So-net無料ブログ作成

高知(高知龍馬)空港(旧高知海軍航空隊第一基地/日章飛行場) [├空港]

 2006年9月 訪問 


<B-18605/Boeing 737-8Q8>
 ランウエー14から離陸するチャイナエア機

 

 ランウエー32は海側に面していて、最初の写真の場所から振り返るとこんな感じです。

こちら側から進入してくるところが見てみたいです。

 

 同じ場所から見たターミナルとエプロン

 

 

 高知龍馬空港には、上空を飛ぶヒコーキに方向、距離を知らせる装置が設置されているので

 

 

よく上空をヒコーキが通過していきます。

 

 

 一次/二次レーダーもすぐそばで見ることができます。
グールグル回転するモーター音も聞こえます。

 

 

空港入り口 

 

 

 

 展望デッキ入り口

 

 

床面だけでなく花壇にもベンチにも木が使ってあり、すごくいい感じでした。

 

各種ヒコーキのタイヤがずらりと並んでます

 

 展望デッキから・1 

 

展望デッキから・2 

 

高知空港は大戦当時海軍の日章飛行場でした。

「高知空港史」(1984年発行:高知県)の中で、当時から現在に至る様子が非常に詳細且つ分かりやすく扱われていました。

以下関係個所を引用させて頂きました。

まず、防衛省資料から高知基地について次のように記されていました。

飛行場=長さx幅(1,400mx1,100m芝張り、うち1,000mx60mコンクリート舗装、1,000mx40mx2基・砂利敷き)
用地面積1,320,000㎡
格納庫=25,920㎡
収容施設=士官160名、兵員3,600名。工業場、倉庫、教育施設
隊外酒保、爆撃場、射撃場、射朶(射撃場)、送信所、方位測定所
掩体=中型15、小型9、W型17
隧道・地下施設=居住(2,500㎡)、指揮所、通信場、爆弾庫、燃料庫、倉庫、工業場、魚雷調整場、魚雷格納庫
主要機=小型機
主任務=偵察教育

 

■日章飛行場建設のいきさつ

昭和15年当時、高知県土木科内で、どこかに海軍の飛行場を建設するので待機せよと聞かされました。

翌16年1月23日、それは香美郡三島村(日章村発足前)だと発表されました。

同月27日、境界杭第一号打ち込み。

その後買収区域が追加され、合計2,124,298㎡となり、三島村の七割が航空隊、飛行場にとられた。

第一次立ち退き105戸、第二次立ち退き210戸。

海軍施設部では、移転する人たちに坪数に応じてセメント、洋釘を配給しました。

飛行場建設時、一番の難工事は飛行場中央南部、標高28.2mの室岡山の取り崩しです。

山に坑道を掘り、爆薬を何トンも使って崩しました。

<住民と立ち退き命令>

昭和16年1月の寒い日に、村議会議員や村の有志らを三島小学校の講堂に集めて、時の尊重西川豊馬氏は、高知県知事の通達を伝えた。「三島村に、海軍航空隊の飛行場を作ることが決定した。田の中に赤い旗が立てられている範囲内の者は、みんな立ち退いてもらわんといかんことになった。まことに急なことで村民に申し訳ないが、戦争に勝つために協力してもらい、本日了承を願いたい。ただちに立ち退きに取りかかって欲しい」と声をつまらせながら言い渡した。集まっていた人々は、誰一人として反対する者はなかった。

 

■白菊での特攻

当飛行場は元々偵察搭乗員を養成するための基地で、配備されたのは、「機上作業練習機白菊」でした。

1945年1月19日、B29が高知市神田に初投爆。

戦局悪化と共に、日章飛行場所属の高知空は練習航空隊から実戦航空隊となりました。

実戦部隊と任務は変わったのですが、それまでの練習機白菊をそのまま使用することになったのでした。

当初は白菊の性能を考慮して、本土に攻めてくる敵に対する水際作戦に使用する計画だったのですが、

後に方針が変わり、沖縄への特攻に使用されることになりました。

白菊には偵察、操縦の二人が乗り、胴体下に250kg通常爆弾二個を吊り下げ、鹿屋基地を発進、

約580kmを飛んで沖縄に特攻をしようという作戦です。

白菊の航続距離を延ばすため、燃料の増量タンク(零戦用のベニヤ板製)を積まねばなりません。

胴体下は爆弾をぶら下げるので、増槽タンクは後部座席へ据え付けます。

そのため後部座席の偵察搭乗員は、増槽タンクに馬乗りに座るのです。

機体を少しでも軽くするため、電信機や機銃は撤去しました。

それでも、爆弾二個500kgの重さで白菊の足は一層鈍足になり、鹿屋基地から沖縄まで4時間余りを要します。

制空権のまったくない海上の先を待ち構える米軍は、レイテで既に特攻を経験し、十分な研究と対策を施していました。

物量に物言わせた対空砲火、要撃機に対し、裸同然の練習機。

そこで、唯一、これしかない作戦として、薄暮、黎明、月明を利用し、目立たぬよう単機ごとに、

電波探知器の網にかからないほどの超低空で接敵するという戦術を採用しました。

これに合わせた特攻訓練が続けられ、実際に薄暮、黎明、月明をねらって長距離計器飛行、爆撃訓練など連日繰り返したのです。

高知海軍航空隊の白菊隊は、5月24日から6月25日まで鹿屋基地から沖縄に出撃しました。

 

5月24日
15機が19時26分から19時54分にかけて、単機ずつ鹿屋基地を発進
エンジン不調等のため6機が引き返し、1機が不時着、8機16人が未帰還
未帰還者16人の県別内訳は、秋田1名、山形2名、栃木2名、埼玉1名、神奈川1名、愛知3名、大阪2名、広島1名、福岡1名、宮崎1名、山口1名
このうち2機(愛知、栃木)は同県出身者の組み合わせでした
訓練時から同郷のコンビだったのか等、不明

5月25日
1機のみ5時7分鹿屋基地を発進。未帰還

5月27日
15機が18時48分から19時37分にかけて、単機ずつ鹿屋基地を発進
エンジン不調のため3機が引き返し、1機が不時着、11機22人が未帰還

6月21日
8機が19時00分から19時30分にかけて、単機ずつ鹿屋基地を発進
エンジン不調のため3機が引き返し、5機10人が未帰還

6月25日
21日出撃したものの引き返した1機の再出撃。
1機が20時00分発進。未帰還
同日特攻作戦打ち切り決定

 

特攻作戦打ち切り決定後、残存する白菊は日章の飛行場に戻り、

7月には隠蔽のため20数機の白菊が高知第三飛行場(現四万十町宮内)に移りました。

7月4日、高知市に大空襲、市街の大部分が焼失しました。

 

■戦後の日章飛行場

その後終戦となり、高知第三飛行場の全機は再び日章に戻されます。

「特攻隊員は米軍に処刑される」という噂が飛び交ったため、特攻隊員を優先的に飛行機を使って帰郷させたのでした。

8月20日頃隊員に帰郷の許可が出され、飛ばせる白菊は全部使ったので、残ったのは壊れた白菊だけでした。

終戦直後、米軍の求めに応じ提出された基地別9月1日現在の保有機数(実際には特攻作戦以前のものと推定される)によれば、

高知には2式中練3機、白菊55機、計58機となっていました。

四国には米第24師団が入り、高知へは11月4日、米第19連隊が松山から朝倉駅午後1時30分着の列車で進駐して来ました。

進駐軍は旧朝倉兵舎に入ったのですが、一部は日章の旧航空隊兵舎にも分駐しました。

当高知海軍航空隊分隊長・大尉の手記が「高知空港史」に記されていました。

「私は古参の大尉だというので、残務整理を命ぜられ、10月末まで旧航空隊にいました。

残務整理は高知出身者ばかり100人ほどで、しまいには50人以下になりました。

ほかに、帰るに帰れない台湾、沖縄出身の乙飛が60人ほどいたのです。

実はこれが一番厄介でした。まだ子供みたいな連中です。

残務整理の終わった11月からは、民家を借り、その乙飛の連中と一緒に飛行場の開墾をし、麦や野菜作りをしました。

一方で帰郷先の世話もしなければなりません。

飛行場は少しでも開墾して田畑に戻すのが、地元への罪滅ぼしという思いもあったのです。

米軍が元航空隊兵舎へ入ったのは、11月末か12月初めだと思います。

200人くらいです。

兵器引き渡しに立ち会ってくれと言われ出かけました。

米軍の大尉は、私が元大尉だと聞くと、きちんと敬礼するので私は少しあわてましたよ。

航空隊を空中撮影した写真を持っていましたが「この格納庫はどうしたか」と言うのです。

実は、空襲で7棟の格納庫のうち3棟は壊れていたので、地元の人たちに、要るなら差し上げますと言ったら、

きれいに壊して持って行ったわけです。

仕方ないから、その通り説明したら「わかった」と言ってそのままになりました。

窪川の飛行場の写真も見せてくれましたよ。窪川を爆撃しなかったのは、必要がなかったというだけです。

米軍は日章の兵舎を使っただけで、米軍の飛行機は見かけませんでした。

台湾、沖縄の連中も、家族との連絡がついて順次帰っていったし、

地元に開拓組合も結成され、元の地主から耕作地返還の要望がありましたので、昭和21年6月にそこを引き払いました。」

 

