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沼ノ端飛行場跡地 [├空港]

 2009年7月、2016年7月 訪問 

オルソa.PNG
写真:国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省
撮影年度:1975年 地区名:ウトナイ湖、勇払 編集・加工:空港探索・とり

苫小牧港のすぐ東側に、かつて「沼ノ端飛行場」がありました。

1947年撮影の写真では滑走路、誘導路の跡がハッキリ写ってます(下記リンク参照)。

上図は1975年の地図です。

肝心の滑走路は既に溶けかかってますが、

飛行場北側には室蘭本線、千歳線があり、

飛行場に最も近い目印となる明野川がカーブして日高本線と交差する箇所など、

国土地理院の1947年当時の地図から上の1975年の地図、そして現在まで、

まったく変化していない目標に恵まれていて、位置特定は容易です。

部分、まだハッキリと誘導路、駐機スペースの跡が残ってますね。

駐機スペースには無蓋/有蓋掩体壕を設けるケースが多いので、

この当時はまだまだ掩体壕が残っていたかもしれません。

 

蛇足なのですが、飛行場西側にある日高本線、1947年の写真と最近の写真では、

室蘭本線と分岐する部分の線形がどう見ても異なっていて、どういうことか??とかなり混乱したのですが、

実は日高本線、苫小牧港建設のため、1962年に線路の移設工事をしてました。

それで1962年以前の地図とは線形が異なっているのでした。

 

グーグル地図a.PNG

年代の異なる数枚の地図を参考にしてグーグル地図に重ねるとこんな感じ。

例によってフリーハンドですので、多少ズレがあると思います。

回転、サイズ変更、重ね合わせとかができるソフトが欲しくなってきました^^;

 

グーグル写真a.PNG

こちらは現在のグーグル写真。

個人的には滑走路が残ってて欲しかったのですが、残念ながら既に完全に溶けてるようです。

となると次は当然「掩体壕が残ってないか」ということになるわけです。

実は当飛行場には当時、大小35の掩体壕が造られたのだそうで、

その中の一つが溶けかかった状態で奇跡的に残っている。と記されているサイトがあります(下記リンク参照)。

現場の写真はあるのですが、場所が明記されていません。

ということで、自力で探してみることにしました。

ありそうな場所としては、

1:誘導路跡で、2:緑が残っている場所 なのではないかと考えました。

この2つの条件が重なるのが上の写真の印の場所なのですが・・・

残念ながら3時間歩いたのですが、会社の敷地内だったり、緑があまりに深くて中に入れず、

発見できませんでした。とほほ。


2016年7月にまたお邪魔しました。以下追記です。

無題4.png
1944年10月当時の写真(9122 C3 60) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)



苫小牧市立中央図書館に当飛行場関係の資料が数点あり、それらを参考に作図しました。

微妙にズレていたので苦労しましたが。

以前tuka@北海道さんから掩体壕の場所をピンポイントで教えて頂いており

(上の1944年の航空写真の赤矢印のものと思われる)、今回見に行ったのですが、深い排水路と濃い緑に阻まれ、

道路から30m先にあるはずなのに、近づくことはおろか、視認することもできませんでした。とほほ。


「目でみる沼ノ端のあゆみ」に当飛行場について記されていました。

以下、関係個所を引用させて頂きました。

陸軍飛行場の建設と勤労動員

 沼ノ端に陸軍飛行場の建設が始まったのは一九四三(昭和一八)年であった。まず、駅前から勇払方面へむかう道路の西側に滑走路の建設が始まった。当時このあたりは、灌木(低木)の林と草原の広がる土地であった。(中略)工事は、樹木を伐り根を起こし地表面を平らにならし、学校のグランド造成と同じように、滑走路に粘土を五センチ程の厚さに敷きならし、ローラで圧力をかけるというものであった。ローラは大勢の人で引いた。苫小牧の中学や工業学校の生徒たちが、勤労奉仕で動員されてきたという。沼ノ端の国民学校高等科の生徒も動員された。滑走路の長さは千数百メートルであった。この飛行場が一九四三年度中に出来上がると、隼戦闘機が訓練のためにやってきた。一時期、多いときには五十数機が、編隊飛行、急降下、急上昇、左右急旋回、きりもみ飛行、木の葉落ち飛行などの訓練を行うのを住民は見ていた。

