう、常に心の準備をしている
窓席で居眠り/ゲームに興じている乗客が許せない
コールサインはもう決めてある
今にみておれ! いずれ世界は日本の航空界の下にひざまずくことになるのだ

家族、友人関係
ファーストクラスのシートを自室に置きたい/置いてある
ヒコーキもののソフトを50本以上持っている
友人家族のヒコーキに対する無関心さはまったくもって腹立たしい
FS用に購入したジョイスティックを家族に見られた。後悔はしていない
みんなドイツの偉大さを分かっていない。ドイツはもっと評価されるべきだ
なぜヒコーキの話を始めると目を伏せるのか
「訳は聞かずに自分のことを"シン"/"セイラ"と呼んでくれ!」と迫ったことがある
私は孤高なのだ。断じて言うが、浮いているのでは決してナイ!

 

(~これで終りです。お疲れ様でした~)


 

さて、YESの数はいくつでしたでしょうか。

0~2個:
恐らくほとんどの設問で「意味が分からない/分かりたくもない」と、嫌悪感すらお感じになったハズ。
おめでとうございます、貴方は健全な良識人です。
貴方は誰とでもうまく合わせて仲良くやっていけるタイプ。集団の平和を醸し出す貴重な存在です。
周囲には、(貴方の姿を見るだけでホッと安心できる)と感じている人がたくさんいます。
これからもそのままの貴方でいてください。
しかし、本当に正直にお答えになったでしょうか。先読みして自分の本心を隠していないでしょうか。
自分の胸に手を当てて今一度考えてみてください。

3~9個:
設問のニュアンスはほぼ理解しておられますね。
今の貴方はアブナイ世界に片足を踏み入れた状態です。
貴方は切り替えの上手な方です。
リーダーを任されると、グループの1人1人の個性や気持ちを考えて上手に引っ張れるタイプ。
「あの人のためなら」とみんなが喜んで協力するという意味では理想のリーダーと言えるでしょう。
しかし油断は禁物です。 片足を踏み入れた貴方は周囲を和ませるお茶目さんな一面も持っています。
過去のヒコーキがらみの失態を思い出し、「ぐおおおぉぉ!!」と悶絶したことも1度や2度ではないハズ。
しかし、「失態」、「恥ずかしい」と認知しておられるというのはとても大切なことなのです。
YESの数が1つ増えるごとに社会適合性が失われていく恐れがあります。
引き返すなら今のうちです。ご注意を。

10~20個:
ご愁傷様です。既に完全にアチラ側の住民です^^;
貴方は非常に頭の良い方です。
会議等の話し合いの場で論議が袋小路に入り込んだ時、貴方の発言が突破口となることが何度もあるはずです。
問題が発生し、解決の糸口がつかめずに全員が途方に暮れている時、まったく異なる観点から的確なアドバイスができるタイプ。
反面、完全にアチラ側の住民であるため、日常生活、対人関係でもうっかりするとイロイロ支障が出てきます。要注意です。
「いつも自分らしく正直に」。という貴方の生き方はとてもステキだと思いますが、
そのリスクについて、また「仲間との共生」という言葉の意味について、
時に立ち止まってゆっくり考えてみるのも良いかもしれません。

20個以上:
貴方は歴史を変えるタイプです。
世が世なら、貴方は革命家として名を残していたことでしょう。
ところで、
「神は多様性の創始者である」(Generator Of Diversity) という格言をご存じでしょうか。
人は皆様々な個性を持っています。そして皆「宇宙船地球号」の乗組員。家族なのです。
これだけ言えばいわんとすることはわかるはずです。


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群馬県へ行った話 [■写真]

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80になる親戚のオバーが沖縄から1人で遊びに来ました。

このところ毎年のように遊びに来ます。

今回は群馬県磯部温泉に家族で一泊してきたのでした。

 

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こんな豪勢な食事はいつ以来??

 

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「アワビの酒煮?」なのですが、・・・くっきり鮮やかに写ってますね。キノコが。 (;´Д⊂)

 

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にく~

鍋に移してすき焼きに~

 

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湯気が出てきたので(もういいかな?)と蓋を取ったら・・・

ちょっと煮過ぎますた・・・。

オイラはレア好きなんだよぅ(;´Д⊂)

オモチャみたいな炎だけど結構火力強いのね。

(「だったら写真撮らないでサッサと食べれば?」というツッコミはなしの方向で)

 

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オコゲが美味しい松茸ごはん。

 

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おわり~

はー。おなかいっぱい。

 

 

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翌朝。

「紅葉が見たい」というオバーのリクエストで、ホテルの方に教えてもらって碓氷峠、妙義山へ。

「頭文字D」ファンの妹がうるさいうるさい(XДX)

 

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妙義山て、こんなに険しいんですね~。

 

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妙義山のお店で食べた山菜ソバ

うまー。

 

沖縄は紅葉がありません。

(それほど)高い山もありません。

オバーは、「日本の美しさを再発見した!」と感動してました。

ありがとう群馬県。

 

おしまい。


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