1946年5月14日、進駐軍の進駐区域の変更で、中国四国は英豪連合軍の区域となり、米軍と交代に高知入り。

スコットランド兵がスカートをなびかせて市中行進して朝倉と日章の旧兵舎へ駐屯したのでした。

1946年12月21日、南海大地震と津波が発生。

高知県でも大被害をもたらし、死者670人、行方不明9人、負傷者1,836人、家屋倒壊4,834戸にのぼりました。

終戦間もない衣食住に事欠く時期です。

英豪軍は生活物資の救援活動に全力をあげ、列車で高知駅へ、輸送船や駆逐艦アメフィスト号で

高知港外の桂浜沖へ救援物資を輸送したほか、日章の飛行場へ空輸も行ったのでした。

12月26日午前8時と午後1時30分の2回、双発の大型輸送機を着陸させて、

洋服1,000着、毛布1,000枚などを送り届けたと記録されています。

 

■返還

1948年4月、旧航空隊跡地が高知軍政府部長から返還されましたが、滑走路とエプロン地帯は除外されており、

これらの返還は一番最後となりました。

日章の返還は高知大学農学部を予想したものだったのですが、これがすんなり決まったわけではありませんでした。

農学部よりも前に、物部川の水を利用し、旧航空隊跡地に高知製紙のパルプ工場誘致の運動がありました。

工場の進出は、日章村民の雇用の機会を増やし、村に入る固定資産税の額も大きいと支持者も多く、

「大学もパルプ工場も」という欲張った考えも出ました。

結局沿岸漁民の反対で計画は実現しませんでしたが、県へは何度か、賛成、反対の陳情が押しかけ、

新聞、ラジオをにぎわせたのでした。

1949年5月31日、高知大学設置。

7月18日、第1回生305人が入学。

1952年1月24日、農学部の校地、建物、付属農場が正式に大蔵省から文部省に移管。

日章は飛行場になる前は大部分水田だったので、これを飛行機が発着するように造成するには、

石や砂礫を1m近くも入れ、地固めせねばなりませんでした。

そのため今の滑走路を中心にして、その周囲の広い地域に亘り、物部川の砂利はもとより、

付近にあった幾つかの山や丘が無くなったという程、岩石や赤土を全県民総動員して運び入れ、地固めして造ったのでした。

戦後、ここを農学部の耕地とすることになり、つるはしを力任せに打ち込んでみると、カチンと音を立てて弾き返されました。

普通のトラクターを入れてみたのですが、円盤犂は空回りするばかりで全然受け付けません。

仕方なく八ヵ岳農場から、重砲を曳く怪物のような6噸牽引車を借り、最大の円盤犂をつけて約2か月かかって、

ようやく反転して耕地を造成しました。

こうして飛行場周辺は大変な苦労を重ねて徐々に畑、水田が増えてゆきました。

 

■滑走路をどうするか

1952年7月28日、最後まで残されていた滑走路とエプロン地帯の接収が解除になり、政府に返還されました。

これを民間航空に使うべきか、農地に還元すべきか。将来を決する重大問題でした。

日章村では、「飛行場復活反対、農地に払い下げよ」との声が高く、数回の村民大会が開かれました。

村民の気持ちは無理もありません。

軍の絶対命令で突然先祖伝来の土地を追い立てられ、その美田や屋敷跡は、飛行場の砂利とコンクリートの下にあります。

飛行機は御免だ、元の静かで豊かな田園地帯に戻したいという願望の強さもうなずけます。

しかし一方で、「この飛行場を有効に生かすべきだ」という声もありました。

たとえそれが戦争の落とし子であるとしても、またと造れない飛行場ではないか。

久しく京浜、阪神から隔絶された土地ということで不遇に泣かされてきた。

民間航空の復活は、それを脱却する絶好のチャンスではないのか。

みすみす逃す手はない。いっそのこと、地元で民間航空の会社をつくってはどうか、などと考える人もいました。

 

■西日本軽飛行機協会

1953年5月のこと、高知県、市、財界人をバックに「西日本軽飛行機協会」という社団法人がつくられ、

極東航空が高知に航空路を開設するより先に航空事業を始めて、日章飛行場で飛行機を飛ばしました。

運輸省航空局に不定期航空事業の免許を申請して免許状をとり、9月15日から2ヶ月余、アメリカ製のライアン・ナビアンを借用し、

11月27日、同じくアメリカ製のパイパーPAベイサーを購入しました。

しかし占領がようやく終わりを告げた時代であり、軽飛行機の用途も狭く、協会の経営は苦しく、

1960年、不定期航空事業の免許を他へ譲渡し、保有機のパイパーPAベイサーも売却し、協会は解散しました。

 

■路線開設

日章周辺では依然として飛行場復活反対の運動がありましたが、高知県の政財界には民間航空再開を望む意見が強く、

1954年、高知新聞社、土佐電鉄、極東航空が提携して数回にわたり「高知-大阪空の旅」を開催しました。

使用機はデハビランドDHダブ(10人乗り)、日章-伊丹間 所要1時間、運賃片道3,500円、往復6,000円というものでした。

物珍しさもあって結構参加者がありました。

 

そしてこの年の10月1日、準定期空路の高知-大阪線が開設されました。

海軍飛行場として誕生した日章飛行場は終戦から9年、米軍/英豪軍接収の時期を経て、

民間飛行場として新たなスタートを切ったのです。 

準定期というのは不定期ということですが、日曜日を除いて毎日運航とし、所要1時間10分、片道3,000円、往復6,000円でした。

その直後の10月12日、極東航空の新鋭旅客機ハンドレページHPマラソンが日章飛行場にテスト飛行で飛来しました。

同機には運輸省大阪航空保安事務所長の他、航空官3人が乗り、日章飛行場を視察しました。

11時40分日章飛行場に着陸、午後1時30分大阪に引き返しました。

それから1カ月余の11月下旬のこと、大阪航空保安事務所から極東航空を通じて厳しいお達しが舞い込みました。

なんと、「誘導路の整備、旅客待合所新設など飛行場の設備を整えなければ、12月以降の運航を取り消す」というものでした。

その当時、日章飛行場では旅客の乗降、見送り出迎えは、滑走路上で直接行っていました。

旅客待合所もありません。

海軍航空隊時代の誘導路は使用しないので草ぼうぼう。まるで道路でバスに乗るような感覚でした。

保安事務所の指摘は、現状のままでは危険が伴う。誘導路整備、旅客待合所新設し、

旅客機は滑走路から誘導路を徐行して旅客待合所前まで行き、そこで旅客を乗降させよ、というものでした。

その頃の日章飛行場は、滑走路が一本あるだけで周りは草ぼうぼうの荒れ地で、

今からでは想像もつきませんが滑走路上が連絡バスの乗降場となっていて、農家の人たちの通路にもなっていました。

開設以来ほぼ満席の空路であり、極東航空、土佐電鉄、高知県、財産管理の四国財務局高知財務部が緊急の協議を行い、

空路取り消しは切り抜けることが出来たのでした。

 

■航路の進展

1955年2月1日、定期航空に格上げされ、4月1日から松山郵政局が高知-大阪間で速達航空便の取り扱いを開始しました。

5月23日から1日2便に増便となり、大阪日帰り旅行が可能になりました。

同時に4発旅客機のハンドレページHPマラソン(22人乗り)が就航し、輸送力は大幅に増えました。

7月20日には、取り敢えず小さいながらも旅客待合所が竣工。

11月6日には、日章飛行場で初の航空ページェントが開催されました。

展示機は築城基地のT-33 4機、鹿屋基地の対潜哨戒機TBM-3W 2機、八尾基地の練習機セスナL-19 3機、

民間の各種連絡機セスナ、パイパーなど5機、計14機でした。

1957年3月5日から高知-大阪間にダグラスDC-3(30人乗り)が就航。

当初はハンドレページHPマラソンと交互運航でしたが、1958年5月1日からはDC-3のみの運航となりました。

巡航速度300km/hで、高知-大阪間の所要時間は50分。

着陸時の所要滑走距離は、ハンドレページHPマラソンの800mに対して、590mでした。

1957年11月6日、極東航空、土佐電鉄、高知新聞社の共催で、DC-3での高知市上空遊覧飛行が企画されました。

高知市をかすめて朝倉上空で旋回、高知港桟橋、稲生を回る10分の飛行コースで、

これには「一生に一度は飛行機に乗ってみたい」という老若男女250人が日章飛行場に集まり、

朝9時40分から12回も飛ぶという盛況ぶりでした。

1957年12月1日、日本ヘリコプター輸送と極東航空が合併し、全日本空輸が設立されました。

 

大阪線の使用機は徐々に大型化し、1日2往復化も果たしましたが、飛行場そのものは1,200mの滑走路と、

700mの補助滑走路、バラック建ての航空局仮事務所、ちっぽけな旅客待合所があるだけというお粗末さでした。

航空局からキツイお達しを受けたものの、旅客が滑走路で直接飛行機に乗降するという状態も依然として続いていました。

1957年9月から始まった高知県議会でも、「飛行場整備を強く要望する」という意見書が採択され、

総理大臣、衆参両院議長、大蔵、運輸大臣に提出されました。

 