 さらに一九四三年から翌年にかけて、勇払道路の東側に、約千五百メートルのT字型二本の滑走路をもつ、コンクリート造りの本格的な飛行場の建設が始まった。もちろん、これは後日わかったことで、当時はどの程度のものが建設されるのか、住民には判らなかった。この計画が決定するとともに、一九三五(昭和十)年に、勇払原野開拓の実践例として期待され入植していた人々は、室蘭本線北側の地に移転を余儀なくされた。

 一九四三年の十月から、沼ノ端駅構内設備の増改築が行われた。貨物一番線の延長、貨物二番線の増線、貨物二番線に堅ホーム新設、貨物一番ホーム増設、貨物上屋ならびに保管庫改築など、全て本格的な飛行場建設の資材を運び込むためであった。工事は十一月に竣工しているから、以後建設資材の受け入れが本格化したであろう。

 建設工事のため、苫小牧町だけでなく、近隣町村の一般住民、学校生徒が動員された。一般住民の場合は、町内会あるいは部落会単位で勤労報国隊が結成され、動員されたであろう。学徒の場合は、一九四四(昭和一九)年一月の「緊急学徒動員要綱」によって、一年間ほぼ四ヶ月を標準として継続的に動員を行うこととした。さらに、七月には、学徒勤労動員は国民学校高等科児童以上にまで範囲が及び、一日十時間労働の励行が決められた。八月には、「学徒勤労令」によって、従来引き続き学徒を動員させる期間は二ヶ月以内であったのが一年以内に改められた。このような状況のもとで、各地の住民、生徒、児童が動員されたのである。

 飛行場は、一九四四年中に完成した。沼ノ端には、飛行場建設を管理し、防衛する目的で陸軍の部隊が駐屯していた。兵士はテントか三角兵舎に居住し、将校は沼ノ端市街地の旅館や民家に泊まっていた。多くの人の労力とたくさんの資材が用いられた、この飛行場が完成した後、どのように使われたのか、筆者は知らない。陸軍航空隊が配備されなかったのは確かである。

まず西側の転圧式滑走路が1943年度に完成し、

次いで東側のT字型コンクリート滑走路が1944年に造られた。ということのようですね。

「コンクリート造りの本格的な飛行場」とあるのですが、1944年、1947年の航空写真(USA M589 15)で見ると、

東側T字滑走路のうち、北西~南東方向の滑走路の一部がまるでレントゲン写真のように部分的に白く映っています。

全面的にコンクリートを打設したのではなく、部分的なものだったのかもしれません。

滑走路のあった場所にお邪魔してきました。

DSC_0166.jpg

A:西側滑走路南側エンド部分から滑走路方向。

DSC_0169.jpg

B:T字滑走路東側エンド付近から滑走路方向。

DSC_0162.jpg

C:T字滑走路南側エンド付近から滑走路方向。


     小牧市・沼ノ端飛行場跡地    
前出の「目でみる沼ノ端のあゆみ」には沼ノ端駅について、飛行場建設にともなう資材の到着があったこと、召集や徴用によって現場を離れる男子鉄道員が続出したため、鉄道省では全国的に女子職員を増やして対応したことが記されていました。このため沼ノ端駅でも、十数人の女子駅員が交代で24時間の勤務に就いていたのだそうです

沼ノ端飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:北海道苫小牧市沼ノ端

・西側滑走路
座 標:N42°39′46″E141°41′48″
滑走路:1,330m×320m
方 位:15/33
標 高:6m

・東側T字滑走路
座 標:N42°39′54″E141°42′41″
滑走路:1,500m×300m
方 位:08/26
標 高:5m 
座 標:N42°39′35″E141°42′54″
滑走路:1,500m×300m
方 位:15/33
標 高:6m 
(滑走路長さは交差部含まず。座標、滑走路長さ、方位、標高はグーグルアースから)

沿革
1943年 西側滑走路着工。1943年度中に完成
      10月 沼ノ端駅構内設備の増改築工事開始
      11月 沼ノ端駅構内設備の増改築工事竣工
      この年、西側T字滑走路建設始まる
1944年 7月14日、沼ノ端初空襲。主に飛行場要地に来襲と記録あり
      この年西側T字滑走路完成

関連サイト:
苫小牧民報/「沼ノ端に2つの飛行場」  
苫小牧民報/「苫小牧市内に掩体壕」 
北海道の旧飛行場 
ブログ内関連記事
 

この記事の資料:
蝦夷古地図 地図で見る苫小牧の歴史
目でみる沼ノ端のあゆみ


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