■日章飛行場から高知空港へ

1956年4月20日、空港整備法公布、施行。

1958年1月30日、高知空港設置(陸上飛行場F級、滑走路1,200x30m)が告示され、

2月10日に空港整備法による第2種空港の指定を受け、運輸大臣所管の空港となり、日章飛行場は高知空港になりました。

同年10月、大蔵省が所管していた空港用地320,254㎡が運輸省に移管。

運輸省では3か年計画で重点的にローカル空港の整備を進めることとし、高知空港では1957年10月から翌年3月まで、

工費1,309万円で、航空保安事務所、管制塔、テレタイプ、タワー通信(対航空機短波)などの工事が行われました。

工事は翌年も継続され、工費2,500万円で滑走路、エプロン整備、管制塔関連、航空気象室、NDBなどの工事が進められました。

1958年10月からは滑走路の嵩上げと誘導路新設が行われました。

滑走路は空路開設から丸4年の間、戦時中の遺物をそのまま使用していたため、路面に高低が出来ていて、

旅客機が離着陸するつど機体に衝撃が伝わり、早急な改修が望まれていました。

滑走路嵩上げ工事のため、12月10日~翌年の1月31日まで53日間、2往復の全便運休という措置がとられました。

そして予定通り1959年2月1日に運航は再開されたのでした。

誘導路とエプロンの整備により、旅客機は滑走路から誘導路を徐行し、エプロンに入り、

そこで乗降するという正規の方法がとれるようになりました。

8月、NDB(無線航行援助施設)完成。 これまでは有視界飛行のため悪天候では着陸できなかったのですが、

視程1,600m、雲高200mあれば着陸が可能となり、欠航が少なくなりました。

9月16日旅客待合所完成。11月NDB本格運用開始。11月末空港夜間照明工事終了。日没後も運用が可能になりました。

 

1962年1月、滑走路のあちこちにひび割れが出来ているのが見つかりました。

当空港の滑走路は、旧海軍が作った厚さ10cmのコンクリート舗装に運輸省航空局が厚さ5cmのアスファルトを敷いたものです。

戦時中のコンクリート舗装だから基礎工事がしっかりしていません。

従来の旅客機はせいぜい10t程度だったのですが、その頃就航していたコンベアCV-440は23tもあります。

前年には大阪線が3往復化し、団体客輸送で臨時便もあります。

これらが滑走路への負担となって蓄積し、コンクリートの継ぎ目に沿ってアスファルトに割れ目ができたのでした。

応急処置を施したのですが、いずれ本格的な滑走路の強化工事が必要な状況でした。

 

全日空が発表した1963年1~12月の高知-大阪間の旅客実績は、利用率86.6%、旅客数85,34人で、

これはいずれもローカル線の第1位でした。

この年は空港工事のため46日間の運休があったのにこの数字で、高知-大阪線のドル箱的性格はますます強くなっていったのでした。

高知空港の滑走路は1961年に1,500mx30m、1963年には1,500x45m(陸上飛行場D級)となりました。

この時点では名古屋、宮崎に次いでAクラスの空港で、ここまでの拡張のスピードはローカル空港としては全国屈指でした。

コンベアCV-440メトロポリタン(52人乗り)、ビッカース・バイカウント(68人乗り)といった幹線用の機材が就航できたのは、

滑走路整備が進んだ高知空港ならではで、結果として国内に就航したレシプロ機、ターボプロップ機のほとんどが就航したのでした。

ただし、早くに拡張が進み、あらゆるレシプロ機、ターボプロップ機に対応出来たことが、

高知空港のジェット化を遅らせたという見方もあります。

 

■農道閉鎖

1969年11月、懸案となっていた滑走路の農道を閉鎖しました。

高知空港では滑走路の東と西に2つの農道が横断していました。

日章飛行場時代から"田んぼの中の飛行場"としてスタートしたため、

人や耕運機、軽トラが滑走路を横断するのは大目に見られていました。

初期の頃は発着回数も少なくて問題なかったのですが、運航数が多くなるに従い、時々ヒヤリとする事態も出てきました。

これは増便申請の際、運輸省が安全対策を指摘して増便を渋る原因にもなっていました。

これまでは滑走路の周囲に金網を張り巡らし、農道の出入り口に柵を設け、6人の監視員を配置し、旅客機が発着する時は、

柵を閉じるという方法をとってきました。

更に地元の人たちと折衝し、必要最小限利用しなければならない人に通行証を発行し、その人しか通さないことにしました。

これと並行して地元の了承により、工費3,000万円で滑走路周辺に約8kmの迂回農道を造りました。

少し遠回りになるのですが、新設の農道を通ってもらうためです。

そして11月15日、2つの滑走路を横断する農道には出入り口に金網が張られて閉鎖されました。

西側の迂回農道には、東側と同じく、警報機が取り付けられました。

飛行機が離着陸の時、人や車に”頭上注意”を警告する設備で、この警報機というのも当時高知空港の名物の1つになっていました。

鉄道の警報機と違って、警報が鳴り、信号灯が明滅しても、平気で通行する車も多かったのだそうです。

今やローカル空港としては全国屈指の路線を擁しており、この規模の空港の滑走路を横切れないようにするというのは、

安全面から考えても至極当然のようですが、

そもそも地元の方にとって飛行場は戦時中に有無を言わさず奪われた土地です。

それがそのまま戦後も飛行場であることそのものが大反対の方が多いという事情があり、

この滑走路横断禁止という措置は、後の空港大拡張の際の地主との激しい対立の前哨戦という面があったかもしれません。

 

■滑走路の嵩上げ

1977年になると、高知空港は1日23往復の定期便を発着させており、

滑走路の路面にひび割れが走り、アスファルトが部分的に剥げ落ちるなど痛みが酷くなりました。

大幅な改修工事が必要なのですが、一方でジェット化対応の高知空港整備計画ができていました。

この計画では滑走路を新設する可能性もあります。

しかしこの整備計画は予定よりも数年遅れる雲行きのため、現在の滑走路の全面改修に踏み切ることにしたのでした。

工事は、運輸省第三港湾建設局高知港工事事務所が、1977年6月20日から工期三か月で実施。

1,500mx45mの滑走路に厚さ15cmのアスファルト舗装をするのですが、

もはや以前とは異なり、何十日も空港全面閉鎖という訳にはいきません。

それで毎日発着のない午後7時30分から翌朝6時までに工事を行いました。

工事の後、すぐに航空機が離着陸しても支障のない工法でなければなりません。

アスファルト舗装は1層5cmとし、3回重ねて、3層15cmの厚さとしました。

施工部分と未施工部分の境目で航空機にショックを与えないよう、1%以内の縦断勾配とし、1日100m程度としました。

こうして8~11トンダンプ15台、フィニッシャー(仕上げ機)1台、填圧器3台、作業員約60人が動員され夜毎の突貫工事となりました。

空港は工事用照明で不夜城の明るさ。

ちょうど梅雨のシーズンにも引っ掛かっていて工事関係者の気を揉ませたのですが、予定通り工事は完了しました。

 

■戦後の飛行場跡地(昭和22年6月に日章村村長となった方の回顧談)

昭和20年11月、大蔵、農林両次官通牒によって、戦中にできた新軍用地は、

農地として元所有者または耕作者に返還するという方針が出ていました。

そのころ元所有者、耕作者によって香南農地開拓組合ができていたのですが、

県議会や期成同盟は盛んに跡地を四国総合大学に全部使うと言って運動していました。

「そんな勝手なことはいかん。元の所有者や耕作者が現にいるではないか」と反対するが、なにしろ小さな村です。

県や県議会に太刀打ちできません。

知事に会うと、「大学は高知県のため是非必要だから認めてくれ。

滑走路、エプロン地帯が接収解除になった民間航空も必要になるだろう」と言います。

村民大会も何回か開きましたよ。農地開拓組合を中心に猛烈な反対です。

「農地に全部還元せよ。大学に全部渡せない。飛行場はいかん」と言います。

結局、高知大学農学部だけの約15万坪の先取りはやむを得ないということになります。

27年7月に滑走路とエプロン地帯の接収が解除されました。

9月県議会では「全面的に農地として元所有者、耕作者に返還すべきである」という議決をしています。

県としては、本当は農地になどしたくないはずなのに、農地開拓組合を中心とする地元の強い突き上げで、

そのような議決をせざるをえなかったのでしょう。

僅か2年後の29年の県議会では、今度は民間航空再開を要望する議決をしています。

村民大会で、「村長は飛行場を認めるのか、もし飛行場が軍用に使われることになったら、どう責任をとるのか」と詰め寄られまして、

「そんなことにでもなったら滑走路の上で腹を切ってやる」と大見得を切りました。当時は私も若かったのですね。

いつも空港推進派と見られてきたようです。空港拡張の最初の頃の現地説明会へは知事と一緒に出掛けました。

司会もやりましたが、ずいぶんつるし上げられたものです。

高知新聞の社長はじめ先輩、知人から「うるさい物(飛行場の意味)を持っているせいで苦労するなあ」と、

同情されたり、励まされたりします。

空港のあるところに住む者の宿命ですね。

それだけに、空港によって恩恵を受ける県民、利用者が、地元の人たちに温かい気持ちを持って見て欲しいと思いますよ。

 

■地勢

高知県は80%強が森林で、県西部の中村市周辺のわずかな平地を除けば、空港のある高知平野が唯一最大の平野であり、

ここは二毛作も出来、なんでも作れる国内有数の穀倉地帯。

移設して新規空港とせず、既存の空港を拡張する場合、美田を大規模に潰すことになるため、地元農家は無論の事、

建設を推進する県、運輸省でさえ拡張案にはためらいがありました。

「これほどの農地を潰して平野部への空港建設は後にも先にも、高知空港だけでは…」と囁かれたほどです。

 

■空港移設案

1967年以降、空港整備について、現在地で拡張するか、移転するか、運輸省ではたびたび各地を調査検討しました。

・空港位置
高知市を中心として車で1時間以内の場所(須崎~安芸間約30km)

・空港用地
空港基本施設、保安施設の設置に必要な条件をもった要地で120万㎡の土地が確保されること

・気象条件
風向、風速、その他突風、乱気流がない場所

・空域制限
航空機の発着、旋回操作を安全かつ容易に行うに障害物件の高さ等規制するもの

こうした条件で移設先を探したのですが、適当な場所を見つけることが出来ず、最終的に現在地を拡張することとなり、

空港拡張整備計画の成否は「農地が買えるかどうか」に絞られたのでした。

 

■難問が多かった新空港(高知県企画部副部長兼高知空港整備事務所長の回顧談)

高知空港の拡張で広い美田を潰すことになりました。

当然地元の反対はものすごく、この対応には本当に苦労しました。

ここ以外に空港の適地はないのかという意見も出ました。

別に造るとしても、高知から車で1時間以内ということになります。

東は安芸市、西は須崎市までの範囲です。

宇佐、浦ノ内、北山、土佐町の4か所が検討されました。カネの事は一切考えずに作るとしても、空域制限、気象条件がダメです。

「他の空港では海の方へ滑走路を延長しているではないか。高知空港はなぜ海へ出さないか」という意見もあります。

素朴にそう考えるはずです。

物部川の河口を移設する案もあります。

しかし海へ突き出すと、河川法の定めで防潮堤と同じ高さまで滑走路を上げなければなりません。

2階建てほどの高さになるでしょう。これでは物理的に造れません。

 

■各候補地の評価

a.須崎市野見地区

須崎湾東部の山地地帯に建設する案。この山地はおおむね西南西方向に配列しているので、恒常風と一致しないため、

山地の稜線と平行に滑走路を建設するのは安全面から問題がある。

恒常風方向に滑走路を建設しようとする場合、山地稜線と交差することとなり、滑走路建設予定地上の高低差が著しくなり、

施工に困難が伴う。また既存道(国道55号線)と空港を結ぶ連絡道の建設が必要である。

 

b.春野町西畑地区

仁淀川東部の丘陵地帯に建設する案。

この地帯の丘陵は概して北西方面に配列しており、恒常風方向と一致するが稜線部分の幅が狭く、

300mの着陸帯を設置するためには、周辺部低地への多量の盛り土が必要で、周囲の自然環境破壊が著しく、

周辺地区への影響が大きい。

また土佐市の中心街が進入路の真下になり、騒音公害の問題がある。

 

c.高知市正蓮寺地区

高知市の北部に広がる四国山地の辺縁部に建設する案。

この山地の配列は概して西方向であり、恒常風方向と一致せず。

また、西-北方向には四国山地の400~500m級の峰が点在し、空域制限に抵触するなど問題が多く、

また気流の乱れ、霧の発生などがあり、安全面から飛行場の建設は困難。

 

d.土佐町平石地区

高知市の北方約15kmの四国山地の中にある大地に建設する案。

この大地の稜線方向はおおむね南西方向であり、恒常風方向と大きく異なり、また周囲は700-900m級の四国山地であり、

空域制限内に多くの支障物件がある。

また山間部であり、気流の乱れ、霧の発生などがあり、安全面から飛行場の建設には問題が多い。

また、高知市と空港を結ぶ新しい連絡道の建設が必要となる。

 

e.夜須町手結地区

夜須町手結の北部に広がる四国山地の周縁部に建設する案。

この地区の稜線方向はおおむね南西方向であり、恒常風方向と大きく異なる。

また地区の北-東方向には400-700m級の峰が点在し、空域制限に抵触するなど問題点が多い。

 

f.南国市日章地区

高知市の東方に広がる香長平野にある現高知空港を拡張する案。

この地帯は高知県下最大の平野であり、滑走路を恒常風方向に建設することができる。

また空域制限内の支障物件も少なく、最適地と考えられる。

ただこの地帯は県下有数の水田地帯であり、この水田を潰地とすることに問題があるが、

この点については現使用地を活用することにより潰地面積を最小限に抑えることが出来る。

 

■現地拡張4案

1.南北案(南北方向の滑走路を新設)

既存空港用地の利用が殆ど出来ないので、取得面積が大きくなる。

南部地区下島浜の地盤が高いので、電柱、家屋等の物件が進入表面の障害物件となる

計画滑走路と現滑走路の中間に位置する農地の用水路計画が困難となる

秋田川の処置が必要である

進入地域(下島浜、王子、物部)に多数の民家が存在するとともに、東側転移表面の至近距離にも高知大学が存在する

現滑走路と交差することになるが、相互地盤の高低差ができるので現滑走路は根本的改良を行わない限り利用できなくなる

 

2.延長案(現在の滑走路東側部分を延長)

西側部落物件の一部が進入表面に抵触することになる

物部川の堤外地を利用することになる。特に2,000m延長の場合は河川の中央部に達するので、堤防の付け替えが必要である

滑走路の東側を堤防の高さまで嵩上げする必要があるので、工事の施工に困難を伴う

県道春野赤岡線の一部を地下道とする必要がある

西側の進入地域に多数の民家が存在する

 

3.平行案(現在の滑走路の西側に平行滑走路新設)

西側進入表面等の諸物件の一部を移転する必要がある

秋田川、後川の河川を根本的に改修する必要がある

市道、農道、水路などを付け替える必要がある

県道 前浜-土佐山田線と着陸帯との交差部分の措置が必要

東側進入地域の堤防及び樋門が障害とならないよう滑走路の縦断勾配を考慮する必要がある

 

4.平行交差案(現在の滑走路と位置はほぼ同じ。角度を変えて新設)

離陸上昇表面下に山並みがあり、これが障害となることが予想される

土地の状況から残地の形態に問題があり営農に支障を生ずる

その他の事項は平行案と同一内容の案件が生ずる

 

■旧空港概要

標点の位置 北緯33°32′28″ 東経133°40′31″ 標高6.00m

滑走路の方向(真方位) 北45°30′西

空港面積 368,421㎡

着陸帯 1,620mx120m

滑走路 1,500mx45m

誘導路 258.3mx18m

エプロン 15,400㎡(YS-11級4バース)

航空保安施設 

 無線施設 NDB,VOR,VHF,TTY等

 照明施設 進入角指示灯、滑走路灯、誘導路灯、エプロン灯等

 

■新空港計画の概要

標点の位置 北緯33°32′28″ 東経133°40′26″ 標高6.00m

滑走路の方向(真方位) 北49°29′25″西

空港面積

総面積 1,209,912㎡(拡張面積841,491㎡)

うち本体用地 1,161,318㎡(拡張面積792,897㎡)

ILS用地 44,338㎡(拡張面積44,338㎡)

進入灯用地 4,256㎡(拡張面積4,256㎡)

着陸帯 2,120mx300m

滑走路 2,000mx45m

誘導路 2,240mx23m

エプロン 46,800㎡(B727-200 8バース)

航空保安施設 

 無線施設 ILS/DME,ASR,NDB,VOR/DME,VHF,TTY等

 照明施設 進入灯、進入角指示灯、滑走路灯、誘導路灯、エプロン灯等

 

■公聴会

1974年6月5日 運輸省主催の「高知空港施設変更告示(決定)に関する公聴会」が行われました。

これは「高知空港拡張は是か非か」について利害関係者の声を聞くもので、39人の公述人が意見しました。

賛成派は「観光産業など県の発展、利用客の増加に対応するなど県民の利益のためにも必要」と主張し、

反対派は「騒音、用地問題など地元住民に犠牲を押し付けるもので許せない」と対立、警察官が待機する物々しい雰囲気でした。

公聴会終了で、拡張計画の決定告示に必要な法的手続きはすべて終わり、7月10日付官報で決定告示されました。

 

■基金創設

知事は地元の不安に応える形で、空港周辺整備事業に官民の資金を募り、その金利を活用する基金制度を創設しました。

受益者負担と、迷惑を受ける地元の空港周辺の地域への利益還元を図ることにしたもので、

「南国市が心配する地元負担は、実質的に心配いらぬようにする」と説得。

全国的にもユニークな方式を打ち出し、県下市町村、航空会社などもこの出資に協力しました。

最終的には県10億円、市町村3億円、民間15億2,000万円、合計28億2,000万円で運営されたのでした。

 

■地権者の意識調査

1977年8月、用地買収基準価格が初めて地権者に提示され、同時に意向調査の結果を公表しました。

「価格の折り合いがつけば売ってよい」64%、「ある程度時間がかかりそう」27%、「反対か、会えなかった世帯」9%

この時点で地権者数は物部23戸46人、久枝64戸130人、田村59戸118人、下田村36戸87人、下島12戸29人、

地区外(前記5地区以外)73戸55人でした。

 

■金融戦争

1981年12月 全ての用地補償問題が終了し、用地費、補償費合わせて約147億円となったのですが、

地権者に支払われるこの147億円を巡って、銀行、郵便局、農協などが熾烈な預貯金獲得運動を展開しました(南国市内のこれら金融機関の預金を全部合わせて400億円といわれていた)。

四国銀行、高知相互銀行、南国市農協、郵便局などが地元出身者を担当に地縁血縁を頼り、

「ひとまずうちへ…」と金融戦争が繰り広げられたのでした。

 

■着工

空港拡張工事で運輸省が真っ先に手を付けたのが、秋田川暗渠工事でした。

1,500mの旧滑走路は秋田川の手前まで伸びていたのですが、

2,000mの新滑走路は秋田川より更に先まで伸ばさねばなりません。

そのため、滑走路の下に川を通す暗渠工事が行われたのでした。

加えて、田村川、県道前浜-土佐山田線(後の前浜-植野線)も新滑走路の下を通すことになりました。

空港本体の盛り土では、南国市稲生と香美郡香我美町刈谷の2か所から採取し、

1日当たり延べ2,000台の10トンダンプで運搬されました。

全体の盛り土の土砂量は130万立方メートルでした。

新滑走路はまず物部川寄りから1,000mを仕上げ、秋田川、県道の完成を待って1983年6月頃から残り1,000mを仕上げました。

本体の土木工事と並行して、延長5,273mの場周道路、用水路4,244m、排水路3,261mが整備されました。

無題9.png

元の滑走路を描いてみました。

青の矢印は暗渠化した川と道路です。

凄い工事をしたものです。

 

■空港全面閉鎖し仕上げ工事

新空港の建設工事は順調に進み、暫定開港の見通しがついたところで、1983年12月6日から13日まで8日間全面閉鎖し、

ジェット機乗り入れのため最後の仕上げ工事が実施されました。

工事は、新滑走路-旧滑走路-エプロン間に誘導路を造るのが主体(旧滑走路は16日から誘導路となる)でした。

ダンプやパワーショベルなど作業車数十台を使い、掘削や盛り土をしました。

また、ターミナルビルへの取り付け道路、新滑走路の照明施設の工事も進められました。

一方、ジェット機を曳く牽引車やコンテナ牽引車の試運転、従業員の研修などあわただしい準備が展開されました。

閉鎖期間中、土電航空部では、航空貨物を1日1往復、トラックで松山まで運び、松山空港から代替輸送しました。

 

■工事に伴う諸問題

周辺のハウス養鰻業者から「工事の騒音、振動が原因で大量のウナギが死んだ」、「地下水位が低下、井戸水が枯れた」、

「施設園芸のハウスが砂塵で汚れ、作物の生育に支障が出た」等々想定外の問題が発生し、

工事の円滑な進行のため懸命な地元対策が実施されたのでした。

 

■慣熟飛行

12月10日から新滑走路を使って慣熟飛行が始まりました。

これは新しい空港の安全確保のために必要なテスト飛行で、全日空のB767,B737、東亜国内航空のDC-9により14日まで計102回(発着204回)、午前8時から午後5時半まで繰り返し行われました。

慣熟飛行が始まると、空港周辺に初のジェット機を見ようとする人たちが訪れ、双眼鏡やカメラで熱心に機体を追っていました。

日曜日の11日には、大勢の見物人が押し寄せ、付近の道路はマイカーで埋め尽くされ、空港駐車場も満車になりました。

その人出を当て込んで屋台のラーメン屋も登場するおまけがつきました。

慣熟飛行では通常の運航とは全く違い、悪天候、強風等様々な条件を想定し、

低空やエンジンを絞り切った状態等特殊なテストをします。

このため騒音にもバラつきがあり、通常運行とは違った出方が予想され、周辺住民からの苦情が心配されました。

しかし、事前のPRが行き届いていたせいか、さほどの苦情もなかったのだそうです。

 

■高知新聞社 取材レポート

四国四県ではいつもビリを走りがちな本県が、空港だけは松山に次ぎ、2,000m滑走路による四国で2番目のジェット化を実現した。

地権者との用地買収に当たった県、県土地開発公社の若手職員は日夜をわかたず、時には泊まり込みで仕事に励んだ。

その熱意と誠意が実り地権者も最初は庭先で話をしていたのが、次には縁側、そして座敷へ、と徐々に態度を軟化させ、

職員を受け入れるようになったのだろう。

当時若手職員が、「何年か後で地権者に会った時、『騙した』と言われないよう、むしろ喜んでもらえるようにしなければ…」

と語っていたのが耳に残っている。机の上では味わえない、人と人とのつながり、第一線の行政を肌で知った職員も多かったはず。

地権者から「神祭に出て来い」「娘を世話しようか」との声が出るまでになった頃、用地問題はすでに大きなヤマを越していた。

地元で忘れられない人が2人いる。1人は推進の執念を燃えたぎらせた橋本一二三・南国市議だ。

市長と共に、県との橋渡し役を務めた。

特に、大赤字だった市財政について、空港をテコに立ち直りのきっかけをつかむ努力に懸命の姿勢だった。

空港拡張反対市民連合に対し、「俺は助けの神ぞ、時の氏神ぞ」と大見得を切ったことも忘れられない。

豪放にして繊細、そして頼まれればイヤと言えない、勘の鋭い親分肌の政治家だ。

もう1人は、反対の総大将だった元南国市議である。

ややもすると、イデオロギーというか、政党政派的な要素を抱えかねない反対運動を、

素朴な土着の反対運動として支えた1人といえよう。

米国ロッキード社から直接資料を取り寄せるほどの勉強家で、ハッタリのない政治姿勢は好感を呼んだ。

結果的に拡張が実現し"敗れた"形だが、真面目な人柄が嫌味のないさわやかさを残した。

 

防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:高知 建設ノ年:1943 飛行場 長x幅 米:1400x1100芝張ノ内1500x60コンクリート 1000x40x2砂利 主要機隊数:小型1.0 主任務:偵察教育 隧道竝ニ地下施設:居住(25000㎡)、指揮所、電信所、爆弾庫、燃料庫、倉庫、工業場、魚雷調整場 魚雷格納庫 掩体:中型無蓋15 小型有蓋9 w型有蓋17 其ノ他記事:空爆ニ依リ建物一部焼却

高知空港:map  


      高知県・高知空港(高知龍馬空港)    
当地は昭和31年まで日章(にっしょう)村でした。そのため海軍航空基地当時、地元では「日章の飛行場」と呼ばれていました。時は流れ高知空港になった現在でも、地元の年配の皆さんにとっては変わらず「日章の飛行場」なのだそうです

    ビュー:☆☆☆★★  
展望デッキ:大人100円
高いフェンスに囲まれているが、のぞき窓が数箇所開いている
周囲に視界を遮るものはないので、眺めは良い
便数多い
建物は新しく、きれい。標識分かりやすい     

    施設:☆☆☆☆★  
売店、レストランあり。深層水、ヒコーキグッズ
ターミナル前に有料駐車場あり

    マニア度:☆☆☆☆★  
展望デッキに展示されているヒコーキのタイヤ
空港拡張計画のジオラマ
写真撮影のロケーション最高

    総合:☆☆☆☆★  

周辺は学校がある以外、のどかな風景が広がる
ヤシの木が南国を感じさせる

高知空港データ
設置管理者:国土交通省
3レター:KCZ
4レター:RJOK
空港種別:拠点空港/国管理空港
運用時間:7:00~21:00
所在地:高知県南国市物部
標 点:N33°32′46″E133°40′10″
標 高:7.0m
面 積:141ha
滑走路:
終戦時:1,500mx60m 「日本海軍航空史」(終戦時)より
現在:2,500m×45m
磁方位:14/32
航空管制周波数
・飛行場管制 
 高知タワー 118.75 126.20
・進入・ターミナルレーダー管制
 高知アプローチ 124.80 125.00
 ディパーチャー 124.80 125.00
・航空路管制
 福岡コントロール(南九州東セクター)133.30 132.60
 福岡コントロール(四国北セクター)132.40 119.35
・飛行場情報放送 
 高知ATIS 126.45

沿革
1940年 高知県土木科内で、どこかに海軍の飛行場を建設すると内示あり
1941年01月 23日 飛行場建設地は香美郡三島村(日章村発足前)と発表
          27日 境界杭第一号打ち込み
          三島小学校講堂にて村長が村民に飛行場建設を伝え、予定地からの立退き要請
1942年01月 用地買収と同時に建設開始。建設は終戦の日まで続いた
1944年03月 海軍航空基地として開設(滑走路1,250mX60m)
1945年08月 終戦。接収
1946年10月 27日 日章飛行場跡地開拓に香南農地開拓組合結成
      12月 26日 南海大地震救難物資緊急輸送のため英豪連合軍の大型輸送機が日章飛行場へ着陸
1948年04月 日章の旧航空隊跡地と兵舎(滑走路、エプロン地帯を除く)を高知軍政部長から返還
       8月 12日 日章の旧航空隊跡地の高知製紙パルプ工場計画に沿岸漁民が県へ反対の陳情(10月14日計画断念)
1949年05月 31日 国立学校設置法により文理・教育・農の三学部、高知大学設置。農学部は旧航空隊兵舎と敷地を借用
1950年04月 旧航空隊跡地に高知大学農学部付属農場設置
1952年01月 高知大学農学部が借用中の旧航空隊の兵舎、敷地を大蔵省から文部省へ移管
      07月 28日 日章の飛行場跡地の滑走路、エプロン地帯の接収解除、返還される
      09月 10日 第39回高知県議会で「元高知飛行場に関する意見書」を採択
      12月 21日 青空クラブが日章で戦後初のグライダー飛行
1953年01月 28日 県内各種航空団体を統合。高知県航空連盟発足
      05月 社団法人西日本軽飛行機協会設立
      09月 15日 西日本軽飛行機協会、日本機械貿易会社からライアン・ナビアンを借用。藤沢飛行場から日章に空輸
      11月 27日 西日本軽飛行機協会がパイパーPAベイサーを購入。多摩川飛行場から日章へ空輸
1954年03月 20日 第46回高知県議会で「高知、大阪間定期航空再開について意見書」を採択
      10月 1日 極東航空が大阪線開設。日曜運休の準定期路線。デハビランドDHダブ(10人乗り)
          12日 極東航空のハンドレページHPマラソン4発機がテストのため日章へ飛来
1955年02月 1日 極東航空の大阪線が定期路線に昇格
      04月 1日 松山郵政局、高知-大阪間に速達航空便の取り扱い開始
      05月 23日 極東航空大阪線、2往復に増便。ハンドレページHPマラソン4発機就航
      07月 20日 日章飛行場に旅客待合所新設
      11月 6日 日章で戦後初の航空ページェント。陸海空自衛隊機など14機参加
1956年06月 11日 極東航空、大阪線にスチュワーデスを乗務させる
1957年03月 5日 極東航空、大阪線にDC-3を就航させ、HPマラソン機と交互運航
      10月 10日 第65高知県議会で「日章飛行場完全整備についての意見書」採択
      11月 6日 極東航空、土佐電鉄、高知新聞社の共催によりDC-3で高知上空の遊覧飛行実施
1958年01月 30日 高知空港設置告示(陸上飛行場F級 滑走路1,200mx30m)
      02月 10日 空港整備法による第2種空港に指定。名称 日章飛行場→高知空港に変更
      03月 管制塔完成
      05月 1日 全日空、大阪線をDC-3に機種統一
      09月 20日 航空日行事に知事が一日機長
      10月 高知空港用地320,254㎡を大蔵省から運輸省へ所管替え
      12月 10日 高知空港滑走路等改修工事のため全便を53日間運航休止
1959年02月 1日 滑走路等の改修工事が完了し、全便運航再開
      09月 6日 旅客待合所落成式
      11月 ラジオビーコン(NDB)使用開始
      12月 8日 夜間照明設備完成。テスト実施
1960年04月 滑走路1,200mX30mで供用開始
          10日 高知空港整備完成記念空港ページェント開催。ジェット機など17機参加。高知上空遊覧飛行
1961年04月 01日 土佐電鉄、高知大学-空港間に定期バス路線開設
      07月 10日 フォッカーF-27フレンドシップ(44人乗り)就航。7月中はDC-3と交互運航
      08月 01日 大阪線3往復化(F-27 2往復、DC-3 1往復) バス路線、はりまや橋間の専用無料送迎に変更
      09月 滑走路両端を150mずつ延長して、1,500m滑走路化工事
      20日 航空日行事に県議会議長が一日機長
      10月 1日 大阪線にコンベアCV-440メトロポリタン(52人乗り)就航。DC-3との交互運航に
          滑走路両端延長工事完了。1,500mx30mに
1962年09月 20日 航空日行事に高知市長が全日空の1日機長
      11月 18日 高知県、県航空協会主催により航空ページェント開催。自衛隊機、民間機16機参加
1963年03月 16日 グライダー練習の高知県学生航空連盟発足
      07月 11日 東亜航空がCV-240(40人乗り)、DHヘロン(16人乗り)にて広島-松山-高知線開設
          28日 日東航空がG-73マラード(12人乗り)にて大阪-徳島-高知線開設。1日1往復
      09月 1日 はりまや橋-空港間の無料送迎専用バスを有料(100円)の空港連絡バスに変更
      10月 1日~11月15日まで46日間全便運休して滑走路、誘導路等第三次改修工事実施
      11月 高知空港拡張整備計画
          16日 運航再開。滑走路5cm嵩上げ、拡幅30m→45m。誘導路12.5m→18m拡幅
          エプロン CV-440型2機→3機用に拡張。陸上飛行場F級→D級(滑走路1,500mx45m)に格上げ
1964年01月 17日 全日空大阪線が4往復化(CV-440 3往復、F-27 1往復)
      03月 航空保安事務所、旅客待合所の増築完了
      04月 15日 北日本、富士、日東が合併して国内航空となり、大阪-徳島-高知線は国内航空に移管
          使用機材をG-73マラードからCV-240に変更
          26日 空港整備完成航空ページェント開催。米軍、自衛隊、民間機30機参加
      07月 21日 YS-11試作2号機が高知空港にテスト飛行のため着陸
      08月 1日  大阪-徳島-高知線廃止。東京-徳島-高知線開設。1日1往復。コンベアCV-240就航
      09月 19日 大阪線開設10周年記念行事として全日空、 小学生10人を東京見物に招待
      11月 14日 全日空ターボプロップ4発機のビッカース・バイカウントが発着テストのため飛来
          22日 空港開設10周年記念の航空ページェント開催。自衛隊機、民間機12機参加
      12月 1日 大阪線からCV-440が引退し、全便F-27となる(全便ターボプロップ化)。1便増便し、5往復化
1965年04月 1日 国内航空、東京-徳島-高知線にYS-11就航。CV-240は引退(YS-11の国内定期路線初就航)
      07月 19日 全日空、高知-大阪線にビッカース・バイカウント(68人乗り)機就航
      08月 25日 全日空、 高知-大阪線にYS-11(60人乗り)機就航
      09月 1日 全日空、 高知-大阪線1日6往復化
      12月 20日 全日空、 高知-東京線開設。1日1往復。ビッカース・バイカウント(68人乗り)機就航
1966年10月 1日  全日空、 高知-宮崎線開設。1日1往復。ビッカース・バイカウント(68人乗り)機就航
1967年 この年以降、空港整備について、現在地で拡張するか、移転するか、運輸省ではたびたび各地を調査検討
      02月 「高知空港整備促進協議会」高知商工会議所内に発足
      04月 空港に関する事項を土木部港湾課から県企画管理部開発課に移管。同課に新空港整備に関する窓口が置かれる
      07月 14日 東亜航空、広島-松山-高知線休航。東亜航空の高知線が無くなる
      10月 1日 高知航空保安事務所を高知空港事務所と改称。空港長配置
      11月 1日 国内航空、東京-徳島-高知線廃止。大阪-徳島-高知線開設(YS-11)
      この年、全日空、高知-大阪線7往復化
1968年03月 1日 全日空、高知-大阪線8往復化
      09月 VOR設置のため、滑走路東側の国有地49,500㎡を運輸省に移管
1969年01月 VOR設置工事開始
      07月 1日 全日空大阪線10往復化。フォッカーF-27フレンドシップ、ピッカース・バイカウント、YS-11の3機種を使用
      09月 10日 全日空訓練用小型双発機ビーチクラフト、離陸に失敗。オーバーランして機体破損
          21日 全日空開設15周年記念。開設日生まれの中学生10人を大阪日帰りの旅に招待
          南国市、市制10周年と航路開設15周年記念としてお年寄り174人を足摺岬40分空の旅に招待(ANA YS-11)
      10月 VOR(超短波全方向式無線標識)運用開始
      11月 1日 国内航空、YS-11にて高知-大阪線開設。1日1往復(全日空と初のダブルトラック化)
           国内航空、大阪-徳島-高知線休止。東京-徳島-高知線開設
           15日 東と西に2つある滑走路横断農道閉鎖。耕運機、軽トラの滑走路横断不可に
1970年01月 29日 地元周辺農家、「高知空港拡張反対期成同盟会」結成。その後も次々反対同盟が結成される
      07月 20日 南国市に「空港周辺地域開発協議会」発足。周辺整備、騒音対策
      08月 1日 全日空、YS-11の座席数を60から64に増設
      10月 3日 駐機中の昭和航空所有セスナ機が爆破される。犯人は19歳の少年。駐機中の航空機爆破は全国初のケース      11月 9日 県に副知事を本部長とする高知空港対策推進本部を設置
1971年 初年度となる今年の空港整備促進の県予算は2,000万円
      05月 20日 地元4地区(田村、前浜、久枝、物部)で初となる新空港整備説明会を2日間開催
          15日 国内航空と東亜航空が合併し、東亜国内航空設立
      06月 1日 全日空大阪線12往復化。国内航空と合わせ、大阪線は14往復
      07月 20日 空港旅客待合所増築完成(160㎡)
      08月 空港周辺地域開発基本構想発表。主要道整備、河川改修、農業生産基盤確立、生活環境施設整備、騒音対策等
      12月 22日 南国市議会に高知空港対策調査特別委員会設置
1972年 今年度の空港整備促進県予算は4,800万円
      01月 全日空大阪線13往復化
      02月 待合所の拡張工事
      05月 1日 全日空、高知-宮崎-鹿児島線開設(YS-11・鹿児島直行便にしたかったが、運輸省の路線認可が遅れる)
      06月 1日 全日空、高知-鹿児島線開設(YS-11・正式に鹿児島直行便スタート。利用率はせいぜい30%台と低迷)
          地元反対派や市議会特別委がジェット機を飛ばして騒音を調べるよう県に申し入れ
          第2回目の現地説明会に臨んだが、田村地区では「試験飛行が先決」と住民不参加で流会に
      07月 20日 待合所増築工事完成。スペースが2倍になり、搭乗口、到着口が別々になる
      09月 29日 全日空B737による騒音調査実施
      12月 ANA東京線(YS-11)増便し2往復化。東亜国内航空東京線(徳島寄港便)の利用率が40-50%→20-30%に減少
          運輸省、空港整備基本計画を決定
1973年 今年度の空港整備促進県予算は3億9,000万円
      この年反対組織は「高知空港拡張反対期成同盟連合会」に一本化され、公聴会も延び延びとなる
      南国市長選挙では空港拡張反対の新人候補が当選し、翌年度の予算は前年度の三分の一ほどになる
      ただし、市議会は保守系が圧倒的多数
      03月 1日 東亜国内航空、東京線(徳島寄港便)休止
          航空公害防止協会が「高知空港騒音調査報告書」まとめる
          17日 運輸省より空港拡張と供用開始日、1978年4月1日の予定告示(ジェット化対応空港)
          27日 知事が現地で初めて地元住民への説明会に出席。ジェット機の試験飛行も局面打開の決め手とならず
      04月 1日 全日空、東京線(YS-11)1日1往復に減便。機材のやりくりがつかないため
      05月 25日 高知空港拡張反対期成同盟南国市連合会が結成
      10月 1日  全日空、大阪-高知-宮崎-熊本線開設(YS-11・従来の宮崎線を熊本まで延長したが、1年も経ず休止)
          31日 全日空、高知-鹿児島線休止
1974年02月 5日 南国市に高知空港地域対策協議会設置(従来の空港周辺地域開発協議会を廃止)
      03月 17日 反対期成同盟連合会、日本科学者会議高知支部、革新市政を誕生させた「明るい南国姿勢をつくる会」
               などが反対集会を開き、「高知空港拡張反対市民連合」旗上げ
      04月 10日 南国市議会が空港反対請願を不採択
          25日 南国市に高知空港対策本部設置
      05月 27日 県庁前に農民ら約千人が集まり、美田を渡すな! と決起集会。運輸省主催の公聴会中止を迫る
      06月 5日 運輸省主催の「高知空港施設変更告示(決定)に関する公聴会」
              「高知空港拡張は是か非か」について利害関係者の声を聞く
      07月 10日 航空法第40条による高知空港施設変更(決定)告示
          17日 県議会が空港地元4団体の反対請願を不採択
          30日 南国市議会に高知空港対策特別委員会設置(従来の調査特別委員会に代わるもの)
          南国市田村地区に住民らが空港拡張反対のやぐらを建てる。反対運動のシンボル的存在に
          県、学識経験者らによる「高知空港騒音対策等協議会」発足
      08月 9日  高知空港騒音対策等協議会初会合
      09月 運輸省と県土地開発公社が用地取得に関する覚書を締結し、国に代わって県公社が用地買収に入る手はずが整う
          地元地権者は”一坪たりとも売らぬ”と不売盟約を結ぶ
      10月 市役所前に約1,400人を集めて高知空港拡張反対市民連合が集会開く
1975年01月 11日 運輸省、高知空港に1億800万円を決定
      02月 1日 県の高知空港騒音対策等協議会専門委員会が中間報告。「海側からの離着陸で影響範囲狭まる」
      04月 1日 高知県企画部に空港対策室を設置
          「高知空港騒音対策等協議会」が、「海側からの離着陸を優先すれば、騒音の影響はかなり狭まる。
          大気汚染、水質汚濁、漁業、家畜への影響は大した問題はない」とする最終報告
      05月 26日 知事と地元住民の話し合い。4時間の話し合いも物別れに終わる
          この時、会場入り口には、知事を揶揄して「故溝渕”巳”霊位」としたためた祭壇が置かれる
      09月 待合所を増築し、ハイジャック防止関連工事実施
      12月 23日 南国市議会に再度、高知空港対策調査特別委員会設置(従来の特別委員会に代わるもの)
          南国市に保守市政、県に自民党知事誕生
1976年01月 ハイジャック防止関連工事完了。総ガラス張りのホールディングルーム(チェック済みの乗客控室)設置
      11月 6日 拡張反対市民連合と知事の話し合い
      12月 1日 大阪線を全日空が17往復に、東亜国内航空が6往復に、それぞれ増便
          9日 知事二度目の話し合いで「拡張をやる、やらないの話し合いならいつまでもするつもりはない」と強い姿勢示す
          14日 久枝、物部地区地権者から県、市との話し合いを要望する動きが出、知事初会合。協力要請
          南国市議会は県からの空港関係協力要請文書を受け入れると決議(出席27人、賛成15人)
1977年04月 1日 県企画部の空港対策室を空港対策課と改称
      05月 11日 知事、地権者に対し、「用地買収は2-3年で終わらせる。近く補償基準価格を示す」
      06月 20日 夜間作業で滑走路の嵩上げ工事開始(工期3か月)
          24日 特定飛行場に指定。空港周辺71.8ha、49戸が防音対策区域に指定。騒音対策事業を国庫補助で推進
      08月 3日 用地買収基準価格が初めて地権者に提示されるが、価格面、ランクが小分けし過ぎと不満示される
      秋 旧空港ビル旅客待合所を中心とした改修工事実施
      09月 28日 特定飛行場騒音対策区域を告示(YS-11のみ就航の空港としては初めて)
      11月 7日 南国市商工会議所内に県の空港整備現地連絡所開設
      12月 29日 政府予算案で高知空港整備事業費92億円決まる
          用地買収基準価格、7ランクから4ランクに減らし、価格も10-14%アップして再提示
1978年01月 運輸省第三港湾建設局と県が用地測量委託契約を締結
      02月 県、建設コンサルタントに委託し、2月中旬現地での測量を試みるが、地元反対で中断
      03月 1日「空港周辺地域開発協議会」解散。新たに「高知空港周辺整備対策協議会」発足。周辺整備、騒音対策に当たる          30日 県市町村、民間協力の財団法人高知空港周辺整備基金を設立
          騒音対策事業として共同利用施設の田村東部公民館完成
      04月 県、南国市の土木事務所庁舎内に暫定的に空港整備事務所開所
      05月 4日 南国市田村に高知県空港整備事務所開設。前線基地とする
          16日 旧空港ビル旅客待合所を中心とした改修工事完了。新装オープン
          各地区地権者への戸別訪問開始
      06月 1日 東亜国内航空名古屋線開設。1日1往復(YS-11)。前年からANAとの競願になっていた。平均利用率85%
          用地買収の個別交渉に入る。全国的にも珍しい70haの代替地あっせん
      07月 全日空、東京線(YS-11)増便して正式に2往復化
      09月 19日 下田地区で測量。地権者は三角点をテントで隠すが県は高層車で上から測量。その後買収は急速に進む
1979年 正月前後を境に空港用地の予約売買契約が進む
       全日空、東京線増便して3往復化
      01月 1日 東亜国内航空、名古屋線1日2往復化
          5日 空港整備費に大蔵省が満額71億円を内示
      02月 運輸省第三港湾建設局、用地買収、測量進展に伴い新空港本体の基本設計に着手
      03月 ASR(空港監視レーダー)着工に地権者の全員同意
      06月 空港拡張面積に対し、用地買収72%に達する
      08月 空港周辺整備事業の見直し作業完了(123億円→142億円)
      09月 1日 空港運用時間拡大(11時間半から13時間に。7:30~20:30)
          19日 YS-11で空港騒音調査(29日まで15地点)
      11月 1日 東亜国内航空、名古屋線1日3往復化
      12月 22日 大蔵省が55年度予算原案で空港整備事業に34億2,700万円を内示
          空港基本設計既成(6-12月各地区ごとの話し合いにより、田村分水工を除き完了)
1980年 吾岡山が航空法の進入表面に抵触するため、五か年計画で6.35mの切り取り
      春 新管制塔完成。従来の高さ12mから23mに
      01月 騒音防止対策事業として共同利用施設の田村西部公民館完成(144㎡)
      03月 新管制塔と航行援助施設(ASR,NDB,VHF)完成。(空港拡張工事のうち一番乗りの工事)
      04月 1日 空港ビル設立準備事務局発足
          20日 全日空、東京線増便して4往復化
      07月 駐車場整備
      09月 24日 日章開拓農協所有の農道、水路買収で高知県と同農協が売買契約交換
      10月 23日 南国市下島新田の秋田川左岸にて高知空港整備工事起工式。南国市体育館にて祝賀会
1981年04月 21日 高知空港ビル株式会社創立総会
          25日 全日空、東京線4往復に増便
      10月 24日 空港本体の盛り土開始。新滑走路は2-3m嵩上げ
      12月 28日 土地収用法事業認定告示。第1回収用裁決申請
          団結やぐらの撤去を含め、1件の強制収用もなく全ての用地補償問題解決。用地費、補償費 約147億円
1982年03月 30日 ジェット化に伴う航空機騒音防止対策区域が運輸大臣から指定される(YS機対策から変更)
      04月 1日 県企画部の空港対策課を空港輸送課と改称
          15日 空港ジェット化記念に59年度 '84高知くろしお博開催すると発表
      07月 15日 東亜国内航空、福岡線開設1日1往復(YS-11)
      11月 1日 全日空、東京線1日1往復増便し、5往復化(81年度利用率94%)
          12日 最終の土地収用委員会(第1回以来数件の審理も本件限りで用地補償は全て解決)
1983年01月 19日 高知空港ターミナルビル起工式
      04月 1日 東亜国内航空、福岡線増便。1日2往復化
      06月 1日 東亜国内航空、利用率低下のため大阪線を1往復減便。5往復に
          1日 土佐電鉄の空港連絡バスを高知駅まで乗り入れ開始。南国バイパス沿いに3停留所新設
          6日 空港予定地内の田村遺跡群の水田跡20㎡を切り取り、永久保存のため1km東へ移動。仮埋設
      07月 「12月16日にジェット化開港」と決定
          25日 空港敷地の地下に潜る県道前浜-植野線の地下道開通式
      09月 1日 全日空、東京線2往復増便して7往復化
      11月 新ターミナルビルオープン
      12月 6日 旧滑走路と新滑走路をつなぐ工事等、新空港移行のため13日まで全面閉鎖
          10日 14日まで慣熟飛行(発着204回実施)。ANA B767,B737  TDA DC-9
          13日 ターミナルビル、2,000m新滑走路の落成式
          14日 高知空港運航再開。新滑走路を使いYS-11の定期便のみ
          15日 地権者ら約720人余を招待し、B767,DC-9で足摺岬上空まで体験飛行
          16日 新滑走路供用開始式典。ジェット初便は東京からの全日空B767。機長は高知市出身者
          18日 空港初の国際チャーター便が香港に飛ぶ(全日空B767)
1984年01月 9日 全日空、大阪線にB767が暫定就航(2月末まで)
          10日 空港周辺20地点でジェット機騒音調査(高知県が向こう1年間四季ごとに実施)
      03月 20日 '84高知くろしお博覧会開催(5月13日まで)
1986年02月 陸上飛行場C級全面供用開始
1989年04月 エアーニッポン、高知-大阪線開設(全日空から13便移管)
1991年03月 全日空、高知-大阪線にA-320(166席)就航
      04月 エアーニッポン、高知-宮崎線開設(全日空より移管)
1992年03月 エアーニッポン、高知-大阪線に一部 A-320(166席)就航
          日本エアシステム、高知-大阪線にMD-87(134席)就航
1993年04月 日本エアシステム、高知-福岡線に DC-9(128席)就航
1994年07月 高知空港整備基本計画策定(滑走路2,500mx45m)
1995年11月 エアーニッポン、高知-宮崎線にB-737(126席)就航
1996年04月 エアーニッポン、高知-札幌線開設
      08月 高知空港施設変更告示(航空法第40条)
1997年07月 日本エアシステム、日本航空、高知-東京線開設
1998年10月 日本トランスオーシャン航空、高知-沖縄線開設
      11月 ジェイエア、高知-宮崎、高知-名古屋線開設
1999年04月 ジェイエア、高知-広島西線、高知-福岡線開設
2002年03月 高知空港施設変更告示(航空法第46条)
      06月 ターミナルビル増築工事完成
2003年11月 愛称「高地龍馬空港」採用。A-net、高知-伊丹線開設
2004年02月 滑走路延長2,500m供用開始
2007年03月 13日 ANA(運航はエアーセントラル)DHC8-Q400機、着陸前に前輪が出ず主脚のみで緊急着陸。けが人はなし       04月 運用時間7:00-21:00に変更
2010年 韓国のイースター航空と定期便就航に向けて協約を締結
2014年 県道373号高知空港インター線の開通に備え、構内道路と駐車場を改修

 

関連サイト:
高知龍馬空港     
えあぽネット/高知空港      
国土交通省大阪航空局/高知空港   
Wikipedia/高知空港   
コストブログ:高知龍馬空港&土佐人   
(↑コストブログ:空港に初めて人名をつけた土佐人気質考が興味深いです。必見!)
国土地理院 1947年12月当時の写真(USA M692-1-1 83) 終戦から2年後。たまに占領軍が飛行場として使用していた 
国土地理院 1962年5月当時の写真(MSI623X C1 14) 大阪線開設から8年後。まだ滑走路を横断する2本の農道が見える
国土地理院 1980年11月当時の写真(SI801Y C4 14)   新空港起工式の翌月。旧空港最終形態
国土地理院 1983年5月当時の写真(SI831X C5 23) 新空港開港7か月前。過渡期の高知空港 
(■→「同意する」→戻る→再度■をクリック) 
ブログ内関連記事→
  

この記事の資料:高知空港史


コメント(14)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

コメント 14

しまふくろう

B-3 イッパイ・イッパイで離陸しているように
見えますが、望遠でひっぱってるせいで感じる
だけでしょうか?
実際は余裕ありました?
空が蒼くて気持ちよさそう、やっぱり木を使ってる
空港っていいですねー。
とりさん全然関係ないんですが、CABのYSが3日
の昼過ぎに伊丹に飛んで来よりました。
by しまふくろう (2006-10-04 06:29) 

カンクリ

出たぁ~~~ッ!とりさんの「しばらくおまちください」♪
・・・で、今度はどちらへ展開されているのでしょう???
報告レポを楽しみにして「しばらくまっております」(笑)
お気をつけていってらっしゃいマセ~☆
by カンクリ (2006-10-04 06:31) 

ハイマン

いよいよアメリカ!ですか?
気を付けて!
by ハイマン (2006-10-04 21:12) 

マリオ・デ・ニ−ロ

祝!空港探索、初四国♪
それにしても、いいなぁ~夕景ショット!
by マリオ・デ・ニ−ロ (2006-10-04 23:26) 

コスト

俺のかつてホーム空港です。玄関の岩のオブジェとデッキ・・、隅から隅までわかってる感が懐かしいです。
ちなみにデッキは1回龍馬の誕生日には、無料開放になります。
俺もその時だけ上がりました(笑)。あれは見やすいほうだったんですね。
離着陸のコースは南の海側からと北の山側の2種類ありますが、
便によって決まってるわけではなかったです。
夜の最終便の着陸時は海からがほとんどで、田舎なんで羽田の夜景から一変して、滑走路の誘導灯しかみえず闇の中へ着陸する感じがしました。
空港ロータリーの中に吉田茂らしき等身大の銅像があります。場所が悪く、気づいたときには通過してしまうんで、俺もじっくり確認したことありません^^
by コスト (2006-10-08 09:34) 

鯨(いさな)

計画的なところに凄く感銘致します。
自分はどちらかと言えば行き当たりばったりなのでチトとりさんを見習わないといけないですね。
また移動距離が凄い!
by 鯨(いさな) (2006-10-08 17:21) 

とり

■しまふくろうさん
>B-3
流石、目の付け所が「しまふくろう」ですね!他にも何機か離陸シーンを撮ったのですが、コレが一番イッパイイッパイでした。国際線だからでしょうか??危なかったですよ、もう少しでかするとこでした。
>木を使ってる空港
オイラもそれ、感じました。やっぱり青空とヒコーキはいいですわ。
>CABのYS
そんな環境のしまふくろうさんがうらやましいです☆
コメント&nice! ありがとうございました。

■カンクリさん
おお、覚えててくださいましたか(*´ヮ`)
今回は九州、中国に行ってたんですよ。ぼちぼちアップしますので、是非見てやってくださいませ。
コメント&nice! ありがとうございました。

■ハイマンさん
アハハ、残念ながらアメリカは17日からなんですよ。これで当分ネタには困りません!
コメント&nice! ありがとうございました。

■アスランマリオ さん
>初四国
ありがとうございます!四国は空港の数が少ないので、次の遠征で一気にコンプリートするつもりであります。
コメント&nice! ありがとうございました。

■コストさん
>闇の中へ着陸する感じ
リアルな話ですねえ。ご存知の通り、離着陸は風に向かって、が基本なのですが、こちらの空港では管制官が、「どっちから着陸したい?」と聞いてくることもあるのだそうですよ。
>等身大の銅像
それ、気がつきませんでした(泣
コメントありがとうございました。

■鯨(いさな)さん
普段は結構いい加減なんですが・・・やっぱりヒコーキ利用の時は、時間が気になりますね。
コメントありがとうございしまた。
by とり (2006-10-08 20:22) 

Tripleseven

初めまして、高知在住でTriplesevenと申します。
色々な空港を解り易く紹介されていて興味深く読んでいます。
高知龍馬空港の滑走路が2500mになってから、冒頭のようにギリギリにローテートをかける機体は初めて見ました。
2004年にB744のロス行きチャーターも2000m付近では浮いてましたからね。
ちなみにとりさんが行き損ねた32エンドからの動画を紹介します。
ただし、下手な画像である事と1回目の再生ではぶつ切り動画になってしまいます。ご了承下さい。
http://briefcase.yahoo.co.jp/tripleseven_s2k
by Tripleseven (2007-02-20 20:58) 

とり

Triplesevenさん いらっしゃいませ~ヽ(*´ヮ`)ノ
おお、龍馬空港ベースの方ですね。
>ロス行きチャーター
貴重な情報ありがとうございます!やっぱりこんなギリギリなのは異例なのですね。
動画も紹介して頂いてありがとうございます。後ほどさっそく拝見させていただきます。
by とり (2007-02-20 22:21) 

とり

Triplesevenさん
動画、堪能しました。
クラブ、夜間着陸、エンジン音と相まってすごい迫力です。
ありがとうございました!
by とり (2007-02-21 18:04) 

Tripleseven

とりさん、つたない動画へのコメントありがとうございます。
まともに撮れたかなと思えるのはANAのB777の着陸動画だけですが、
実は1番好きなのは、B777のブラストに飛ばされそうになった動画です。
龍馬空港の32エンドは滑走路端から100~150mしか離れていません。
そのため着陸のシーンはB767、AB6でもかなりの迫力があります。
ただ、B777までは150~200mぐらい離れていたはずなのに、あの状態になりました。おそるべしPW4074です。
尚、こちらでは3月1日にB744によるチャーターがありますが、平日ですので撮影は難しいかもしれません。
by Tripleseven (2007-02-22 00:08) 

とり

Triplesevenさん
実はオイラ以前、離着陸風景の録画に挑戦したことがありますので、素人がいきなり撮るとどういうことになるか分かってます。つたないなんてとんでもない!すごく上手に撮れてると思いますよ。
>飛ばされそうになった動画
そういう理由だったんですか!そんなに近いポイントだったんですね。臨場感タップリでリアルですね。
by とり (2007-02-22 19:09) 

コスト

とりさん、宣伝でスイマセン高知龍馬空港の関連記事です。ついでにリンク張ったお知らせです。
トラックバックの付け方がわからないので、コメントの形にしておきますm(__)m

コストブログ:2007夏・沖縄旅行①「高知龍馬空港」(ver.1.5)
http://cost-off.seesaa.net/article/52700173.html
by コスト (2007-08-26 16:21) 

とり

コストさん
リンクサンクスです!^^)/
by とり (2007-08-26 20:07) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0